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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
73/128

5 長男誕生


「オギャー、オギャー!」


 玄関を開ける前から響きわたっている独特の鳴き声。夕方定時で帰った時の驚きといったら。おれは親父と顔を見合わせ、すぐに玄関を開けて家の中に飛び込んだ。


「……うっそだろ?」


 正に予想外の出来事で、客間の前でおれは立ち尽くしたままどうしたらいいかわからなかった。出産に立ち会うつもりで仕事も調整していたというのに、腹の中から葵に話しかけてきたという赤ん坊は、その宣言通りフライングで生まれてきてしまったのだ。


「オギャーオギャー」


 目の前の光景に目を疑う。客間ではすでに戦いを終えた様子のお袋と助産婦さんが和やかに語らっている。その中に遠慮なく響く赤ん坊の鳴き声。


「あら、おかえりなさい。出産、間に合わなかったわねぇ」


 腕に抱いた赤ん坊をあやしながら、お袋がのんびりという。猛然と泣く赤ん坊のことは気にかけていないのか、にこやかな表情は崩れない。


「……もう生まれたのか。元気そうでよかったな」


 親父も一瞬放心状態だったがすぐに持ち直しておれの肩を叩いた。適応能力が高いのが日向家のある意味長所と言えるのだろうが、今一番ついていけていないのがこのおれで。


「えっ、いや、あの、何、え?」


 しどろもどろになって視線をさまよわせても、そこにいるのは生まれてきたばかりの赤ちゃんだ。

小さな頭、小さな手。何をどうしたのか顔を真っ赤にしてわんわん泣いている。小さいのに確かにある、大きな存在。……おれと葵の、子供。

 葵は、と思えば彼女は布団に横たわって眠っているようだった。おれは葵の枕元にぺしゃりと座り込み、大きく息を吐いた。


「……生まれたのかぁ……」


「お昼過ぎにね、アルちゃん横になってたんだけど急にうんうん苦しみ出してね。声かけたんだけど眠っているのよ。で、揺さぶって起こしたら不意に『もうすぐ生まれます』って呟いて。そのまま陣痛が始まっちゃったみたいでお母さん慌てて助産婦さんに電話して」


 お袋はなかなか泣き止まない赤ちゃんをのぞき込みながらのんびりと語る。なんだそりゃ、もうすぐ生まれますって。どこかで覚えのある話に苦笑いをしつつお袋の話を聞く。


「それで、急いで来てもらった時にはもう赤ちゃんはだいぶ下におりてきていてね。助産婦さんが到着して二十分で生まれちゃったの!」


 ねー、と顔を見合わせて笑うお袋と助産婦さん。それは笑い事なのか、と思いながら曖昧に頷く。


「確かに早く生まれるって話は聞いてたけど……」


 おれは複雑な気持ちで眠っている葵の頭を撫でた。確かに以前、葵は夢の中で赤ちゃんと話し、赤ちゃん(しかも息子)が早く生まれたいと言っていると話していた。だがそれを鵜呑みにしたとしても、これほど早くとは予想していなかった。何しろおよそひと月も早く生まれてきてしまったのだ。未熟児の可能性はないのかと心配してしまう。

おれは今だ泣き止まないままお袋に抱かれている赤ん坊を眺めた。


「お袋、赤ちゃんは、男の子?」


「ええ、男の子よ。この通りとっても元気。もうずっと泣き止まないのよね」


 迷惑そうな言葉とは裏腹に、嬉しそうに微笑むお袋は赤ちゃんを抱きかかえなおした。


「お母さんにだっこされたいのかもしれないけど……アルちゃん産んですぐに気絶するみたいに眠っちゃって」


「脈も血圧も正常ですし、出血も少なかったから大丈夫だとは思うんですけど……。もう少し様子を見ましょう。……そうだお父さんにお伝えしておきましょうか」


 助産婦さんが葵を見ながら穏やかに言い、そしておれへと向き直った。


 ――お父さん。


 その呼ばれ方がなんだか照れくさくってにやにやしてしまうのを堪えられない。口に手を当てて少しうつむくと、助産婦さんはそういう『お父さん』を見慣れているのかもしれない、にこにこしながらもあっさりと言葉を続けた。


