39 心の距離
もう葵に触れない、と決意した以上、不用意に葵に近づけなくなった。油断すればいつのまにか手が葵の髪に伸びたりしているから、距離も一歩引いた状態で自分を監視し、もし手が伸びるようなら事前に止めなければならなかった。
話しかけるのも危険だった。楽しく会話して葵に可愛らしい笑顔を見せられると、自分に科した枷がふと外れてしまう気がして、あの瞳を見ることもできなくなった。
避けているつもりはなかった。ただ、今までの自分は、自分の欲望のままに葵に触れすぎていたと反省して、できるだけ自然に、自然にと心がけて、でも必要以上の会話や一緒に過ごす時間をなるべく減らすように試みていた。
その結果、何がどうなるかなんて分かっていなかった。
おれの行動が、彼女の気持ちを傷つけていることも、彼女の心に新しい感情が芽生えていることにも、何にも気づけていなかった。
◆
「おかえりなさい」
いつものように仕事から帰ると、葵が玄関先まで出てきて出迎えてくれた。にっこり微笑んだ葵の笑顔は何だか上機嫌だ。昼間お袋と一緒に買い物に出かけると言っていたから、きっと楽しく買い物できたのだろう。女性というのはとにかく買い物が好きなんだなぁと思う。おれと親父はお袋の長い買い物につき合わされるのが嫌で、できるだけ逃げているというのに。
「……ただいま」
笑顔の葵を見てそう返し、おれはすぐに足袋を脱ぐためにしゃがんだ。多分自然に笑えていたと思う。そう願って無言で足袋の金具を外していく。葵は立ったままおれを見下ろしているようだった。上から降ってくる視線を後頭部で感じていた。
何か言ったほうがいいかな、と思って口を開きかけ、ああ、必要以上に話しかけないんだと思い直した。
おれが黙ったままでいると、葵も黙ったままでいるようになった。もしかしたら、葵は気づいているんじゃないかと思う。おれがあまり話さなくなったことに。
脱いだ足袋を下駄箱の下に放り込み、よいしょと立ち上がって玄関に上がる。
立ち上がったときにおれの顔を追って葵の視線がついてきた。ふっと視線が合って、葵が口を開いた。
「栄」
「……ん?」
こちらを見上げてくる葵の瞳は、いつも通り綺麗な茶色がかった緑の虹彩で、でも波立つ水の表面のようにどこか不安げに揺れておれを見つめていた。
何かを言いたそうな大きな瞳。……きっと葵は気づいている。聡いから、葵は。
そう思ったら居た堪れなくなって、こちらから視線を外してしまった。
一瞬の間。
視線を外しても見えている視界の中で、葵がとても寂しそうに目を閉じるのが見えた。口元は諦めたような笑みの形を作る。そんな顔は、今まで見たことなかった。出会ってから葵は、そりゃ泣くことはあったけれども、こんなに辛そうな顔をしたことなどなかったのだから。
「……葵? 何か、あったのか?」
思わず口に出して尋ねていた。葵から離れようとしている自分に、彼女を心配する権利などないと知りつつも。自然と伸びそうになった右手に気づいて、ぐっと力を入れて体側に留めた。
葵は一瞬驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には穏やかな笑顔に戻って肩をすくめた。
「……ううん、何も。 それよりご飯できてるから、着替えたら早く来てね」
そう言って、彼女はすっと踵を返して台所へ向かった。彼女が動いたことで起こった小さな風が頬を撫でて消えた。……なんだかひどく打ちのめされた気になって、ズキンと痛んだ胸を押さえた。さっきの、穏やかな笑みは。何か葵の感情を覆い隠した偽者の笑顔じゃなかったか。
着替えるために自室に向かいながら、断続的に痛む胸をそっと押さえて考える。
葵があんな顔をする理由はなんだろうか。何か、あったのだろうか。
……聞きたい。どんな小さな不安であろうと、彼女を苛むものは全て取り払ってあげたい。
でも、聞けない。もう近づかないと自分自身が決めた。枷をはめた。葵が相談してくるまで、おれは自分からは動けない。
洗面所に入り、ばさ、と脱いだ作業着を洗濯籠に放り込みながら、はん、とため息をついた。
「……相談なんてしてくれるのか? こんなおれに」
葵のことを見ない、話しかけない。あからさまに距離を置いている今のおれに、葵は声を掛けるのを躊躇ってはいないか。そんな状況で相談なんてしてくれるとは思えなかった。
石鹸を泡立てて手を洗い、ついでに冷たい水で顔をがんがん洗う。息苦しくなるほど水で濡らして冷たくなった肌からぼたぼたと水が滴り落ちていくのもかまわず、おれは鏡の中に映った、情けない顔の自分を見て再びため息をつく。
「……はぁ。……なんか、こんなはずじゃ、なかったんだけどな……」
わからなくなっていた。
