34 まさかの結末
射す様な夕日を左側前方から受けつつ、時速六十キロ少しで軽トラを走らせる。片側二車線、両側で四車線の国道は高速道路のような装いをしているが故に飛ばす輩も多いが一般道だ。せいぜい少しのスピードオーバーなら捕まることもないし、とぎりぎりのラインを見極めながら右車線を飛ばす。
前方に並び立つ緑の山々を見据えながら走るこの道は、先輩お得意のドライブコース。このまま西へ向かうとラーメンで有名な町に出るし、そこにはわりと大きなショッピングセンターもある。そっちへ向かうこともあると言っていたが今回は違うとおれは踏んでいる。三時半過ぎにアルを連れて出たのだ、夏の昼間は長いとは言えそこまで遠出するとは考えられない。
と、なれば。先輩が向かうとしたらもうあそこしかない。おれは視線を少し右側へやって距離を確かめた。前方にそびえる緑の山々の中でもこの近くの住人から愛される憩いの小高い山―大平山、その展望台。
『あそこから見る夕焼けが結構きれいでさー。夜景もいいし。女の子には出店の団子とか玉子焼きとか食べさせとけば文句でないし、人もそんなに多くないし。穴場だよ、あそこは』そんな風に嘯いていた先輩の言葉を思い出す。
「今の時期なら……あじさいは流石に終わってるけどあの人はそういうことは気にしないだろうし。葵なら玉子焼きと団子にころっといきそうだし……。間違いないな」
自分の推測に妙な確信を持ってひとり頷き、バックミラーで後続車を確認し車線変更、高架を降りる。最短距離であの山の展望台へ行くことしか考えていなかったが案外冷静な運転だった。エアコンもつけずに窓全開で風に吹かれるまま、ひたすらにメーターとにらめっこしながらぎりぎりのスピードで飛ばした軽トラは、程なくして山のふもとに着いた。
うねうねと曲がりくねる山の道を、がんばれと応援する気持ちでアクセルを踏むこと十数分。不意に視界が開け、道は広場に繋がった。そのまま少し行くと白い線の引かれた駐車場があり、そこには―。
「……あった、先輩の車」
鮮やかに目に飛び込んでくるマツダの赤いRX-7。形のかっこよさと真っ赤な車体がとても先輩らしい。もちろんおれは赤いスポーツカーなんて興味もないし要らないが。
自分の推測が当たったことにほっとしつつ、先輩の車の隣の隣の場所に軽トラを停めた。駐車場には他に二三台の車しかなくスカスカだったのだが、まぁ、いくらおれがかっこいい車に興味がないとはいえ、すぐ隣に置いてしまっては実用一辺倒の、言ってしまえばあんまりかっこよくない軽トラと直で比較してしまうようで気が引けた。
車を停めてすぐに降り、先輩の車に近づく。
「おー、結構早かったな、栄」
近くまで寄ったらバタンと閉めたドアの音に気づいたのか、少し離れた場所からおれを見つけた先輩が歩み寄ってきた。左手をズボンのポケットに突っ込み、右手を上げてひらひらしている。右側だけを少しあげたお決まりのニヒルな笑みを浮かべ颯爽と歩いてくる姿は、相変わらずの遊び人の空気をそのままに伝えてきた。
「……何、してんですか、先輩」
全く悪びれのない先輩の様子に、おれは真剣に睨みつけて応対する。四年の間に見境のない女好きが変わっていたなら話は別だが、様子を見た限りでは変わっていない。葵を連れ去った、という一点に対しておれは非常に怒っていた。大体、『結構早かった』って何だ。おれが来ることを予想してたっていうのか。
「葵は、彼女はどこですか? まさか一緒にいないってことはないですよね」
予想してようがいまいがどっちでもいいが、今は葵の姿が見えないことが気に掛かる。目だけ動かして周囲を見るが、先輩の後ろにも、展望台の方にも葵の姿はない。何故先輩と一緒にいないのだ。一体どこへ。
