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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
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33 急転を告げる電話



何分置きに時計の針を睨みつけていたのか分からないが、じりじりと進んでいく時計がようやく三時半を指した。


 洋二がどんな映画を選んでそれが何時からの上映なのかなどさっぱり分からないが、二時間ものならばそろそろ終わってもいいだろう。時計と同じくらいの頻度で睨みつけていた電話はうんともすんとも言わずすまし顔でそこに鎮座しているだけで、鳴って欲しいときに限ってあのうるさい音は鳴らない。


「栄ー? 暇なら洗濯物取り込んでくれないかしら。お母さんちょっと手が離せないから」


 台所で夕飯の仕込みをしているらしいお袋が、居間のテレビの前に陣取ったおれに声が掛けてきた。何をするにも手につかず、テレビをつけっぱなしにして眺めている振りをするほか、時間をやり過ごす方法が見つからなかった。あんなに熱心に眺めていた植物図鑑も、建築士試験の本も開く気にもなれなかったので仕方がない。


「あー。わかったよ」 


 お袋の声にリモコンに手を伸ばしぷちっとテレビを切った。直前まで見ていた映画の主演俳優の名前すら記憶に残っていない。ハリウッドの有名な人だなぁと思って眺めていたのだけれど、内容など頭の中に少しも引っかかってこなかった。

 どうせすることもなく暇なのは確かなので、すぐに立ちあがる。家の庭にいてもけたたましい電話のベルの音は聞こえるし、と妙に疲れた感のある目を擦りながら玄関に向かった。


「あ、そうそう、栄! 言うのを忘れていたんだけれどね」


「ん? 何?」


 サンダルを引っ掛けようと右足を下に下ろしたところで、お袋が台所から顔を出した。


「午前中ね、あなたとアルちゃんが出掛けた後だったんだけど、谷中(やなか)くんがうちに来たのよ」


「谷中くんって……谷中先輩?」


「そう、その谷中くん。なんでもね、栄に確認したいことがあるとか言ってたけど、『栄は出かけました』って言ったら『また出直します』って。……なんなのかしらね」


「おれに確認したいこと……?」


「すぐに帰っちゃったから他には何も言っていなかったけど。気になるなら電話してみたら?」


「ああ、わかった」


 返事をしながらサンダルを両足に突っ掛けると、お袋は「じゃあ洗濯物はよろしくね」とまた台所に引っ込んでいった。

 カラカラと玄関の引き戸を開け、日差しが燦燦と降り注ぐ夏の庭に出る。わさわさと茂る木や花の緑がわっと目に飛び込んで来て、その色合いの濃さに少し目を細めた。もう見慣れるほど見たひまわりの花も、相変わらず大きな黄色の花を揺らしている。


「谷中先輩、か……」


 すっかり乾いた洗濯物を掴み、ひとつひとつハンガーから外しながらその人の顔を思い浮かべた。高校……おれが行ったのは高専だったから、高校と言うべきか大学と言うべきか曖昧なところはあるが、とにかく高専でも別の学科の二個上の先輩だった人だ。

 特に部活に所属するつもりもなかったおれに、入学した春にバスケ部に入らないかと熱心な勧誘をしてきたのが谷中先輩だ。上背があってがっしりし、背もそれなりに高いおれをどうしても引き込みたかったらしいが、その餌として女の子を連れてこられたときは辟易した。

 そう、男子の中では(とはいっても高専はほぼ男子で構成されていた)有名な話だ。谷中先輩は当時から『歩く女の子ホイホイ』と渾名(あだな)されるほどよくモテる人で、自身もかなりの女好きだった。「この子紹介するよ」、と目の前に化粧のケバケバしい女子を連れてこられたとき、なるべく穏便に断ったが代わりに部に入ることを固辞することはできなかった。

 指などを怪我すると大工の仕事に差し障るのでできるだけ入りたくはないなぁと思っていたのだが(その頃から親父の仕事を作業場などで手伝っていた)、熱心(強引ともいう)な勧誘に負け、結局入部することになった。なし崩しで所属したバスケ部ではあったが入ってみれば楽しく、高専で過ごした五年の思い出はほとんどこの部の仲間たちとの出来事である。


「うーん、谷中先輩が家へ……いい予感はしないなぁ」


 「悪い人じゃなかったけど」とぶつぶつ言いながら、洗濯物を掴んでは廊下の窓から中に放り込んでいく。廊下に山積みにしておいて後で畳むのだ。頭では別のことを考えているが単純作業なので失敗はない。バスタオルをまとめてばさばさと埃を落とした後で同じように投げる。ふわっと一瞬浮いて洗濯物の山の一番上に覆いかぶさったのは、葵専用になったピンク色のバスタオルだった。


