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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
31/128

26 新しい朝



 コン、コン。


 少しだけ開いたカーテンの隙間から差し込んでくる朝日の中、目覚ましを停めてぼんやりと天井を眺めていたおれの耳に届いたノックの音。お袋が起こしに来てくれたのだろうか、珍しいな。そう思って声を上げた。


「はーい、起きてるよ」


 体を起こしながら返事をし目を擦っていると、ドアがゆっくりと開いた。今日のお袋は妙にしおらしいな、いつも起こしに来るときはノックもせずに入ってきてカーテンを開けるのに。大きくあくびをしながらそんなことを考えていたのだが、ふっとドアの方に顔を向けたおれはあまりの意外さにすべての動きを止めて固まってしまった。


 そう、ドアを開けて顔を覗かせていたのは。ふわりと揺れる茶色のくるくるした髪、そして水色のスカートの裾。輝くような笑顔は朝日の中で揺れる、ひまわりのような。


「サカエ、おはよう。もうご飯できてるよってお母さんが」


「…………え、アル!?」


 たっぷり十秒は反応できなかったと思う。てっきりお袋がおれを起こしにきたものとばかり思っていたのに、ドアの影からおれの部屋の様子を興味深深で覗き込んでいたのはアルだったのだ。自分は未だ夢の続きを見ているのではないかと疑って、しきりに瞬きを繰り返して目が正常に働いているのかを確かめた。だって昨日目覚めたアルは、一月も寝ていたせいで布団の中で足を動かすことすらままならなかったのだ。一晩で立って、歩いて、しかも二階まで階段を上ってくるなんて、誰が信じられるだろう。


「ん? アルだよ? どうしたの?」


 不思議そうな顔をして首を傾げたアルに、おれは思わずいろんなことを口走りそうになったが思いとどまった。


「いや、どうしたもこうしたも……。アル、歩けるようになったのか?」


 ちょっと早すぎないか、と思ったが人間ではないのだから同じ尺度では測れないだろう。そしてそのことをアルに告げたとしてもなにかが変わるわけでもない。


「うん、昨夜眠れなかったから、布団の中で足動かしてたのね。それで朝になってから歩くの練習したらすぐに。ふふ、これで今日はお風呂に入れるの!」


 つまり昨夜は寝なかったと、寝ずに足を動かし続けていたら回復したと、そういうことだろう。おれはため息と共に苦笑し、脱力してしまった。なんて面白いことをするのだろうか。

 おそらくアルの言う“朝”は日の出のことだ。薄暗い中をうろうろ歩いていた様子を思い浮かべ、小さく吹き出してしまった。お風呂に入りたい気持ちがそれほどまでの原動力になったのか、全くすごいことだ。


「ね、サカエ、今夜はお風呂入ってもいいよね? 昨日そう言ったもんね?」


「はいはい、いいと思うよ。ってか風呂入りたいんならすぐにでも入ればいいよ。お袋に言ってさ」


 期待にキラキラと輝く瞳に見つめられて、ダメだなんて言えるはずもない。おれはアルの可愛らしさを胸の中でじんと感じながらもそっけなさを装い、布団をめくってベッドから立ち上がり大きく伸びをした。


「え、いいの? じゃあお願いしようかなぁ……」


 おれの提案にアルは考え込む様子で腕を組んだ。眉を寄せているその顔すら可愛く、その気持ちのむずがゆさに苦笑しながら、カーテンを開けた。薄暗かった部屋に一気に飛び込んでくる明るい日差しに目を細め、ああ、朝が来たんだなあと思った。

 おれは箪笥からシャツと作業着のズボンを出し、ベッドの上に放り投げてからパジャマのボタンに手を掛けた。そこではっと気づいてちらりとアルを見遣ると、彼女は未だに腕組みしたまま考え込んでいた。今一瞬、普通に着替えようとしていたけれども、彼女のいる前で着替えるのもなぁ、と思い留まって声を掛けた。


「アル、着替えるから、おれ。えっと、その……」


「ん? 着替えるの? 分かった。どうぞ?」


 出て行ってくれとも言えずに言いよどんだら、アルはさも当然のような顔をして首を傾げた。そのままじっと見つめられたおれは、まさかこのまま、アルが見ている目の前で着替えろということだろうかと気が遠くなった。


「……アル、おれの着替えるとこ、みたいの?」


 思わず半目で意地悪く聞いてしまった。別に彼女にそういう気持ちが一切ないことなど分かっている。分かっていてもなんだかやるせない気持ちになってしまったのだ。


「……?」


 案の定、彼女は不思議そうな顔をして、傾げていた首を更に反対側に倒した。駆け引きのできないほどの純粋さ。おれの気持ちなんてちっともわかっていないのに、そうやっておれの気持ちを翻弄するのだ。

