31 父と長男
一週間経っても葵は目を覚まさなかった。
そろそろ役所に出生届を出さなければならない。おれは居間で葵の使っている漢字辞典をぱらぱらとめくっていた。
午後の一時。遊び疲れた双子とお腹いっぱいミルクを飲んだ赤ん坊は、それぞれ夢の中だ。
小学校は冬休みに入り、羽留は一日中奈津と亜希の面倒を見てくれていた。正直すごく助かった。仕事は親父が休んでいいぞと言ってくれたし、お袋もずっと手伝ってくれてはいたが、おれ一人で赤ん坊の世話と双子の面倒は見られないからだ。お兄ちゃんがふたりの興味を惹き付けてずっと見ていてくれたおかげで、小さな末っ子はのんきに朝寝・昼寝・夜寝を満喫できたのだ。
「お父さん」
羽留がいてくれて本当によかったなぁと考えていた時、後ろから声を掛けてきたのはその羽留だった。二階で双子を寝かしつけてきたらしい。手にマグカップを持って休憩モードだ。
「ねぇ、赤ちゃんの名前は決めたの?」
「ん? ああ、まぁ……そう言えばハル達は何にしたんだ? 結局どうなったのか聞いてなかったな」
数日前子供たち三人は弟の名前を何にするかを激論していたのだった。二階から漏れ聞こえてきた案の中には、「チビがいいよ、だってちっちゃいもん!」(これは奈津の声だった)とか、「だったらアカオがいいんじゃない? あかかったでしょ、おかおが」(これは亜希の発言)とか、まぁ微笑ましいものも含まれていた。
「うん、いろいろ考えたけどね。ナツもアキもまだまだ言葉を知らないでしょう? だからろくな名前を思いつかなかったんだよ。しょうがないから僕がね、僕たちの名前のことを説明してあげたんだ」
羽留は近くのベビーベッドで眠る弟の様子をちらっと見てから、おれの隣に座った。コタツの中で足がぶつかった。
「へぇ? なんて説明したんだ?」
羽留が自分たちの名前をどう思っているのか興味深い。もぞもぞ足を直しながら尋ねると、羽留は得意げな顔で話し出した。
「ふふ、まずね、僕たちの名前ははる、なつ、あき。漢字は違っているけど、季節の名前だよ、って。それで漢字を書いて説明したんだ。そしたらナツがね、自分は七月生まれで夏なのは理解できるけど、アキとハルにいちゃんのはおかしいんじゃない?って言うんだ」
「はは、もっともだな」
それは羽留が生まれたときにおれが葵に質問したことだった。羽留は一月生まれなのに春でいいのか、と。
「でもお父さん知ってる? 一月はね、昔の暦では春だったんだ。僕いろいろ調べてわかったの。アキもね、そう。昔の七月は秋の区分だったんだ。だから間違ってないんだ」
そう、葵もそう言ってたな。ただ、奈津は新暦の扱いで亜希は旧暦。ちょっとこじつけてる感が否めないけど、兄弟三人の名前をはる、なつ、あきの順番でもってくるなら、誕生月とぴったりあってなくたっておかしくないだろう。むしろこじつけでも生まれ月と合ったことが奇跡的だ。
だが今はそれよりも。目の前で「すごいでしょ!」という顔をしている羽留の頭をがしがしと撫でながら、にやける顔を引き締められない。本当に賢いなぁ、自分の子とは思えないほどだ。
「よく調べたなぁ、ハル。お母さんも昔、ハルの名前を教えてくれたとき同じように言ってたぞ」
「ホント!? じゃあ僕の考えた通りなんだね! よかった」
にこっと安心したように笑った羽留は乱れた髪を整えながら言う。
「それで、僕たちの名前の順番でいくとね、やっぱり弟はふゆ、なんじゃないかって思うんだ。ちょうど十二月生まれだしぴったりだよね!」
「ああ、そうだな。お母さんもそう言うと思う」