「予定日よりもだいぶ早い出産でしたが……赤ちゃんは体重二千九百グラム、身長は四十七センチ、標準の範囲内で、男の子ですね。おめでとうございます」


「あ、ありがとうございます……」


 他になんと言っていいのか分からず、とにかく頭を下げた。


 ――本当に、赤ちゃんが生まれたんだ。おれはお父さんになったんだなぁ。


 感慨というかなんというか。よくわからない感情の渦のようなものが心の中に沸き上がる。……子供、子供だ。おれと葵の子供。本当に、本当に生まれてきてくれた。予定日よりも早くたって、ちゃんと健康に五体満足で生まれてくれた。このふつふつと沸き立つ喜びは一体なんなんだろう。

 今だ泣き止まない赤ん坊をじっと見ていると、お袋がすっと立ち上がっておれのもとへやってきた。


「ほら、だっこしてあげたら? お父さんなら泣き止むかもしれないし」


「えっ、だ、抱き方は?」


 いきなり抱っこしろと言われても、赤ん坊の扱いなんてこれっぽっちもわからない。こんな小さくて、ちょっと力をいれただけで潰れてしまいそうなものを抱き上げるなんてと思いっきり躊躇した。だがお袋はおれの動揺なんて気にも留めずに、「ほら手を出して」と促してくる。

言われるがまま腕を出したら、お袋の手からゆっくり下ろされてきた赤ん坊はふわっとおれに体重をあずけてきた。――軽い。


「あら。……泣き止んだわね。お父さんがわかるのかしら」


 お袋は不意に泣き止んだ赤ん坊を見て、ほっとしたように息を吐いた。おれは予想以上に軽いことに気を取られて固まっていただけなのだが、赤ん坊はなぜかぷつっと泣くのを止めていた。おれの腕の上でぱちくりと目を開けてこちらを見ているその表情は、まるで何かを確認するような様子だ。


「ちょ、お袋、あのどうやって抱いたら……」


 谷間に掛かる支柱のない橋のように、赤ん坊は突き出したおれの二本の腕の上でじっとしている。うまく乗っかってくれてはいるが、こんなにふにゃふにゃして柔らかいのだから、腕の間から落ちてしまいそうだ。


「そのまま右手の肘の辺りに首が来るように曲げて……そう。左手は下からお尻を支えるのよ。……そう、上手上手」


 お袋に言われるがまま、ゆっくり腕を動かしたら、なんとか曲げた腕の中に赤ん坊が収まってくれた。まさにすっぽりとおれの懐に収まる大きさで、体の割に大きい頭はやっぱりちょっと重い。


「……はは、こっち見てる」


 うまく抱っこ出来たのでおれにもようやく我が子を見つめる余裕が出来た。髪の毛はちょっと茶色がかっているが瞳は黒い。長いまつげに縁どられたくりっとした一対の目がじっとおれを見上げてくる。さっきまでずっと大泣きしていたのが嘘のようだ。本当におれが父親だから泣き止んだのだろうか、そんなことがわかるんだろうか。


「かわいいな」


 ぼそっと呟いてほほ笑みかけると、赤ん坊はまばたきをひとつ、ふたつ。そこまではよかった。別に赤ん坊だって瞬きはするし自然な行動だ。だがその後、事件は起こった。

 彼は――生まれたばかりのおれの息子は――口を開いて――

 

「お…さ……ん」


「!!??」


 ――今何か聞こえたか。空耳か、幻聴か?

 今この子は口を動かしたな。それでちっちゃな声で……いや。いやいやいや!おれの聞き間違いだよ、そうだよな。まさか生後数時間の赤ん坊がしゃべるなんてこと……。


「あはは……」


 おれは自分の耳を徹底的に疑って、今しがた聞こえた声を必死に打ち消そうとしていた。同時に他の人、特に助産婦さんに聞かれていなかったかどうかを確認すべく(いや、声なんてしなかったのだが)、できるだけ自然を装って目線を走らせた。

 少し離れた場所で歓談していたお袋にも助産婦さんにもなんの異変もなかったので、どうやら聞こえていなかったらしい(いや、だから声なんて……)。

 よし、このままなかったことにしよう……。そう思ってほっと苦笑しながら体の向きを変えた途端、視界に親父の足が入ってびっくりした。


「お……親父? どどどーした?」


 ちょうどおれの真後ろから赤ん坊を見ていたのだろう、親父は前かがみでのぞき込んだ体勢のままがっちり固まっていた。一瞬前のおれと同じように目を見開いたままで。

 動揺を隠しきれないまま半笑いで尋ねる。ああ、この様子じゃきっと、親父も……。


「い、今この子……しゃべった、か?」


 ――あーやっぱり!! 聞こえてたか!


