30 つながる記憶とタイムリミット
遅くなりました<(_ _)>
葵視点です
眠っていたのだと思う。思考は鈍く働かず、そして目を開けたくはなかったから。
でも閉じた目の裏側で、私は何かを見ていた。
まるでテレビや映画の映像をぼんやり眺めているような感覚で。
『きおくが……そうさされているの』
『だってぼく、おかあさんのおなかのなかでみてたんだもの。ちゃんとおはなしきこえてた。あのかみがおかあさんとおはなしおわってきおくをけしたときも、ぼくのきおくまではけさなかったんだ。だからおぼえてる』
【キミの子供はいずれボクがもらう。世界の為に必要な犠牲だ】
「……何故……。……いえ、何かが、動いているわ。何らかの思惑が。あなたが地上に来たことも、彼があなたを見つけたことも、おそらく。そうでなければ恐ろしいほどに都合のいい展開ばかりになることの説明が逆につかない。……あなたが地上に来たということは、“扉”が開いた、ということでしょう? あなただって知ってるはずよ、あの扉が滅多なことでは開かないことくらい。ならなぜあなたはここに? 開くことのない扉が“偶然”に開いてここへ? ……ありえないでしょう」
「……あの、ここは、どこ、ですか?」
「あら、ここは私達の家よ。あなたが川岸で倒れていたのをこの子が連れてきたの」
「……川、で……?」
【……その子に炎の力を与えよう。】
【何年か前のキミは、ボクの正体を知ってボクに従ったよ。そう、最初の子が産まれる前だ。もう一度繰り返してみるかい? 変えることのできない運命に絶望してみる? ひとに近づきすぎて、神に対する畏怖を失ったかな?】
「かみにはみえないんだね。どうしてかな。ぼくたちにはみえているよ」
「そうだよ、アルシェネ。僕らのお友達。神には見えないのなら、もしかして僕らの仲間になったのかな?」
「ふふふ、あるしぇねならいいよー。歓迎する!」
「まさか、アルシェネがそこにいると言うのか? 何故わしには見えぬのじゃ……もしや魂のみが……」
いくつもの会話、いくつもの声。関わってきた人々。
時間の流れとは関係なく、次々と浮かんできては変わっていく。
しばらくして、それが世界の記憶であり、私自身の記憶だったのだと分かった。忘れていた、忘れていたことすら気づかなかった、数々の記憶。
天界で、些細なことをきっかけにして雲じいと言い争い、風に煽られ川に落ちた。
その後雲じいは私を探し回ってくれていた。天界のあらゆる場所を、たった一人で。
……あんな別れ方だった。
雲じいを傷つけたままだった。私が私の存在を否定することは、雲じい自身を否定することと同じだと、分かっていたのに。
雲じい。雲を司る古い神。
私という失敗作の天使を創り出した神。
……私の、父ともいえる存在。
何故、忘れていたのだろう。
雲じいのことを。
あの世界から逃げてきたことを。
私という異端を包容することのなかったあの世界から逃げたいと願ったことを。
そして栄に助けられて、名前を貰って。彼を好きになって、結婚して。子供たちが生まれて。
アーレリーは私たちが地上に来たことには何かの思惑が働いていると言った。今ならそれが分かる。
私は、今のこの結果をもたらすために世界を渡ったのだ。
私の運命を変えてくれると言った、あの声の主によって。
【……うん、そうだね、結果はボクの予想以上だったけど】
急に響いた子供のような高い声に、自分の考えが正しかったことがわかった。川に落ちる寸前に聞こえた声であり、そして多くの記憶を隠した張本人の声。
【ふふっ、そんなに敵意むき出しにしなくっても。もうすべて、過ぎたことでしょう?】
私は黙って聞いていた。様々な記憶を思い出した時点で意識ははっきりとしたのだけれど、代わりに感覚の掴めない濃い闇の中にいることが分かったからだ。立っているのか座っているのかも分からない、自分の手も見えないほどに濃い闇の中に。
この感覚にも本当は何度も出会っていることを思い出してため息を吐く。有無を言わさず従わせる、強い強制力。もう何度も、この力に屈服してきている。
【そうだね、逆らったところで無駄。もう慣れっこだよね? ……さて、記憶が戻ったところでキミに聞きたいことがある、アルシェネ】
