40 置手紙
葵が、消えた。
いなくなった。
それを脳が認識するまでにどのくらいの時間が経ったのだろう。
「ちょっと、栄、なにしてるのよ。早くご飯食べないと」
なかなか戻ってこないおれに苛立ったのだろう、お袋が珍しくどすどす音を立てて歩いてきた。
おれは無言でお袋の顔を見た。冷や汗が、顔の横を伝っていくのが分かった。
「……栄? どうかしたの? アルちゃんは?」
そう言ってお袋は客間を覗き込み、そして声を失って固まった。だがすぐにおれに向かって声を荒げる。まるでおれがわざと葵を隠してお袋をからかっているのだと咎めるように。……縋るような、目で。
「栄、アルちゃんはどうしたの?」
「…………」
おれはお袋の質問に答えられる答えを持っていなかった。むしろおれが聞きたい。……葵は、どこへ。
おれが何も言えずに固まったままでいると、お袋はサッと客間の中に視線を走らせ、猛然と部屋の中に入っていく。顔も動かせず目だけでお袋の背中を追うと、お袋はいつも葵が勉強道具を置いている棚のところで何かを見つけたようだった。カサカサと紙を広げる音がして、お袋がハッと息を飲む。
おれは動くことができなかった。全身が痺れたように、凍ったように動かない。呼吸すらできているのかどうか怪しい。感覚がない。
「栄……アルちゃん、から……」
なんと形容したらいいのかわからない。困惑と、衝撃と心配が入り混じって、でも苦い表情をしたお袋が、おれに白い紙を手渡してきた。
ノートを破ったものだとすぐに分かった。葵が使っている漢字練習用の升目のあるノート。
動かしている意識さえないまま、右手で紙を受け取って、知らず震える両手で開く。
アーレリーのところへ行きます 今までありがとうございました
ごめんなさい
「な……んだよ、コレ」
覚えたばかりの字で、でもおれよりずっと綺麗な字で綴られた文字を認識して呟く。署名をする習慣を知らないのだろう、名前こそなかったが、確かに葵の字で綴られた手紙だった。
まさか、こんな形で受け取ることになるとは思わない、初めての手紙。それも家出の置手紙。
「……『今までありがとう』って、アルちゃんもう戻ってこないつもりかしら」
隣でおれの持つ手紙を覗き込んでいたお袋がぼそっと言った。無意識に何度も目で追った文面をもう一度穴が開くほど見つめ、一度大きく深呼吸をした。……感覚が少し戻ってきて指が動く。そして葵の手紙をお袋に押し付けた。
「え、ちょっと、栄!?」
後ろから慌てた声と共にお袋が小走りでついてくるが、おれは構わずどすどすと大またで歩いていく。先ほどまで動く気配さえなかった四肢は、案外あっさりと動いた。思考も案外すっきりと働いている。今何をすべきか、判断できている。
そして玄関脇に置かれた電話の前までやってきた。市内の電話番号が載っている電話帳を手に、ばさばさと捲って目的の家を探す。追いついてきたお袋は葵の手紙を握り締め、おれの斜め後ろで息を詰めて動向を見守っているようだ。
「……なんだ、どうした?」
居間からひょっこり親父が顔を出したのを見て、お袋は緊張の糸が途切れたかのように半泣きで親父に縋りついた。
「お、おとうさーん」
「おい、なんだよ、どうしたんだ?」
突然お袋に泣きつかれて、状況の読めない親父はおれに向かって説明を求めてきた。だがおれは構わず電話帳を繰り続ける。……名前は知らない、でも確かあった。前に見たことがある気が……
「あーん、アルちゃんが、アルちゃんが……」
「おい、母さん、それじゃわからん、何とか言え。……栄、何があった? 葵さんは?」
うるさい外野を完全に無視し、うだるような暑ささえすっかり忘れてひたすらページを繰り続け、おれは探していたその名前と番号を見つけ出した。すっと伝ってきた汗が、ぽたりと電話帳に落ちてしみを作る。
「……あった」
人差し指で示した名前は、『 ラフマニコフ・ドミンスキー』。
ようやく落ち着いてきたお袋が、親父に何があったのかを小声で語り始めたのを横に、おれは番号をダイヤルする。
プルルル……というコール音とともに、否応なく高まっていく心音。耳に当てた受話器が何故か重く、両手で支えて応答を待つ。
『……はい。ドミンスキーですが』
渋く掠れた低音の声が聞こえた。ちょっと心配していたけれどちゃんとはっきりした日本語だった。
「あの、すみません。お……私、日向と申しますが、そちらに神原アンナさんはいますか?」
『……ああ…………はい。少々お待ちください』
老人の声は少し思案するような沈黙を経て電話口から離れた。
自分の予想が合っていたことに安心して、おれは大きく息を吐き望む声が聞こえてくるのを待つ。ことん、と受話器を持ち上げる音が聞こえた後で、待ちわびた声の主は素早く文句をぶつけてきた。
