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赤い鶴の証明  作者: 綾瀬 灯


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第五章・夜の回路

 夜は思ったよりも静かだった。街灯の光が濡れたアスファルトに細い線を描き、遠くの自動車のエンジン音が断続的に響く。彩は深く息を吸い、手袋をはめ直した。胸の奥の緊張は眠気を押しのけて鋭くなっている。ポストカードの赤い鶴は、今や彼女の小さな護符だ。被害者の顔を思い出すたびに、その紙片が冷たく指先に触れる。


高橋刑事とジャーナリスト、そしてエミリアが手配した数名の協力者が、倉庫の周辺に分散していた。計画は単純だ。夜間の出入りを監視し、内部に残された痕跡を写真に収める。だが単純な計画ほど危険は潜む。彩は自分が何を賭けているのかを知っていた。賭けるのは名誉でも昇進でもない。真実を消されることを許さないという、個人的な誓いだ。


倉庫の外壁に近づくと、錆びた鉄扉の隙間から冷たい空気が漏れてきた。先に回り込んだ高橋が手で合図を送り、彩は静かに裏口の小窓から内部を覗き込んだ。薄暗がりの中、作業台に散らばる工具、床に点在する金属片、そして奥の方に置かれた大きな機材の輪郭が見える。機材の側面にはかすれたロゴの断片があった。彩の心臓が跳ねる。あのロゴだ。税関資料にあった企業のものと、倉庫の落書きの輪郭が重なる。


合図とともにジャーナリストが遠隔でシャッターを切る。小さな電子音が夜に溶ける。だがその瞬間、倉庫の奥から微かな振動が伝わってきた。機材が動いたのか人が近づいたのか。高橋が低く囁く。


「動くな」


影が一つ、作業台の向こうに揺れた。誰かが中にいる。


彩は胸の鼓動を抑え、扉の隙間から手を差し入れて鍵を探した。錆びた錠前は固く、指先に力を込める。鍵が外れた瞬間、内部の影が一斉に動いた。ライトが点き、白い光が狭い通路を切り裂く。人影が三つ、四つ。黒い作業着に身を包んだ者たちがこちらを見据えた。顔はマスクで覆われ目だけが冷たく光る。


「そこにいるのは誰だ」


低い声が響いた。命令口調だ。彩は一瞬、逃げるべきか踏みとどまるべきか迷った。だが迷いはすぐに決意に変わる。彼女は懐から小さなボイスレコーダーを取り出しポケットに押し込んだ。記録は後で真実を守るための唯一の盾になる。


高橋が前に出てゆっくりと手を上げた。


「我々はただの通報者だ。調査のために来ただけだ」


だが相手の一人が冷笑を漏らすと空気は一変した。若い男が端末を操作し、倉庫の入口に向けて小さな装置を投げた。装置は床に落ちると低い音を立てて回転し、周囲の空気を震わせた。彩の耳に微かな高周波の振動が届く。機材の一部が微かに反応し、奥の扉がゆっくりと開いた。


中から現れたのは、想像以上に整然とした空間だった。簡易の作業台が並び、試験管や計測器、そして人体の模型のようなものが無造作に置かれている。壁には回路図と手書きのメモが貼られ、そこには「pulse」「threshold」「response」といった単語が繰り返されていた。彩の視線は机の上に置かれた小さなノートに吸い寄せられる。そこには名前らしきものと日付、そして短い記録が並んでいた。「被験者A 反応良好」という一行が、彼女の胸を凍らせる。


言葉にならない何かが彩の喉を塞いだ。被験者。実験。マルコの顔がふと脳裏に浮かぶ。彼が倉庫で何を見たのか、何を撮ったのか。彩は手が震えるのを感じながらノートを写真に収めた。ジャーナリストがシャッターを切る。だがその瞬間、背後で金属が弾ける音がした。誰かが走った。足音が近づき、次の瞬間、強い衝撃が彩の背中を襲った。


意識は一瞬、遠のいた。床に倒れ込むと、世界は断片的な光と音に分解される。誰かの怒声、機材の警報音、そして遠くで聞こえる車のドアが閉まる音。彩は必死に目を開け周囲を見渡した。高橋が倒れている。ジャーナリストの姿は見えない。エミリアの声がどこかで叫ばれ、だがそれは遠い。彩は手を伸ばし、ポケットのボイスレコーダーに触れた。まだ動いている。記録は続いている。


暗闇の中で彩は一つの事実を確信した。ここで行われているのは単なる材料研究ではない。生体に対する何らかの介入が試みられている。それは倫理の枠を超えた実験であり、被害者はその対象になり得る。恐怖が冷たく背筋を走るが、同時に怒りが熱く胸を満たす。誰が、何のためにこんなことをするのか。


足音が近づき、明かりが再び点く。黒い作業着の男が彩の顔を覗き込み、冷たく言った。


「ここまで来るとは愚かだな」


その声には驚きよりも軽蔑が混じっている。彩は口を開き震える声で言った。


「何をしているんですか。誰が被験者なんですか」


男は一瞬視線を逸らし、そして低く笑った。


「君には関係ない。忘れたほうがいい」


だがその言葉は届かない。彩の手はポケットの中で小さく動き、ボイスレコーダーのスイッチを押し続けた。記録は、たとえ彼女が沈黙させられても、後で真実を語るだろう。男が彩の腕を掴み、立ち上がらせようとしたその瞬間、外から遠くに銃声が響いた。音は短く、鋭く、夜の空気を切り裂く。男たちの動きが一瞬止まり、混乱が生まれる。


その隙に彩は目を閉じて深く息を吸った。痛みと恐怖が混ざるが、心の中の火は消えていない。彼女は自分の名前を小さく呟き、そして静かに誓った。この記録を守り抜く。誰かが真実を知るまで声を消させないと。


外では車のエンジンが急発進する音がし、遠ざかっていった。倉庫の中は再び不穏な静けさに包まれる。だが彩の胸には確かな手応えがある。彼女は倒れたまま、ポケットの中の小さな機器が震えるのを感じた。記録は続いている。夜の回路は今まさに通電し始めたのだ。

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