おれの気配が鋭くとがっているのを察したのか、先輩は一度大げさに目を丸くしてからポケットから手を出し、両手を挙げて“降参”のポーズをとった。そしてにやにやと薄く笑いながら親指で車の方をしゃくる。一々芝居がかっているのがこの人の特徴で、大概の女性はこの人の所作やら視線やらでやられてしまうらしいが、おれはその動作にすら苛つきつつ、車の方を見た。
先輩の赤いRX-7の助手席の開いている窓の中を覗くと、そこには椅子にもたれてすやすやと眠る葵がいた。
「……よかった」
とにかくの無事を確認したおれは小声でそう零した。何故眠っているのか、という沸々と湧き上がる不穏な疑問はすべて先輩にぶつければいい。そう思ってため息とともにひた、と先輩を睨みつける。
「……おーい、そんな邪険な態度取るなよー。久しぶりに再会したっていうのに」
なおもおれが無言でいると、先輩は両肩を大きく上下させてわざとらしく言った。
「やー悪い、別に何かしようと思って連れてきたんじゃなくってさ。お前の彼女だって知ってて興味あって、偶々別の男と一緒にいたの見かけたから連れてきちゃっただけでー」
おれが何かの誤解をしていると思ったのか、先輩は大げさな身振りとともに言う。間延びしたしゃべり方は女の子を油断させる計算なのだそうで、それも四年前と全く変わっていない。
「……それで言い訳になってると思いますか? そもそも何で葵のことを……」
おれは追及の態度を崩さすにそう告げた。先輩後輩の関係が何だ、一歩間違えれば誘拐まがいのことをした人に対して下手に出る必要もないし、今そうしたくもない。すやすや眠っている葵をちらりと確認し、おれは先輩の言葉にじっと耳を澄ます。
「あー、それは前にお前とこの子が一緒にいるとこ、スーパーで見てな。あまりのラブラブっぷりに声かけらんなかったから逆に気になっちゃって。まー美人な子捕まえてお前。一体どこで拾ったんだ?」
「う……」
悪びれなく笑って告げられた言葉におれは一瞬倒れこみそうになった。……なんだ、元はといえばおれの失態か。
あのたった一度、葵をスーパーに買い物に連れ出したときに目撃されていたなんて。葵の容姿は女性、しかも美人とくれば声を掛けずにいられないこの人の注意を引くには十分だったはずだ。
それに、『拾った』なんて言葉がちょうど当て嵌まりすぎていて怖い。『拾った』といえば確かにおれは葵を拾ったのと同じなので、事情を全く知らないにも関わらずどんぴしゃな言葉を放ってくる先輩が恐ろしい。まさか女性関係に特殊な能力でもあるのではないかと思って思わず引いた。微妙な顔つきになったおれを面白がるように笑って、先輩は話を続ける。
「はは、しかし女嫌いだと思ってたから、こんなとびっきりの美人捕まえるなんて、逆に捕まったのかと思って心配したけどさ。面白いくらいに素直でいい子だな、お前の彼女」
「……は?」
一体なんの話だと、それまで怒りと緊張で張り詰めていた気持ちが一気に緩んでしまった。
「やー、女の扱いとか逐一話はしてたけど実際彼女とかいなかったろ、お前。それで会わないうちにいきなり彼女できてて、おお、と思ったわけだよ、おれは。そんで実際どんなもんかと思って久しぶりに予定のない休みだったからお前の家に行って話聞こうかと思ったらお前いないし」
「……はぁ」
「で暇だったから映画でも見に行こうかなって映画館行ったらさ、お前の彼女別の男と一緒にいるじゃんか。わー、おれの予感当たり? まさか栄くん、彼女に騙されちゃってるの? と思って」
そこまで聞いていて話は見えてきた。おれはなんとも言えない気持ちで口を挟めずに、先輩の話の続きを待った。
「そんで茶髪の軽そうな男が電話してる隙に『おれ栄の先輩だよー、甘いもの食べに行かない?』って彼女誘ったらあっさり付いて来たからますます確信深めちゃって。浮気してるとか、おれに余計なことを栄に吹き込まれる前に口封じしたいのかなと思って警戒してたんだけど……ぷぷっ! くっくっく……あははー!」