 なんだか悔しくなっておれは無言でパジャマのボタンを外し、ばさっと勢いよく脱ぎ捨てた。明るい朝日の中でアルの目におれの上半身はどう映るのだろうか。そういう単純な好奇心だった。男の裸を見慣れているはずはないと判断しての行動だ。少しは困ればいい。

 そ知らぬ顔をして自然な動作で、でもゆっくりとティーシャツを手に取り、ちらっとアルの様子を伺った。彼女は相変わらずきょとんとした顔のままでじっとおれの裸を見つめていた。照れや戸惑いなど一切見せないその表情に、おれは逆にどうしたらいいのかわからなくなってぽかんとしてしまった。


「サカエ? どうしたの? シャツ着ないの?」


 あんまりおれが動かないでいたので、逆にアルのほうから声を掛けられてしまった。その声をきっかけにおれは金縛りから解けたようにすばやく、Tシャツを着た。伸びるTシャツの裾を掴んだまま、おれは何か敗北感のようなものを全身で感じていた。


 ……ああ、おれごときの裸ではアルの感情は動かないってことか? 結構鍛えているつもりだったのに! 胸筋とか特に自信があるし、腹筋も背筋も日々の作業でなかなかいい感じになっているのに! それか何か? アルは男の裸を見慣れているのか? まさか! 誰の裸を見てるって言うんだよ!! そいつ許せん!


 感情のまま思わず、無言でアルを見つめてしまっていたら、彼女はおれの妙な雰囲気を感じ取ったのか首を傾げながら視線を逸らした。そして何かに思い当たったのか、はっとして口に手を当て、一歩後ずさった。赤くなることを期待していた頬は、なにやら青く見える。……何だ、何を考えている?


「……ごめんなさい、サカエ! 私、気づかなくって。人間はそうじゃなかったのね? そうよね、ああ、ごめんなさい」


 怒られることを予期してびくびくする子犬のような目でおれを見て、必死な様子で謝ってくるアルを見て、今度はこちらが首を傾げてしまった。一体何のことを言っているのだろう。


「アル、何のことを言っているんだ? 人間はそうじゃないって。はっきり言ってくれ」


 怒ってはいないのだとアピールするように、できるだけ優しく言った。するとアルはアルで言葉が足りなかったことに気づいてうんうん頷きながら口を開いた。


「天使って仕事以外に一切興味がないから、みんな自分の体がどうなってるとか、他の天使の体がどうなってるとかにも興味がないの。だから着ているものとかもね、無頓着な天使もいてね、時々、その、何も着ていない天使もうろうろしていて……」


 語調が弱くなり、また目が泳ぎだしたアルの様子を見ていたら、にぶいおれにもなんだか話の方向が読めてきた。


「私は、その……皆と私の違いが気になっていたから、よく別の天使の様子を見ていたのね。じっと観察して、それで、見慣れては、いるの。……裸、とかも。向こうもね、見られててもちっとも気にしないから私、じっと見る癖がついちゃって……それで、その」


「……おれの着替えもじっと見ちゃったわけだ?」


「う、はい……。ごめんなさい、サカエは気にするよね?」


 天使ならではのエピソードだ。自分がどうあろうと、他の天使がどうあろうと、それが仕事に関係がなければ一切気にしない。じっと観察されようともなんとも思わないなら、そういう風に他者を観察する癖がついても仕方のないことだろう。そういえば今までにも、アルにじっと見つめられていたこともあったし、何かをじっと観察している様子を見たこともあった。観察癖か、そういうことか。

 申し訳なさそうに身を縮めてこちらを伺っているアルに、おれは力が抜けて笑ってしまった。別にアルはおれの裸に反応しなかったわけではなく、もはや見ることが当たり前になってしまっていたのか。……む、待てよそう考えると、アルはおれの体を観察したかったということになるのか? それはおれへの興味と言えないだろうか。


「……なぁ、アル、聞いても?」


 ふと頭の中に浮かんだ疑問をぶつけてみようかと思う。アルは少し不安そうな顔をして応えてくれる。


「え、何?」


「……おれの裸、天使と比べてどうなの? やっぱり天使の方が屈強なの? 筋肉とかどっさりついてるわけ?」


 いつも通りじっと観察してくれたのなら、見慣れてきた天使たちと比較ができるだろう。神の美意識の塊ともいえる美しい天使たちの肉体美に勝てるとも思わないが、アルがおれを見てくれたというその言葉が欲しい。おれに、興味を持って見つめてくれたという、その証明に。


「え……と。屈強、なのはサカエのほう。天使は肉体労働しないから、みんなわりと細身なの。だから、サカエは……サカエの体、がっしりしてて見たことない身体だったから……」