 予想通りの展開に内心で頭を抱えた。親父とふたり、仕事の打ち合わせの時よりずっと熱心に視線を合わせてしばし無言の会話をする。……が、頭の中が真っ白な状態で、伝わってくるものなど何もない。

 おれの腕の中の赤ん坊は、何事もなかったかのように目を閉じてどうやら眠ったようだ。さっきまでの喧騒とうってかわって、静かに寝息を立てている。


「あれ……寝たわ……」


 可愛らしい寝顔を見て、ようやく金縛りから解けたのか、親父は緩慢な動作で上体を起こし、ごほん、と咳払いをした。


「あー、母さん? 助産婦さんにお茶でも出してくつろいでもらったらどうだ? いやもう夕飯の時間だから一緒にご飯を食べてもらって……」


「え? ああ、そうね。店屋物でもとって……何がいいかしら? 何にします?」


 お袋は親父の言葉を普通に受け取って、今気づいたように時計を見た。時刻は六時半。午後からバタバタしていたので夕飯の準備はもちろんしていないのだろう。お袋はさっと立ち上がり、助産婦さんを促した。

 助産婦さんは「いえ、もうそろそろ帰りますよ」と遠慮しつつ、お袋と一緒に客間を後にした。


「…………は~ぁ……」

「…………ふーー……」


 足音が遠ざかり、居間の方へ消えたことを確認すると、どっと脱力して大きなため息をついてしまった。それは近くに立っていた親父も同様で、二重奏の切ないため息と、ふたつの静かな寝息だけが客間を支配した。


「……親父、親父もその……聞こえた、のか? なんて聞こえた?」


 もはや二人の耳で聞いたとあれば空耳として処理はできまい。仕方なく親父に尋ねれば、親父は頭を掻きながら赤ん坊を見下ろして言った。


「……おとうさん、と。そんなにはっきりはしてなかったが、でもわかるくらいには……」


「そっか……。おれも同じだよ」


 ああもう。お母さんが天使だと子供は生まれてすぐおしゃべりをするのか……。まさかそんなことがあるとは思ってもみなかったので本当にびっくりした。


「葵さんが葵さんだから、まぁありえなくもないかもしれないが……問題は他の人に知られるとまずいことだな」


「そう、そこなんだよな……。アンナさんとおじいさんはもちろん大丈夫としても……あ、洋一も一応セーフか。洋二とかなぁ、あいつに聞かれるとまずそうだなぁ」


 赤ちゃんを見にすぐにでもやってきそうな面々を思い浮かべて、一番の危険人物は洋二だと思った。大騒ぎするに決まっている。


「まぁ、様子みてさ。もしかしたらまぐれの一回だったかもしれないし」


 本音はそう思っていない。腹の中から話しかけてくるような不思議な赤ん坊だ、まぐれの一回で終わるなんて思えない。だが、気が紛れるように笑って言った。天使から生まれた赤ちゃんとはいえ、赤ちゃんは赤ちゃんだし。半分は人間なんだし、そこまで突飛なことはそうそう起こらないだろう。親父は苦笑しながらおれの言葉に頷いた。


「そうだな。様子見て考えよう。……ただ、お母さんに伝えるかをおれは迷うよ……」


 お袋が知ったら大騒ぎするだろうなぁ。今のおれと親父の思考は完全に一致していると断言できる。想像の中で騒ぎ立てるお袋に苦笑して笑い合うと、親父はおもむろに赤ん坊の方へ手を伸ばしてきた。……そうか、親父にとっては初孫だ。親父も抱っこしたいだろう。


「親父も抱っこするか? ちょっと待って、頭の位置を……」


「いや、ちょっと撫でてみたいだけで」


「まぁいいじゃんか。静かに眠ってるとこだしチャンスかもよ」


 赤ん坊を親父に渡そうとおれがもぞもぞ動いているときに、第二の事件は起こった。


「えっ」

「はっ!?」


 ……さっきのおしゃべり事件なんて目じゃなかった。ありえなさ加減が類を見ない。衝撃に微動だにできないなんてこと、人生のなかでそうそうないと思うのだが。


「……う、浮いてる?」


 おれが必死に現実逃避の思考を巡らせている間に、親父が目の前の状況を口に出して確認してしまった。……そう、今や赤ん坊は、おれの手を離れてふわりと宙に……。


「う、浮いてる……な」


 おれはあまりの出来事にどうしたらいいか分からず、ただ両腕を抱っこの形で固定したまま、十数センチ浮き上がった息子を見つめていた。


「うっそだろ……」


 予定日よりも早く生まれたことなど最早驚くべきことでもなんでもない。目の前の光景が嘘だった。

すやすやと寝息を立てたまま、赤ん坊は宙に浮いている。風船のようにふわふわと浮いてはいるが、どこまでも高く上がっていく様子はない。どんな力が働いているのか、少しだけ上下にぶれながらも体勢は安定している。