そこでいきなり先輩は笑い出し、ちょっと待て、と手で指示してきた。腹を抱えて本格的に笑い出した先輩をちらっと見下ろし、おれは待てといわれりゃ待つだけだ、と視線を逸らしてため息をついた。
先輩の行動の理由も、葵が先輩について行った理由も分かった。先輩はおれが美人な女に騙されていないか確認したいが為に葵を連れ出したのだ。恋愛ベタなおれを心配して。
そして葵は『栄の先輩だ』と言われて無条件で目の前の男を信用したのだ。洋二のデートをOKしたときも、洋二が『おれの弟』だと思っていたからこそ警戒しなかったわけで、おそらく先輩がいつも通り普通にナンパしたならば、葵は洋二の傍を離れなかったのではないかと思われる。そう考えると……つくづく葵にどう話をしたらいいか、迷う。何がツボに入ったのか笑い続ける先輩を無視して、助手席に収まって気持ち良さそうに眠っている葵を見ながら額に手を置いた。
葵が誰かを信用するのは……おれに関係している人、だ。それは悪いことではないけれども、誰でも『日向栄の知り合いだから』と言われてほいほい付いて行ってしまうようでは困る。
まさか女好きの先輩に攫われて心配で飛んできた結末がこんな風だったとは予想もしなかった。もはや緊張感などどこかへ消え去ってしまって、残っているのは脱力感と情けなさだけ。
「ひー、あー、おっかしかった! 悪いな、一人で笑いこけちゃって」
ようやく笑いが収まったらしい先輩が、目に涙を浮かべながら立ち上がった。何がそんなに面白かったというのか、おれはなんだかどっと疲れを感じながら先輩に向き直った。
「それがさぁ。……ぷっ、どんな悪女かと思ってたわけなんだけど! 車中、口を開けばお前の名前しか出ないんだよ! 『栄は昔どんな風だったの?』って言うからお前が高専生だったときの話してやると目ぇキラッキラさせちゃって! しばらく興奮してたかと思えばふっと『栄は今何してるかな』って遠く見たりさ! 『お団子、食べたいけど早く家に帰りたい、栄が待ってるから』とかさぁ、可愛いことしか言わないんだ」
……その光景が目に浮かぶようだった。顔が赤くなっているだろうことを自覚して黙り込むしかない。先輩の話はなおも続く。
「そんでおれはつい、『栄を騙して貢がせてる、とかじゃないの?』って直球で聞いちゃったんだけど、彼女、こてって首傾げて固まっちゃってさ! 『……ミツグって何ですか?』って大きな目瞬きさせながら真剣に聞くの! もー、こりゃ本物だ、おれの勘違いだって」
「……ああ、もう」
おれは恥ずかしさに顔を背け、手で隠した。先輩はおれの様子を見てまた笑い出し、おれはいたたまれなさに悶えつつも耐えるしかなかった。
……あーおーいー! 何言っちゃってくれてるのー!?
すぐそこの展望台から、抜けるような高い空に向かって叫んでしまいたい。もう恥ずかしくて立っていられそうにない。
女に騙されてないか先輩に心配されていたのも情けなさで一杯だったが、それ以上に葵の発言内容は痛い。ここでも見せ付けられた純正培養箱入りお嬢様発言をどう取り繕ったらいいものかと、おれは動かなくなった脳を振り絞るかのように動かそうと試みた。
「あー、先輩。それで、あの、葵が今寝ちゃってるのは……何故でしょう」
振り絞った結果、口から零れ出た言葉に内心でがっくりする。……更に墓穴を掘るような予感がひしひしと、する。
「くっくっく、あー、それはな、団子を食べたらさ、あそこの団子結構量あるじゃん? でもおいしいおいしいって全部食べて、腹一杯になったんじゃね? 景色見てるうちにうとうとし始めたから、車で寝ればって言ったらそうするって」
……あーおーいー! 無防備に他の男の車で寝ちゃいけません!!