『……よくこの番号がわかったわね。教えてなかったはずよ』
「この辺でロシア人住んでるのはそこだけだから」
相当苛立っているな、と思わせるアンナさんの声に、こちらは冷静に返した。……そう、ただそれだけの理由だ。
丘の上に立っている洋館に住んでいることも実は知っている。アンナさんが隠しておきたいようだったからあえて触れなかっただけで、この辺に住んでいる人なら皆、丘の上のロシア人学者の存在を認識しているのだ。
「……ああ。そうね」
アンナさんの声は急に勢いを失って、つまらなそうに響いた。
「葵は行っているか」
おれは率直に本題を切り出した。アンナさん相手なら、回りくどいよりも直接の方がいいはずだ。彼女の前ではいろいろ誤魔化すのは難しいから。
「……来てるわよ。ついさっき、迎え入れたところ」
「……そうか……」
葵がどうやってアンナさんの家を知ったのかは分からない。おれは話していないし、お袋だってアンナさんの存在自体をあまりよく知らないのだから、葵に教えることもなかっただろう。とにかく葵が無事にアンナさんの元へ行き着いているのだということに、おれはほっとした。なにしろ家からアンナさんの家までは歩けばおよそ一時間半は掛かる距離だ。車なら十五分くらいなのだが、葵がひとりで移動するなら歩きしかない。無事にたどり着けていることが逆に驚きであり不思議だった。
「何があったのか知らないけど、ひとまずしばらく預かるから。……あの子、『もう帰れない』なんて言ってるから」
「っ、そ……う、か。……わかった。頼む」
なんと言っていいのか分からなかった。ひとまずアンナさんの家に葵が行っているのかを確認したくて電話をしただけだったから、その上でどうするのかまではまだ考えていなかった。
しかし葵自身が家を出て行き、『もう帰れない』などと言っているのなら、無理に連れ戻すことはできないと思った。背後にはおれの電話の相手を察し、気配を殺して成り行きを見守る親父とお袋がいたが、「すぐに迎えに行く」などとても言えなかった。……何よりおれ自身が、先に葵を遠ざけたというのに。
「……早めに迎えに来てよね。とにかく今は私、仕事に出る時間だから悪いけどまた今度にしましょう。こっちは祖父がいるから心配いらないわ。それじゃあね」
「……ああ。悪かったな。……じゃあ」
明らかに急いでいるアンナさんを引き止めることもできず、おれはそのまま電話を切った。
……葵はアンナさんの家に、いる。……いた。
ひとまずの安心感はあった。でも。
受話器を置いた手が、汗でぬるりと滑った。
額の汗が目の脇を掠めて流れ落ちる。
……葵、あおい。 どうして。
なにも考えられなかった。
『いなくなった』、その事実が。
全ての血液を奪い去るように頭の先から足の先まで冷たくすり抜けた。
目の前がぐらりと大きく傾いでそのまま、暗転した。
どのくらいの時間が経ったのか分からない。
背中に温かい何かが当たっているのを感じてようやく目の焦点が合った。
「……栄」
お袋だった。お袋の手が背中に添えられていた。労わるように背中を擦られ、その温かさに促されるように大きく息を吸って吐き出す。浮上してくる身体の感覚をじわじわ感じながら首を巡らすと、おれは電話の横、玄関の上がり框に座り込んでいたと分かった。
「……お、ふく、ろ」
ぎこちなく声を吐き出してハッとする。下駄箱の上にある時計を見上げたらもう仕事に行く時間を大幅に過ぎていた。
「やばっ、遅刻」
怒られる! とすぐに走り出そうとしたら、お袋がおれのシャツの裾を掴んで引き止めてきた。
「さかえっ!」
「うわっ、転ぶだろ! なに?」
勢いよく踏み出そうとした一歩をなんとか踏みとどまり、意外なほど強い力でシャツを引っ張るお袋を振り返る。お袋は真っ赤な目をしておれを見ていた。睨みつけるでもなく、静かな目でおれを見ていた。
「……今日は、仕事でなくてもいいって、お父さんが」
「え、なんで」
「……集中できないだろうからって。ミスが怖いからって。……来るって言っても来させるなって……」
「…………冗談だろ? 大の男がこんなことで仕事休むかって、普通」
「冗談じゃないのよ、栄。……今日は、お休みよ、あなたは」
「…………」
何も返すことができなかった。ものすごく心配している顔のお袋からそっと視線を外した。ものすごい情けなさと自己嫌悪に襲われて、もう発狂してしまった方が楽なんじゃないか、などとどうでもいい考えが頭の中を過ぎった。
……葵が、家からいなくなったというだけで、こんな。こんな風になるなんて。
「……とにかく少し寝たほうがいいわ。あなたが倒れちゃったりしたら、お母さん大変だから」
優しいお袋の声が今は刺さるように痛かった。……おれは何歳の子供だ?