 いつ落ちてきてもいいように、おれは両腕を前に突き出したまま、親父の方へ顔を向けた。親父は驚愕を顔に貼り付け、またも中腰の体勢で固まってしまっている。赤ん坊を抱いていて腰が痛くなるのはわかるが、赤ん坊にびっくりして腰を痛めるおじいちゃんはまぁいないだろう。明日の仕事に障らなければいいけど、なんてまた現実逃避しつつぼーっとしていたら、パタパタと向こうから足音が聞こえてきた。


「ねー、お父さん……、お蕎麦とお寿司どっちが……あら、何してるの?」


 サッと障子が開けられる寸前に、おれは赤ん坊を捕まえて抱きかかえた。親父もそうしようと思ったのだろう、だが手が空ぶって、中途半端な体勢で膝を付いていた。


「え? いや? 何でも?」


 生まれたばかりの赤ん坊は首が安定しないという話はおれだって知っているし、非常にデリケートなことは分かっている。だからもぞもぞと慎重に抱き直しつつお袋に笑顔を見せた。引きつってないか心配だったが、お袋は首を傾げつつも誤魔化されてくれた。


「で、お父さん、やっぱりお寿司よねぇ、おめでたい日なんだし。助産婦さんがね、いいですって遠慮するから……」


「あ~まぁなんでも……いいんじゃないか……?」


 会話を始めた親父とお袋に背を向けるように尻だけで移動し、おれはほっと息を吐いた。

 がばっと乱暴に抱きかかえてしまったのだが、赤ん坊は何事もなかったかのようにまだぐっすりと眠っていた。……男二人、なぜこんな場面に居合わせるのか。視線こそ合わないものの親父と内心で通じ合っている気がした。戸惑いの気配を残す背中を見せたまま、親父はお袋を追い出すように一緒に去っていってしまった。


「…………ふ~……」


 本日二回目の大きな溜息を付いて、おれは葵の枕元にどっしりと座り込んだ。

 赤ん坊も相当図太く思えるが、母親の葵もまったく目を覚まさないまま熟睡している。この赤ちゃんは絶対母親似だな、と思いつつも葵の頭をなでた。

 葵は出産直後に眠ってしまったという話だったが、大丈夫なのだろうか。頬に触れてみると別に体温も高くも低くもないし、呼吸だって正常だ。助産婦さんが血圧も正常だというのだから、心配はいらないのだろうけど……。

 ふと頭をもたげた不穏な考えに首を振る。


 ――怖いくらいに寝付いている葵は、調子の良くない時だ。


 これまでの経験から導き出される答えは確かにあったが、それでも毎回、葵は回復して笑顔を見せてくれた。今回だって明日になったらきっと普段通り目を覚ましてくれる。大体お腹を空かせた赤ちゃんが待っているのだから、母親の本能で目覚めるかもしれない。


「葵……見てくれ。おれちゃんと赤ちゃん抱っこできたぞ……」


 返事はないと思いつつも話しかける。目を覚まさない葵にほんの少しだけ不安を抱きながら、自由の利く左手で葵の頭を撫で、前髪を整えた。


「……すっごく元気な赤ん坊と待ってるからな。早く目を覚ましてくれよ。葵……」


 嬉しいはずの息子の誕生にどこかぬぐい去れない怖い気配を感じながら、おれはしばらくじっと、二つの寝息が途切れることなく続いていくのを聞いていた。



助産婦さんは今では助産師さんと呼ぶのだそうですが、お話の設定がひと昔前なので、助産婦さんとしております。



余談ですが、拍手ページにお礼の?絵を載っけてみました。素人の絵ですのでなーんだ、と思うこと間違いなしですが、葵のビジュアルを確認したい方はいっちょポチっと押してみてください!

詳しくは活動報告をご覧ください!


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