私はごくりと唾を飲みこんだ。何を言われるか、半分くらいはもう、わかっていた。
【……キミの体は、このまま地上にいればいずれ消滅する。……わかっていたね? その力は天に戻らなければ回復しない】
ああ、そっちの話か、と素直に頷いて応える。自分の体に意識を向ければ、水瓶の底に少しだけ残ったような力の気配を感じ取れた。……ああ、もうこんなに減って。ある程度の予想はしていたけれど、お産でこれまで力を使ってしまうとは思わなかった。
【今のキミはカラカラに乾いた土のようなものだ。土は風に流され砂になる。だがキミに慈愛の雨は降らない。持って……二年。地上の時間で、二年程度が限界だろうね】
話を聞きながら、二年という具体的な数字をこの神が教えてくれることに驚く。
今までの傍若無人ぶりはどこへ行ったのだろう。親切すぎる。
【ふっ、キミがもたらしてくれたものに対する対価だと思えばいい。前にも言っただろう? キミの本来の在り方とは違う方向へ巻き込んだんだ。ある意味でキミの望みを叶えたわけだけど、子供たちに関してはキミの希望に沿わないからね。でも……どうあろうとキミの子供は、予定通り貰っていく。この二年の時間は、ボクから母親たるキミへの感謝の気持ちさ】
……感謝。感謝の気持ちを示してくれるなら、このままずっと子供たちの傍へ置いてほしい。そして子供たちを連れて行かないでほしい。世界の運命など、関係あるものか。
【ふぅむ、やっぱり母親というものは厄介なんだね。子供が何より大切……か。でもそれはボクには分からない感情だから。悪いけどね、キミの意思なんてボクには】
簡単に踏みつぶせるんですよね。分かっています。
【くっ、あっはっは! 本当にキミは面白いね! 分かっていて逆らうのか。本当に人間に近づいたものだ。ふふ、キミという存在を消してしまうのはやはり惜しいよ。だから……】
……私は戻りません。この体が消えるまで、子供たちの、栄の傍にいます。
それは覚悟の宣誓だった。
意思として感覚に乗せた瞬間、相手の気配がぴしりと固まったのを感じた。そして同時に強まってくる圧力。
正直言って怖かった。無謀なことをしていると分かっていた。でも譲るわけにはいかなかった。
全てがこの、目の前の計り知れない力を持った神の手の上で転がされた結果かもしれない。けれども私が栄を愛して、夫婦になって、子供たちが生まれたことは私自身の意思だったと思いたい。子供たちの傍にいられるのは今しかない。母親として、どんどん成長していく子供たちに寄り添えるのは、今しかないのだ。
【……だから二年あげるって言ってるじゃないか】
不満げな声が響いた。どうしたことか圧力は少し和らいでいる。
……二年なんかじゃ足りません。
産まれたばかりの子は、二年ではようやく歩くくらいでしょう。その先の成長の様子を全部見逃せと? ハルだってやっと十歳になるところ、これからナツとアキも小学校に上がるし、ハルはもっとお兄ちゃんらしくなる。双子も弟が生まれたからもっとしっかりするでしょうね。中学生になって、高校生になって。どんどん成長してたくましく育っていくのは今これからなんです。
人間は、天使のように初めから完成されていない。成長を見守ることこそが、親としての楽しみであるのに。……産んだら用済みで捨てられるなんて、そんなこと納得できるはずがありません。
反論をはさむ余地もないくらい、一気にまくしたてた。怒りがふつふつとわき上がってくるようだった。……そう、たとえ絶対的な神相手であろうと、言いたいことは言ってやる。私は道具として作られた天使だ。でも感情を持っている。思考を持っている。全てが神の言いなりの、他の天使とは違うんだ。
いずれ子供たちと離れ離れになる。私はこの体が持たないことを知っているし、この絶対的な存在に子供たちを連れて行かれてしまう。でもそのことから逃れられないならば、せめて。せめてそれまでは一緒にいたい。ずっと成長を見守っていたい。できるだけ、傍で。
【……キミねぇ、無謀にもほどがあるよ? ボクは割とユーモアがあるから面白がって終わりにするけど、今の発言はすぐに消されても不思議はないよ? 二年を待たずにいまここで消えるなんて望んじゃいないでしょうに】