 アルの声がだんだん小さくなって、戸惑うように俯きだしてしまった。

 おれの体が、何だって? 話がいい方向に向かっている気がして、おれは期待を込めてアルを見つめた。


「……その、ちょっと、よく分からないんだけど、なんだか……素敵だなって、思った……の」


 搾り出すように小さく言ったアルは、ばっと両手で顔を覆ってしまった。しかし指の間から覗いている頬が赤くなっているのが見えてしまっている。縮こまって照れている様子が可愛くて可愛くて、おれはアルに向かって伸びそうになる両腕を必死に自制し拳を握った。


 ―素敵だな、なんて……殺し文句だな、これ。


 おれは心の中で盛大にガッツポーズをして喜んだ。アルの赤くなった表情も、その言葉も、おれの欲しいところをぐっとついている。何ということだろう。アルはおれを少しは意識しだしてくれていると、解釈してもいいのだろうか。……いいのだろうか?


 小躍りしそうになる足をぐっと床に押し付けて体を固めていると、アルはおずおずと顔を上げ、上目づかいでおれを見てきた。


「……へ、ん、だよね? ひとの裸見て、素敵だなんて感想、変だよね? ごめんね、サカエ、気分悪くした?」


 う、わ……これ、おれにどうしろと? この可愛い小動物をどう扱えと?


 緑がかった茶色の目は潤み、今にも涙が零れそうな様子で、小さな両手は胸の辺りで祈るように組まれている。不安に揺れる瞳同様、体も少し震えているように見える。

 その潤んだ大きな瞳が下から見上げてくるのを見ていたらすぐにも変な気を起こしそうで、もったいないと思いつつもぷいと顔を背けた。そしてすぐにでも抱きしめたくてアルに向かって伸びていきそうになる両腕を必死の思いで組んで、暴走しないように固めた。


「い、いや、大丈夫だ。その……そう言ってもらえると、おれも嬉しい、よ。鍛えた甲斐があるっていうもので……」


 なんと返していいかわからずに訳のわからない返事をしてしまった。そのままアルのことを見ることもできず、ふたり無言のまま、しばらく固まっていた。


 と、階下からおれたちを呼ぶ、お袋の声が沈黙を破った。


「栄~、アルちゃ~ん、早く下りていらっしゃ~い! ご飯冷めちゃうわよ~!」


 そういえばアルはおれを呼びに来てくれたんだっけ、と思い出してすぐに大声で返事をした。


「すぐ行く~!」


 両手を口に当ててラッパのようにしたら声がよく響いた。おれの大声にびっくりしたらしいアルが、肩を震わせたのがまた可愛らしく、おれはそんな彼女を見て笑ってしまった。


「はは、アル、おれ着替えてすぐ行くからさ、先に下りて行ってくれ。な」


 何の気もなしに彼女の肩をぽんと叩いたら、アルはびくっと大きく肩を動かし、先ほどよりも驚いたような表情で後ずさった。取り残された右手をそのままに呆然とするおれに、アルは視線を彷徨わせてどうしたらいいかわからない、といった様子であわあわしている。


「……アル? どうした?」


 力が強すぎただろうか。でも置いただけなんだけどな、と手の平に視線を落としながらアルを再び見つめると、彼女はおれの視線を受け止めてまた一歩、後ろに引いた。


「な、何でも……ないの! 先に、先に下りてる、ね!」


 そう言って踵を返し、アルはドアの向こうへ走っていってしまった。先に行けとは行ったけれども、取り残されたような気分になったおれは、未だあげたままだった手をゆっくりと下ろし首を傾げた。……一体、なんだというのだろう。わからないな。


 訳のわからなさにしきりに首をひねりながら、たたた、と階段を下りていくアルの足音が耳に届いた。その軽快なリズムと響く音が妙に心の中に引っかかって思わず、姿の見えないアルを目で追った。


 ドアの向こうに消えた、水色のワンピース。

 動くたびに揺れる、ふわりとした茶色の髪。

 感情を雄弁に語る、大きな瞳。緑がかった茶色の、透き通った瞳。


 そのすべてがおれに望んだとおりの今日が来たことを教えてくれた。


 昨夜願った“明日”が、ちゃんと訪れた。願った通りの、彼女のいる、“今日”が。


 ほっと安心感に包まれながらふっと吐息を零し、手早くズボンを履き替えた。なんてことはない会話さえも愛おしい。一緒にいられる時間と空間が、何よりも幸せに思える。先ほどのアルの様子はちょっと変だったが、これから聞く機会はいくらでもある。……そう、いくらでも。

 これから始まるのだ、と思う。おれと、彼女の新しい日々が。


 そんな期待感に胸を膨らませながら、おれは足取り軽く、階段を下りていった。




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