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赤い鶴の証明  作者: 綾瀬 灯


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第四章・鶴影の目覚め

 朝の光がまだ低く差し込む時間帯、彩は資料の山を前にしてコーヒーを一口飲んだだけで机に向かい続けていた。倉庫のノート、歯科の発注番号、輸入記録の断片。断片は増えたが全体像はまだ霧の中だ。だが、霧の中に一本の道筋が見え始めていることだけは確かだった。


エミリアから送られてきた税関の断片には、発注番号と一致する輸入申告が存在すること、輸入者名は企業名義であること、そしてその企業が政府系の研究機関と過去に非公開契約を結んでいるという注記があった。彩はその企業名を何度も口に出してみた。聞き慣れない社名だが、業界では知られた存在らしい。表向きは材料研究を行う民間企業。だが、過去の契約書の一行が示すのは「特定機密プロジェクトへの供給」という曖昧な文言だった。


「特定機密」――その四文字は捜査の自由を一気に狭める。彩は病院の先輩にその旨を伝えると先輩は眉を寄せた。


「上が動くかもしれない。慎重になれよ」


とだけ言った。慎重になれ、という言葉の裏にあるのは、捜査の抑制と情報の封鎖だ。彩はそれを知っていた。だが、知っているからといって手を引く理由にはならない。


外部分析機関からの詳細報告が届いたのは午後の早い時間だった。スペクトル解析と電子顕微鏡の写真が添えられている。粉末の主成分はニッケルとクロム、微量の銅、そして希少なコバルト。さらにレアアース系の添加元素が微量含まれている。分析者のコメントは簡潔だった。


〈高精度用途向けの特殊合金。製造工程に特異性がある。一般的な歯科材料や食品加工材ではない〉


彩は画面を見つめ、指で顕微鏡写真の一部をなぞるように追った。粒子の表面には人工的な研磨痕があり、微小な層構造が確認できる。こうした加工は単なる粉砕や摩耗では生じない。意図的な処理だ。誰かがこの材料を作り、そして使っている。


その夜、彩は高橋刑事に会うために警察署へ向かった。高橋は現場を担当する刑事で、保守的だが経験は豊富だ。彩は彼にノートのコピーと分析報告を手渡した。高橋は黙って資料をめくり、最後に顔を上げた。


「これを公にすると上から圧力が来る。内閣情報局の名前が出るかもしれない。君はそれでも進めるつもりか」


彩は答えを濁さなかった。


「進めます。被害者はただの数字じゃない。誰かが実験台にした可能性があるなら、放っておけません」


高橋は長く息を吐いた。


「分かった。だが俺は現場の捜査で動く。君は病院の中でできることを続けてくれ。データの保全、サンプルの管理。外部に出すときは必ず連絡をくれ」


その約束は彩にとって小さな救いだった。だが同時に、彼女は警察内部の限界も感じていた。高橋の言葉には上層部の顔色を窺う慎重さが滲んでいる。捜査が政治的な領域に踏み込めば、現場の力だけでは押し返せない。


エミリアは大使館の内部ルートを使い、企業の過去の契約書の閲覧を試みた。だがそこには「機密扱い」のスタンプが押され、閲覧は制限されていた。外交的な圧力をかけることはできるが、証拠として公にするには慎重な手順が必要だ。エミリアは苛立ちを隠さなかった。


「我々は外交の枠組みで動くしかないの。それには時間がかかる。あなたたちの動きが制限される前に、もっと証拠を固める必要があるわ」


彩は病院に戻るとサンプルの保管体制をさらに厳重にした。監視ログの不審なアクセスは続いており、誰かがデータベースに繰り返し接続を試みている。ログの改竄は巧妙で、追跡は難航している。彩は自分の端末に小さなバックアップを作り、重要なファイルのコピーを外部の安全な場所に送る手配をした。技術的には素人の工夫だが、痕跡を残さないための最低限の策だ。


その夜、彩の携帯に匿名のメッセージが届いた。短い英語の一行だけだ。


〈止めろ。深入りするな。君には関係ない〉


送信元は不明。脅迫か警告か。彩はメッセージを消し画面を見つめた。脅しは効かなかった。だが彼女の背筋には冷たいものが走った。誰かが彼女の動きを監視している。誰かが彼女を遠ざけようとしている。


翌朝、病院の管理部長が彩を呼び出した。表情は穏やかだが言葉は厳しかった。


「この件は大きくなる可能性があるから、病院としては外部に情報が漏れることを避けたい。検体とデータは一時的に本部で管理することにする。君は現場の補助に専念してくれ」


その言葉は彩にとって明確な圧力だった。管理部長の背後には、病院の上層部と行政の顔が見える。彩は冷静に答えた。


「検体の保全は重要です。だが外部に移すなら、私たちが関与する形で手続きを踏むべきです。勝手にデータを移されると、証拠が改竄される恐れがあります」


管理部長は一瞬言葉に詰まり、視線を逸らした。


「君は若い。だが病院の立場も分かってほしい。混乱を避けるための措置だ」


彩はその場を出ると先輩に短く状況を伝えた。先輩は黙って頷き、低い声で言った。


「気をつけろ。外に出すなら必ずエミリアと連絡を取れ。外交ルートを使えば少しは安全に動けるかもしれない」


彩はその言葉を胸にエミリアに連絡を取った。エミリアはすぐに応答し、低い声で言った。


「今夜、信頼できるジャーナリストと会うわ。内部告発のルートを持っているの。だが会う場所は慎重に選ぶつもり。あなたは来られる?」


彩は一瞬ためらった。ジャーナリストに証拠を渡すことはリークのリスクを伴う。だが同時に、公にすることで隠蔽を防げる可能性もある。彼女は決意を固めた。


「行きます。だが準備が必要です。サンプルのコピーを安全な場所に隠して、ログのバックアップも取らないと」


夜、指定されたカフェの薄暗い個室で、エミリアと彩はジャーナリストと顔を合わせた。ジャーナリストは中年の女性で、目が鋭く、物腰は柔らかいが、どこか疲れている。彼女は資料を一瞥すると低く呟いた。


「これは大きいわ。国家の関与が疑われる。だが証拠が揃っていないと我々も動けないからリークは慎重にやるわ。だが隠蔽が始まる前に動かないと、証拠は消される」


会話は短く、要点だけが交わされた。ジャーナリストはエミリアに、匿名での公開と段階的な情報開示の計画を示した。彩はノートのコピーと分析報告の一部を渡し、ジャーナリストはそれを慎重に受け取った。だが会合が終わる直前、ジャーナリストの顔が一瞬硬くなった。彼女はポケットのスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。


「今、私の連絡先に不審なアクセスがあった。誰かがこの会合の情報を追っている可能性があるわ」


その言葉は部屋の空気を凍らせた。三人は互いに目を合わせ、無言のまま立ち上がった。外に出ると、カフェの前の通りに黒い車が停まっているのが見えた。車の中には人影があり、こちらをじっと見ているように思えた。彩は足を速め、エミリアとジャーナリストも同じように歩き出した。車はゆっくりと動き出し、角を曲がって見えなくなった。


その夜、彩は自宅の窓から外を見つめながら、ポストカードの赤い鶴を手に取った。鶴の羽の一枚が夜の闇に溶けるように見えた。誰かが見張り、誰かが動き、誰かが隠そうとしている。だが彩の中の火は消えていない。むしろ燃え方が深くなっている。真実を追うことはもはや個人的な義務だ。彼女は静かに、しかし確固たる声で自分に言い聞かせた。どんなに影が濃くても光を当てる。翌朝、彼女は再び動き出すつもりだった。

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