呆れたような声に拍子抜けしつつ、私は返事を返す。
……あなたは私を消さない。今は、まだ。
見えもしない相手を伺っているつもりで、慎重に答えた。
【へぇ? どうしてそう思う?】
私の返答に興味を持ったようだった。声からも気配からも、笑っているのが分かる。
……最後の子供を、あの子を育てないとならないから。
発せられる気配が、さらに緩んだ。面白いものを見つけたときのように、笑いを堪えているようだった。
あの子が四人の中で一番強い力を持っている。……あなたの影響で、過ぎるほどの力を得た……。だからあの子がある程度成長するまであなたは私を消したりしない。あの子の力を安定させ、精神を壊さず育てられるのは私しかいないから。
そのための、二年なのだ。
【ふふふっ、キミは本当に賢いねぇ。大きな力と適切な理性と知恵……。これはあの老神に感謝しないとならないなぁ。まさかこんな天使が生まれるとはね。ボクも作ってみようかな~】
楽しそうに笑う神。私は何も考えずにただ黙っていた。
【でもね】
不意に気配が変わる。散っていた圧力がまた戻ってきてぎゅっと締め付けられる。
【キミを消滅させるわけにはいかないんだ。キミには利用価値がある。子供を育てるだけじゃない、価値が】
ふふ、と零した笑いは、今までのように軽妙なものではなかった。
【だから必ず天に戻ってもらうよ。従わないなら強制的にね。……まぁ、二年と言わず、もう少し伸ばしてあげてもいいけど……それは後で考えておくよ。とりあえず楽しむといい。子供たちと一緒の時間をね。ああ、でも、その体ではまともに行動できるかねぇ……】
声がだんだん遠ざかり、強すぎる圧力からも解放されつつあった。そしてまた、抗えない眠気が襲ってきて、会話の終わりを知る。しかし、小さくなりながらも明瞭な意思を持って、その言葉は私へと届けられた。
【少し力を分けてあげてもいいけど……キミはボクに逆らったからね】
おそらく笑っている。冷え切った目で。冷たい気配が一瞬肌を撫でるような気がしたけれど、瞼を開けていられずに目を閉じる。
【サービスはなしだよ。君自身に残された時間で、どれだけ留まれるかやってみればいい。……ふふ、無理して消えちゃわないように注意してね?】
……消えてしまう前に強制送還するんでしょう、と思った瞬間にすべての感覚が途切れた。
*
ふっと目を覚まして見えたのは、すっかり見慣れた和室の天井だった。
一瞬、蝶のシミがある実家の天井を思ったが、数年前に栄が建ててくれた自分たちの家の和室だった。
薄ぼんやりと光が射していた。でもそれが朝の光なのか夕方の光なのか分からなかった。目は見えていたけれど、他の感覚ははっきりしていなかったからだ。遠くに人の気配を感じた。栄だろうか、それとも子供たち?
でも考えているうちにまた眠くなってきて瞼を閉じた。眠りながらでも考えなければいけないと思った。整理しなければ、これまでのことを。そしてこれからのことを。
「……どうしたら、いいの」
目を閉じたままで呟くと、ひとつの気配がこちらに向いたのが分かった。一番力を持っている、生まれたばかりの子供かと思ったけれど、どうやら違ったらしい。
どすどすと音を立てて走ってきて、障子がさっと開けられた。
「あおいっ!?」
さかえ……何で私が目を覚ましたってわかったの?
「……気のせいか……」
消沈した様子の声が耳に届いた。ごめんね、栄。聞こえているけど、眠っている時と同じなの。思考は働いているけど、瞼を上げることも、声を出すこともできない。ごめん、もう少し、待ってて。
あと少し、休んだら、また。
元気になってみんなと過ごせるから。
来たときとは違って音をたてないように遠ざかっていく栄の気配を追いかけながら思う。
特別な力はないはずなのに、栄はいつも私のことに気づいてくれる。どうして? 栄さえも何かの力に影響されているの?
考えていたはずなのに、いつの間にか思考は途切れていた。
身体は休息を欲し、残った少しの力を温存すべく再構築を試している。
あと、どれくらい存在できるのだろう。
どうしたら、少しでも長く。
意識と無意識の狭間で、私は誰に問うでもなく思った。