母親にこんなに気遣われて、父親にも先手を打たれた。親父は現場責任者として、精神的に不安定なおれが作業して何か重大な事故などが起こるのを懸念している。まともな判断だ。おれが棟梁でもふらふら怪しげなやつがいたら絶対休ませる。……けれども今はむしろ仕事に行きたかった。何かしていたほうが気が紛れる。現場はもう内装工事に入っているし、逆にものすごい集中力を出せそうな気さえした。
「……でもやっぱまともな判断だな」
ため息と共に呟いた。作業が簡単だろうがなんだろうが、普通じゃない精神状態の人間に任せられる仕事なんてない。
お袋の手がまた背中に添えられて、励ますように叩かれた。
「……落ち込むことはないわ。お父さんも昔、こんな時あったわよ」
それは件の、お袋が妊娠していたときのことだろうか。以前親父が話してくれた、お袋が死にそうで相当心配したときの話。それは親父にだってこれまでいろいろあっただろう、でも今のおれにはお袋の言葉はなんの慰めにもならなかった。
不意に襲ってきた強烈な頭痛に顔を顰めた。全身に力が入らないような感じでだるい。仕事に行けないのなら今はただ、自分を落ち着けること、少し冷静になるための時間が必要だ、そう思った。
「ひとまず、寝るよ。頭の中、整理する」
「そうね、そうなさい。……それで、栄。……アルちゃんは、その、アンナさんの家で安全、なのよね?」
おれが寝る前に確かめたかったのだろう、お袋は遠慮がちにおれを伺った。胸の前で握られた両手には、未だに彼女が書き残した手紙が握られていた。涙に潤んだ瞳、赤く腫れた目じり。お袋がどれだけ葵のことを大切に思っているのか今更ながら思い知る。
「……ああ、大丈夫だ。アンナさんは仕事だけど、家にはおじいさんがいるから任せろって言ってた」
「そう、ならいいわ。……お母さんもちょっと休むわ。ああ、お腹空いたらご飯、冷蔵庫の中から適当に出してチンして食べて」
「ああ。……あの、お袋」
「なぁに?」
「……何でもない」
お袋はにこっと痛々しい笑顔を浮かべ、おでこに手を当て少しふらつきながら台所へ引っ込んだ。
……ごめんな、お袋。
そう言おうと思ったが、何が『ごめん』なのかが急にわからなくなって言えなかった。
葵を家出させてしまってごめん、なのか。
葵を嫁にできそうになくてごめん、なのか。
どちらにしても自分の情けなさがいや増すばかりで口に出すことはできなかった。情けなさのあまり、ここから消えてしまいたいとさえ思った。……完全に現実逃避している思考に首を振って、深呼吸をしながらゆっくり階段を上っていく。今はひとまず休んだほうがいい。
作業着をTシャツと緩いズボンに着替え、ベッドに横になって天井を見上げる。
「……あおい、アル……」
頭の中に描かれるのは、ただひたすら彼女の姿。笑ったり泣いたり、すねたり恥ずかしがったり。何も知らなくて、自由で。可愛らしくて美しい、短い時間であったけれどもいくつもの瞬間を一緒に過ごしてきた葵の姿。
「いざいなくなるとこうだもんな……」
葵にいつか本当の王子様が現れたとき、手を離せる自分でいられるようにと距離を置いた。ところが今のおれのざまは何だ。いざ葵が目の前から消えて、今おれは何を考えている?
……傍に、いて欲しい。帰ってきて欲しい。
心の底で一番素直なおれがそう叫ぶ。けれども身動きが取れない。先に距離を置いたのは、他でもないおれ自身だから。手を離そうとしてそっけなくしたのはおれなのだから。自分の蒔いた種がいつの間にか芽を出して、棘の生えたその蔦が足元から絡み付いている。ギシギシとおれを締め付け、血を流させる。痣を作る。
「……葵、ごめん。……帰って、きてくれ……」
誰にも聞かれていないからこそ呟ける我侭。心に重くのしかかった重しは外れてくれそうにもなく、潰されていくような苦しみと痛みの中でおれは眠りに思考を委ねた。