……守ろうと決めた。純粋なままで。だから距離を置くことにした。
けれども今、彼女は何かに心を痛めている。それをおれに隠してひとり、不安に震えている。
守りたいなら、不安定な彼女を支えられないままでいいのだろうか。
傍で話を聞けないままでいいのだろうか。
おれは、自分の選択が正しいのかどうかがわからなくなってきていた。
タオルで顔を拭いて居間に入ると、お袋と葵が出たり入ったりしながら、テーブルの上におかずを並べているところだった。
親父は既に定位置でビールを片手にテレビを眺めている。おれもいつもの場所に座り込み、今日の出来事を伝えるニュースに目をやった。別に世間のことになんか興味はなかったけれど、ニュースで伝えられることくらいは知っておかないと他の職人さんたちとの話しについていけない。ぼんやりと心半分で耳を傾けていると、ふいにお袋に呼ばれて驚いた。
「……栄! ちょっと、ほら、ご飯受け取って!」
口調に驚いて肩をびくっとさせ、反射的にそちらに手を伸ばした。指に触れる茶碗の感触とそれを支えるお袋の手の感触。そんなに怒らなくたって、普通に呼んでくれればいいのに、と思いながら視線を巡らすと、おれの茶碗を持っていたのはお袋ではなく葵だった。
「……っ!!」
――ゴトン、と落ちたご飯茶碗、飛び散る米粒。
驚愕に見開かれた葵の目、おれを見つめる、湖のような、目。
「……ご、ごめん!」
慌てて謝ってテーブルの上のご飯を回収して茶碗に戻す。幸いおかずの上ではなかったし高い位置からではなかったので被害は少なかった。
「何してんだ、栄」
「そうよー、何してるのよー。アルちゃんが何回も呼んでるのに気づかないし、茶碗は落とすし、何してるのよ、全く」
親父とお袋に口々に言われ、恐縮して身を縮めた。
「ご、ごめん。なんかよく見てなくって」
はは、と笑って誤魔化しながらそっと視線を上げて葵を見た。……おれは心がすっと冷えるのを感じた。
「……葵?」
先ほどの驚愕に見開かれた目、表情のままで葵は固まっていた。手も茶碗を支えていたときのままの形で中空に留まっている。その様子は衝撃を受けたまま固まってしまった彫像のようで、生きて動くことが信じられないほど生気を失っていた。
お袋も葵の様子に気づいたのかはっとして、努めて明るく声を掛け、そっと体に触れた。
「アルちゃんご飯ついてない? 大丈夫?」
お袋の声と触れた手のひらに反応するように、葵ははっと息をついた。一時停止ボタンを解除されたように、瞼も腕も滑らかに動き出す。
「え、あ……、大丈夫です」
お袋は葵の背中を気遣うように撫でた後で、おれのほうを一瞬睨んでから笑顔で言った。
「栄は今日おかわりなしね。……さ、食べましょ、食べましょ!」
『おかわりなし』宣告はいつもなら文句を言って断固反対するところだが、今日は素直に頷いた。なんだか胸が一杯で入る気がしなかった。先ほどまでぺこぺこに空いて音を立てていた腹の虫さえ急激に大人しくなって食欲が失せていた。
おれは動きの鈍い右手を動かし箸を持つと、空気に触れて冷めてしまったご飯を一口、口に入れた。葵のほうをそっと窺うと、彼女も少しづつおかずを口に運んでいたがいつものような元気はなかった。食卓に満ちていたはずの会話は今はなく、音はテレビの中から発せられる、無遠慮な笑い声だけだった。
夕食後、風呂に入ろうと着替えを準備して風呂場に向かうと、葵がやってきた。
「あの、栄……」
「ん? 何?」
脱衣所に入って早々、扉も閉めずにTシャツを脱ぎだしていたおれは、半分脱いだ中途半端な状態で葵の声に振り返った。
葵は顔を逸らし、気まずそうにしていたので慌ててまたシャツに袖を通して向きなおる。
「えと、どうした?」
「あ、あのね。今日は買い物行って疲れちゃったから、お風呂入ったらすぐ……寝るね。だから……」
お袋と買い物に行ったのならそれは疲れることを身をもって知っているおれは、葵の言いたいことを察知して先を続けた。
「ああ、大変だったな。じゃあ勉強はまた明日な?」
そういう意味だろう、と疑問系で尋ねてみたが、葵の反応は少し鈍かった。
「…………うん」
「? 葵? どうした?」
数秒間の奇妙な沈黙が何だかひどく不自然に感じて、自然に問い返してしまった。けれども葵は何も言わず、俯いたまま首を振ってポツリと言った。
「……おやすみなさい」
「あ、ああ、おやすみ」
おやすみと言われてしまえばそう返すしかない。一度もおれの顔を見上げることなくそのまま去っていく小さな背中を見送って、おれは首を傾げた。疲れている、というならそうなのだろうが、元気のない背中はいつも以上に小さく思えた。思わず声を掛けそうになって……やめた。