 部活動は週に三、四回ほど皆で集まってバスケをし、時々近隣の高校や大学のバスケ部と試合をしたりした。先輩は顔が良いだけでなくバスケも上手く、また教え方も上手かった。自分で勧誘しただけあって、おれには特に熱心に教えてくれていたように思う。だが先輩はバスケ意外ににも所属している同好会があった。それは……『ナンパ会』だ。

 よくモテる先輩が、モテない男子どもにナンパ必勝法を教えるというなんとも切ない趣旨の集まりで、同好会とは言っても学校で認可されているようなものではなくて、藁にも縋りたいという一部の男達が先輩の周りに集まっているだけの格好だった。もちろんおれはそれを傍目で眺めて頑張ってるなぁと思っていただけだったが、先輩は毎日女の子をとっかえひっかえとても楽しんでいる様子で、おれと学内で会うといつも「彼女できたかー?」を挨拶にするような人だった。


 そんな先輩が。

 おれが卒業して二年。先輩が卒業したのはもう四年前だ。四年間、とくにあれこれ連絡を取ったわけではなく、偶に街であって話す程度で、年賀状のやりとり程度しかなかった先輩が。


「……一体何の用があるって言うんだ」


 もう嫌な予感しかしない。女好きのあの人のことなのだ、女に関係のない話題など、おれに振ってくるはずもない。

 ぶるる、と悪寒に身を震わせながら、最後に残った葵のパジャマを手に取った瞬間、プルルル…と、電話が鳴った。


 おれは葵のパジャマを掴んだまま玄関まで走り、けたたましい音を立てる電話の受話器を取った。電話の音に反応して台所から出てきたお袋とほぼ同時だったが、おれのほうが一瞬早かった。

 お袋はダッシュで外から来たおれに不審な顔を向けたが、不思議そうに肩をすくめ、台所に引き返していく。


「も、もしもし……! 日向ですが」


 期待していたのはもちろん葵の声。しかしそれは裏切られ、聞こえてきたのは……


「あ、兄貴っ! 兄貴っすか?」


「……洋二……」


 受話器から聞こえる少しくぐもった声は聞き間違いようのない、洋二の声だった。おれはがっくりと肩を落としつつ、さっきよりもだいぶ勢いの落ちた低い声で洋二に返事をする。


「なんだよ、洋二」


「あ、あ、葵さんって兄貴の彼女さんっすか!?」


 電話の向こうから上がる驚きと緊張を含んだ声におれは目を丸くして固まった。葵が、おれの彼女。どういう成り行きでそういう話に至ったのか分からないが、まさか葵がそう言ったのだろうか。


「あー……」


 おれが何と言ったらいいかと悩んで黙ってしまうと、沈黙を肯定と受け取ったのか洋二が泣きそうな声で謝ってきた。


「うわーすみません!! 兄貴! まさか兄貴の言ってた彼女さんが葵さんだなんて!! そういえば茶色のくるくるって前に言ってたし、最初に気づいてたら良かったのにぃ!」


「……いや、その……洋二。葵が、そう言ったのか? おれの……彼女だって」


 洋二の謝罪なんて正直どうでもいい。作業場の妖精に舞い上がっていた洋二に言えなかったのも、デートに行かせたのもおれなのだから。それよりも何故洋二がそれを知ったのか、そっちの方が重要だ。


「え、いやそれが、さっき映画終わって出てきたんすけど、葵さんが『今度は栄と来たいな』ってぽろっと。栄、なんて名前おれ兄貴くらいしか知らないし、恐る恐る聞いたんすよ。『栄って日向栄さんのことっすかって』そしたらにっこり笑って『そうだよ、栄は栄でしょ?』ってきょとんと返されて。話聞いてみたら一緒に住んでるって言うし! もう、兄貴、作業場の妖精さんは自分の彼女だってなんで言ってくんなかったっすか!!」


 洋二は臨場感たっぷりに葵との会話を語って聞かせてくれた。最後の方は完全に文句だったが。


「……すまん、洋二。お前があんまり浮かれてたもんで、夢を壊せなかったんだ」


 本当は全然すまないとも思っていないが、洋二を誤魔化すために適当なことを言っておく。

 しかし……『今度は栄と来たいな』なんて、ものすごい破壊力を持った台詞を葵が言ったというのか。そんな可愛い台詞、直接聞いてみたかった。洋二とデートしながらもおれのことを考えてくれるなんて、少しは浮かれてもいいだろうか。