賢く察しのいい羽留はやはりおれと同じ結論に達したらしい。赤ん坊の名前は、ふゆ。
嬉しくなってまた頭を撫でようと手を伸ばしたが、羽留はさっと身をかわした。むっ。空振りした腕をそのままに、不満を顔で表す。すると羽留はおれを睨むようにしてから照れくさそうに元の位置に戻ってきた。
「……あんまりぐしゃぐしゃにしないでよね、僕の髪はお父さんのと違って絡まりやすいんだから!」
ぶー、と口を尖らせて言うのが可愛らしい。小学校四年生になるが男らしいというより女の子っぽい顔だ。髪質も葵譲りだろう。その柔らかな髪を、遠慮なくぐちゃぐちゃに乱す。
「わーー! だからやめてって言ってるのに!」
「お母さんに似たな、ハルは」
髪の毛の細くふんわりとした感触。黒と言うより茶色っぽい色。長い睫に大きな目。
「……え、そう? 僕結構お父さんに似てると思ってるけど?」
思ってもみないことを言われ、驚いて手を停めた。すると羽留は渋い顔をしながらまた髪を手櫛で直し始めた。「まったくもう」なんて言いながら、ちょっと嬉しそうな風に見えるのは気のせいだろうか。いや、今は違う、そのことじゃない。
「ハル? えと、本当にそう思ってるのか? おれ似? どこが?」
昔から羽留は葵似だとみんなが言うし、おれもそう思っていたので自分と似ているだなんて思ってもみなかった。そりゃ半分はおれの遺伝子も入っているんだし、似ている部分があってくれないと困るけど。
尋ねると羽留は眉を顰めながらおれを見た。
「どこがって……。似てるじゃない、いろいろ。手足が長いところとか、運動神経いいところとかさ。お母さんはあんまり運動得意じゃないもん。あと顔で言うなら鼻の形とか? 似てると思ったことないの?」
どうやら羽留は怒っているらしい。責める様におれに問いただして来る。おれはあまりの勢いにたじろぎながら必死で言葉を探す。
「い、いや、あるよ、似てると思ったことある。……そうだな、足が大きいとことかな、おれそっくりだ。きっと背が高くなるぞ、ハル。あとは、えっと……」
困った、葵と似ているところしか思いつかない。目とか髪とか全体の感じとか、葵と似ていて可愛いな、よかったなとかしか考えてこなかったので、自分と似ているところなんてぱっと思いつかない。
しどろもどろになっているおれを羽留は半眼で見上げている。あわわ、大変だ、機嫌を悪くしてしまう。
「ちぇ、僕は将来お父さんみたいになりたいと思ってるのに。確かに全体的にはお母さん似だと思うよ? みんなそう言うし。でも僕はむしろお父さんみたいにがっしりした体と鋭い目の男になりたいんだよ」
なんと、そんなことを考えていたのか。それでトレーニングを欠かさず毎日やっているのか。そうか……おれみたいになりたいのか。
「……お父さんってすぐ顔に出るよね」
羽留は生ぬるい感じの表情でおれを見る。おれは照れくさくて頬を掻いていた手を停め、下ろす。……うーん。なんだか息子に負けてる気がする。まだ小四なのに。
「洋一さんの言ってたのって本当なのかな。昔は全然表情変わんなかったって言ってたけど……」
ふと思い出すようにそう言ったと思ったら、怪しい容疑者を追い詰める探偵のようなそぶりでじっと見つめられ、おれは思わず目を逸らした。あー、今のは逸らしちゃいけないタイミングだったな。その通りですって言っているようなもんだ。
でもなんだ、何で羽留がそんなことを知ってる? くそ洋一、余計なことばかり言って! それになんだ、羽留の思考は本当に小学生か!? エスパーとかじゃないのか? 読まれすぎだろ、おれの顔色!