心の中の叫びを汲み取ってくれたのか、先輩は涙を拭いながらおれに言ってくれた。
「もうさ、本当に寝ちゃった彼女見てたらほんわかしちゃって! もしお前を騙すような女だったらいたずらしてやろうと企んでたけど、それどこじゃないよな。こんな純粋な子、手ぇ出す気にもなんないもん。裏表一切なし、おれへの探りもなし、疑う様子もなし、とくりゃ、おれはただお前が駆けつけるのをぼーっと待つしかなかったって話。……よかったな、可愛くて素直な彼女が出来て。ま、ちょっと心配なところはあるがな」
最後は苦笑しながらの台詞に、おれは頭痛を覚えつつ同意を示した。男の車の中で無防備に眠ってしまうなんて、手を出してくださいといっているようなものだと思う。それを素で実行してしまうのだから葵は怖い。もし先輩が本当に本当にどうしようもないただの女好きなら今頃無事ではいられなかったのではないかと、恨みがましい目つきで葵を見遣る。もう少し危機感というものを覚えてもらわなければ、と家に帰ったら懇々と言って聞かせようと心に決めた。
「そういや一緒の家に住んでるとか彼女言ってたけど、まさかもう結婚してたりしないよな?」
「うっ」
すっかり言いたいことを言い終えてすっきりした表情になった先輩がふと思い出したように質問を投げてきた。葵に話すことを考えだしていたおれには直球すぎる直球で、思わず固まってしまった。数秒後、なんと答えたらいいかわからずに、でもつい答えてしまう。……自分の、願望を。
「え、えーと、いや……結婚は、まだ……ですが、でも……」
「ふ、だよな。おれに報告もなしに結婚してるはずもないよな。ま、いろいろ決まったら盛り上げてやっからちゃんと言えよ、な」
妙に威圧感のある言い方で真剣な表情でそう言ってくる先輩に、『いや、何で先輩に報告しなきゃなんないんですか』とも言えず、そもそも『本当は結婚はおろか彼女ですらないんです』とも言えず、おれは曖昧に笑い、うなずいた。
「……はい、ぜひ」
その後先輩の車から葵を運び出し軽トラに乗せ、先輩は赤いスポーツカーのエンジンもけたたましく颯爽と帰っていった。おれは展望台のほうへ向いた軽トラのフロントガラスから夕闇に染まっていく街を見下ろしながら、隣から聞こえてくる規則的な寝息を聞いていた。太陽はだいぶ西に傾き、東に向いたこの展望台は太陽に追い越されてすっかり薄暗くなってしまっている。
ぽつぽつと灯り始める街の明かりをぼんやりと見遣った後、笑みを浮かべて眠る葵の寝顔を見てため息をつく。
……まったくもって先輩が女好きとは言え、葵に手を出すようなことがなくてよかった。まぁあの人はおれを心配して葵を連れ出したのだし、何もなかったということには本当に安堵した。
「ぅーん……お団子、おいしいよー、さかえ……」
首をこちらにこてんと向けた葵が目を閉じたまま不意に呟いたのに驚く。一瞬止めた息をゆっくり吐き出しながら葵の前髪にそっと触れる。
「……なんだ、寝言か」
……団子を食べている夢を見ているのか。そしてそこにはおれも?
幸せなその構図を頭の中に描いて、思わず口角が上がる。ハンドルに寄りかかるように体重を預け、しばし葵の幸せそうな寝顔を見つづけた。