掛けられる言葉が見つからなかった。葵を心配する権利さえおれにはないように思えた。葵を避けているおれが、何の権利があって彼女のことを気に掛けられるのだろう。
「……はぁ」
大きくため息をついて頭を振ると、何故かお袋が近くに立っていた。
「栄」
「ん? なんだよ」
怒っているような不機嫌な声に、訳もわからずぶっきらぼうに返す。 エプロンをしたお袋は渋い顔をして両手を組んだ。
「他人の……特に息子の恋愛事情になんか口出したくないんだけど……」
そこで一度言葉を切り、なんと言ってやろうか、と考え込んでいるお袋におれは首を傾げる。……そんな真剣な顔をして一体何の話だというのか。
お袋はしばらくそのままうんうん唸りながら考えていたが、不意に顔を上げて真剣な顔で言った。
「……栄、あなたもっとしっかりなさい。お父さんもお母さんも、あなたをそんな情けない男に育てたつもりはないんですからね」
「……は?」
何のことやら前後が見えないんですが、と瞬きしながら聞き返すと、お袋はぎっとおれを睨みつけて捨て台詞と共に去っていった。
「自分の胸に聞いてごらんなさい」
「…………」
どすどすと足音荒く台所に引っ込んでいくお袋を呆気にとられて見送り、頭を掻いた。
脱衣所からの灯りがもれる薄暗い廊下でひとり、ぽつんと立ち尽くしていたが、そのうち自分が風呂に入るところだったことを思い出し脱衣所のドアを閉めた。
ひとりだけの小さな空間になってお袋の言葉を反芻してみる。『恋愛事情に口出し』『情けない男』……の辺りからお袋の言わんとするところを推測する。……正直、心当たりは多すぎるほどある。
「……はぁ、わざわざ言われずとも……」
お袋も結構鋭いからいろいろ分かっているのかもしれない。ああ、もしかしたら今日買い物に行ったとき、何か葵と話をしたのかもな。
考えながらバサバサ服を脱ぎ、風呂に入った。
熱いシャワーを頭から浴びながら、唇をかみ締める。
……おれだって自分がこんなに情けないとは知らなかったけど
きゅっとノブを回し、シャワーを止めてシャンプーを手に取る。わしゃわしゃがしがしと髪を洗いながら、この胸のモヤモヤが何とかならないものかとそればかり考えていた。
イライラする感情のままに掻き毟るように頭を洗っても、痛くなるのは頭皮だけ。ひりひりするのに耐えながらシャワーで泡を流し、ため息をついた。
「なんで、なんかこう……。……上手くいかないかな」
ぽつりと呟いた独り言は、浴室の中で響いて湯気の中に溶けるように消えた。
何一つ、具体性のある考えも、前向きな考えも浮かんでこない。このままじゃダメだという漠然とした焦りを感じつつも、混沌と化した心は何の答えも導き出せずにただ、重たく沈んでいくだけだった。
翌朝。
起きたばかりの朝だというのにがっくりするほど蒸した暑い空気に文句を言いながら、冷たい水で顔をジャブジャブ洗う。
「……暑っついなぁ……なに今日の気温、いや湿度か……」
昨夜もそれなりに暑かったが、正に夏、と言わんばかりの蒸し暑さに辟易する。天気予報では今日は真夏日になると言っていた。それに加えて何故か高い湿度が体感の暑さに拍車をかけているのだろうと、髭を剃りながらぼんやり思う。
新しいタオルで顔を拭き、そのタオルを首にかけて洗面所をでるとお袋の声が聞こえてきた。
「栄ー? アルちゃんがまだ起きてこないのよ。ちょっと様子見てきてー!」
朝食の準備をしているのだろう、台所からの大声におれは「はいよ」と耳を押さえながら返事をし、のそのそと客間へ向かう。
「ふわぁ~」
あくびをしながら廊下を歩き、垂れてきた汗を首にかけたタオルで拭く。客間の前まで来て立ち止まり、障子に伸びた自分の手を見て一瞬躊躇した。
……いや、だけどこれはお袋に頼まれたことだから必要な接触だ、などと頭の中で言い訳が成り立ったので、こほんと咳払いをひとつして声を掛ける。
「あおいー? まだ寝てるのか?」
障子の向こう側からの反応はない。普段だったらもうとっくに起きている時間だというのに、昨日よっぽど疲れていたのだろうか。
「……葵? 開けるぞー……」
寝ているにしてもこれだけ呼んでいれば目覚めるはずだ。おかしいなと思ったおれは、断りつつそっと障子を開けた。
「……あおい?」
いつもと何も変わらない朝だった。
ただちょっとだけ蒸し暑くて、
寝不足で。
確かに昨夜は一緒に過ごさずに別々だったけれど。
変わらないはずだった。
いつも通り、
ふにゃりと恥ずかしそうに笑って返事をしてくれると思っていた。
……でも。
部屋の中は、空っぽだった。
いるべき人物はそこにはいなかった。
布団も敷かれておらず、ただ畳敷きの和室に朝日が差し込むだけ。
「……う、そ……だろ?」
葵が、消えた。
……いなくなった。