「うう、それは……そうっすね。……で、兄貴の彼女さんって知っちゃったらデートどころじゃないんで、すぐ連れて帰るっす! ……って、あれ? 葵さん?」


「なんだ、どうした?」


 おれのことを兄と慕ってくれるだけあって、洋二には分別がある。思ったとおり出来のいい弟分だ。葵を迎えに行こうか、と一瞬思ったが、おれが行くのを待つよりは、帰ってきてしまったほうが早い。そう思ったのだが洋二の声の様子がおかしい。


「さっきまでおれの後ろにいたんすけど、葵さんが……」


 きょろきょろしながら葵を探しているのだろう、電話口の声がぶれる。おい、まさか葵がいなくなったとかいう……


「あーーー!!! ちょっと!」


「っ、どうした! 洋二!」


 不意に大声を上げた洋二に、電話口から一瞬耳を離したが、すぐに大声で怒鳴り返す。何が起きているのかは全く分からないが、葵に確実に何かが起きているのだ。


「谷中さんっす! 谷中さんに連れて行かれたっす!!」


 洋二の口から出た意外な名前にすぐに食いつく。


「はぁ!? 谷中さんってあの谷中先輩か?」


「そうっす、兄貴の先輩の谷中さんっす! この辺じゃ有名だし、おれも何度か会ったことあるんで間違いないっす! おれすぐ追いかけます! 葵さん、もう車に乗せられちゃってるんす!」


 がちゃん、と慌てて切られた受話器から、プープープーと無常な電子音が聞こえてきた。


 ……なんなんだ、先輩のこのタイミングは。


 受話器を手に持ったまま、おれは放心状態だった。

 女好きで有名な先輩が家に訪ねてきた。そして今、洋二と一緒に映画館にいた葵を車に乗せて?


「……栄? 何かあったの?」


 お袋がおずおずと声を掛けてきた。おれが電話口で声を荒げたのが聞こえたのだろう、いつの間にか近くで心配そうにおれを見上げていた。


「……葵が、谷中先輩に連れて行かれたって……」


 端的に事実だけを呟いて、ようやく受話器を元に戻した。おれの言葉に両手を口に当て絶句したお袋は、一瞬で顔色を悪くして一歩後ずさった。先輩の女好きはお袋も知っていた。


「さ、栄……アルちゃん、大丈夫なの……?」


「お袋」


「な、なに……?」


 いつになくうろたえるお袋を見ながら、おれの頭は冷静だった。……いや、怒りで煮えくり返って逆に沸点に達した故の安定なのかもしれない。


「洋二から電話あったら伝えて。『先輩のドライブコースならよく知ってるからおれが追いかける。お前は心配すんな』って」


 車に乗せた、というのなら話は早い。先輩お得意のドライブコースを走っているに違いない。『ナンパした女性はとりあえずドライブだね』と耳にタコができるほど聞かされ、やれあの道はどうだ、あそこの景色がいいんだと直接ご教授を受けているのだ。

 そっけなく低い声で呟いたおれに、お袋は蒼白な顔でゆっくり頷いた。


「……わかったわ……」


 おれはそのままサンダルから靴に履き替え玄関を出ようとし、そこで初めて葵のパジャマを握り締めたままだったことに気づいた。おれが握っていた部分は皺くちゃになってしまっていて、あーと思ったがお袋は黙ってそれを受け取り、大事そうに押し抱いた。

 自由になった両手でポケットに財布が入っていることを確かめ、軽トラのキーを取り出す。無言でエンジンをかけそのままバックで門を出る。顔を前に戻すとお袋が心配そうに玄関の前で立ち尽くしているのが見えた。おろおろと葵のパジャマを抱きしめたままこちらを見つめているお袋がなんだか急に可哀想になって、門から出る直前に窓を開けて言った。


「……大丈夫、ちゃんと連れ戻してくるから。……ちゃんと」


 そういうと、お袋の顔は分かりやすすぎるほどにほっと緩み、笑顔が零れた。お袋の心配が葵だけではなく、おれが安全運転するかにもあるだろうことは、顔を見ればすぐに分かった。……大丈夫、すっごく怒ってるけど、理性は失くしてない。


 手を振るお袋に一瞬だけ手を振り返して、すぐに目線と思考を切り替えた。公道に出て走らせる方角は、北西。


 先輩お気に入りのドライブコースとその終点。四年も経っているけど、この辺にそんないい場所はそうそうできないしきっと変わっていない。

 法廷速度をぎりぎり守りつつ、目的地へ。


「……葵、今迎えに行くから」


 洋二のときには安心して待っていられた。でもあの先輩なんかには。


「一瞬だって預けていたくなんてない」


 ぐっとアクセルを踏み込んで運転に集中する。

 急に傾き出した太陽の光に邪魔されながら、エアコンもつけずにひたすら走る。


「……待ってろ、葵」


 額にもハンドルを握る手にも汗が滲んだが、そんなことに構ってはいられなかった。



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