「でもお父さんはお母さんに会って変わったって洋一さん言ってた。よく笑うようになったし、よく話すようになったって」
くすくすと笑いながら羽留は言う。おれはぽかんと羽留を見つめる。うーん、なんだか勝手に自己完結されているぞ。間違っているわけではないから別にいいけど、本当に洋一はおれのどんな話を羽留にしているのだろう。もうあいつのところに通わせるのもやめさせようかな。謎の足技武術はとっくに免許皆伝してるし。
「ふふ、僕は今のお父さんしか知らないから変な感じするけど、ちょっと想像したらさ、しゃべらないお父さんって多分きっと怖いよね」
笑いながらの発言なので多分重くとらえる必要はないのだろうけれど。
ざくっと心に突き刺さった。
しゃべらないお父さんってきっと怖いよね。
……怖い、怖い……のか。怖い、よな、きっと。
「おおおれ、がんばってしゃべる。うん、しゃべるぞー」
怖がられてはいけない、羽留はともかく双子や生まれたばかりの赤ん坊には特に。
訳の分からない恐怖心にかられ、意味不明は言葉を発したら、羽留は苦笑いでおれを見上げてきた。しょうがないなっていう顔で。
「だから今のお父さんはすぐ顔に出るから何考えてるか分かるし、ちゃんと話してくれるから大丈夫だって。怖くなんてないよ。どっちかっていうと……あー、やっぱり言わないでおこっと」
小四の息子にフォローされる父親。……羽留、お前の言わんとしているところは分かるぞ、なんとなく。でも当たったら切ないので考えるのを止めにする。そして空元気を振りまいて、話題を転換する。さて、何の話をしてたっけ?
「えーと、うん、ハル。そうそう、お父さん漢字を考えようと思ってたんだよ、手伝ってくれるか?」
手元の漢字字書に視線を落とし、何をしようとしていたかを思い出した。急な方向転換だったが、羽留は乗ってくれた。
「漢字? ああ、もしかしてふゆの?」
「そうだ。お母さんが考えそうなやつをな、探してみようと思ってて……」
名前の話からずいぶん脱線したものだ。そして羽留相手にたじたじなおれ。全く情けない。葵に話したら笑ってくれるだろうが、洋一辺りに話したら多分、違う意味で笑われる。くそ、絶対に言わない。
「今までの感じだとさ、漢字二文字だよね。ふ、と、ゆ、と別々に探した方が良さそうだよね」
「あ、ああ……」
「ふ、ふ、ふ……あった、この辺だ。とりあえず良さそうなやつを書きとめようか。お父さん、鉛筆貸して」
「ああ、うん」
……とんでもなく優秀なブレインをゲットできたらしい。おれ一人でセンスのいい漢字を選べるのか心配だったから、このまま羽留に協力してもらおう。
ふゆ、ふゆ。どんな漢字がいいんだろうな、葵。今起きてくれば一緒に考えられるぞ。
なんて考えつつ和室の方を見てみたけれど。相変わらず起きてこない葵には今回は諦めてもらうしかないかもしれない。出生届の期限ぎりぎりまで粘って、それでも起きてこなければ羽留とふたりで考えた漢字で出すしかないだろうな。
「次。ゆ、ゆ、ゆ……」
ひとりでどんどん作業を進めていく羽留の手元を眺めながら、気持ちは別の方へ向いてしまう。
羽留には悪いけれど、今のこの頑張りが無駄になればいいのに。
葵が起きてきさえすればすぐに、決まってしまうのに。
なぁ、はやく、目を覚ましてくれ。
今回も、大丈夫なんだよな。けろっと起きてくるんだよな。そうだよな。
「お父さん、候補はこんな感じだよ……って聞いてるの?」
「え、ああ、うん、聞いてる聞いてる。えっと……これはさすがになくないか?」
「あは、僕もそう思った」
つい逸れてしまう思考を追いやって、手元に視線を落とした。今はこっちに集中しないと。
羽留の書き出してくれた漢字の候補を見ながら、あーでもないこーでもないと二人で考える。葵もこんな風に考えていたのかな、なんて三人分まかせっきりだったことを少し後悔しながらいくつかの漢字を組み合わせたりしていると、二階から小さな声が聞こえてきた。
「ん、……あれ? アキかな? 泣いてる?」
「……みたいだな、ちょっと見てくる。ハルはここにいてくれ」
おれは立ち上がり、ベビーベッドの中の赤ん坊がすやすや眠っているのを確認してから廊下へ出た。葵の眠る和室を静かに通り過ぎ、二階への階段まで歩いていった。
羽留と栄のやりとりは微笑ましくて書きやすいです(笑)




