25 また、明日
障子の影から半分顔を覗かせたまま、おれは固まってしまっていた。
まさか、今だとは、今日だとは思わなかったから。
アルは横になったままだったが、はっきりと目を開き顔をこちらに向けている。寝ぼけているような眼差しではなく、ちゃんと目線が合って……そう、おれを見ている。
「サカエ……」
小さな唇が動いて、おれの名を呼んだ。固まっていた手足を動かして、よたよたとアルの元へと近づく。
ああ、アル、アル。ようやく、ようやく……。
「……アル? 起きたのか。どこか……痛いとか気持ち悪いとか、お腹すいたとか何かないか……?」
力なく枕元に座り込み、じっとアルの顔を見つめた。ああ、そんなことが言いたいんじゃない。いや、それも聞きたいことではあるけど、でももっと……。
もどかしい気持ちが渦巻く心で、どうしたらいいのか混乱している。
アルが目覚めたらやりたいことや言いたいこと、聞きたいことは山ほどあって、いろいろ妄想を繰り広げてきたというのに。何故今全く役に立たないのだろう。ぐるぐると回転だけしつつも何もはじき出さないおれの思考の片隅で、布団がごそごそと動くのを目が捉えた。
「サカエ」
アルが布団の隙間から手を差し出していた。真っ白く細い指が、膝の上で硬く拳を握ったおれの手に向かって伸ばされている。おれはすぐにその手を取った。しっとりとした温かさがあって泣きそうになる。
「……っ、良かった……アル。目、覚まして、くれて……」
アルの手を取った瞬間、我慢し続けていた感情が決壊し、涙が溢れた。
男が泣くなんて情けないと思ったけれども、一度零れてしまった涙は落ちていくだけだ。おれは屈みこみ、アルのその細く滑らかで、また暖かな温もりを頬に押し当てた。
「…っく、アル……アルっ……! ずっと、しんぱい、して……ほんと…良かった……っ」
「……ごめんね、サカエ」
アルはおれが掴んでいるのと反対側の左手で、おれの頭を撫でてくれた。おれは泣くのを必死に堪え、しゃくりあげながらアルの手を放せなかった。手のひらで、頬で、そして髪で感じる確かな感触。
彼女の呼吸、鼓動、声。
ずっと願っていた、求めていた日が訪れたことに感極まって涙が止まることはなかった。
「ごめんね、心配かけて。私……そんなに寝ていたの?」
アルはおれの頭を撫でながら不思議そうにそう言った。目覚めたばかりの病人に優しくされるのは逆だろうと思って、おれは必死に顔を上げた。多分涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔だったけど、アルの顔が見たかった。あの緑がかった茶色の、綺麗な瞳をちゃんと。
「……アルっ……っく、……」
「サカエ、顔、ぐちゃぐちゃだよ。ふふ、泣かないで、ね?」
おれは近くに置いてあったタオルを引き寄せて、乱暴に顔を拭った。アルの手を握ったままだったので、片手で拭きにくかったが放すつもりはなかった。拭っても拭っても溢れ出して来る涙を堪えて唇を噛み、後で洗濯すればいいと思ってタオルで豪快に鼻をかんだ。
アルは枕に頭を預けたまま、きょとんとした顔で涙でぐちゃぐちゃなおれを見つめていた。一月も寝ていたなんて意識はないのだろう、子供のように純粋な曇りのない表情。
掴んだままのアルの手をもう一度優しく握り直すと、嬉しそうに笑った。その笑顔を見ながらおれも自然と微笑み、ようやく涙が収まった。
「あ、そうだ。親父とお袋にも知らせてやらないと。……おーい、親父ぃ、おふくろー」
はた、と気が付いて大声を出してふたりを呼んだ。この一ヶ月心配し続けたのはおれだけじゃなかった。特にお袋には毎日昼間面倒を見てもらっていたので頭が上がらない。するとすぐにふたり分の足音と声が客間に近づいてきた。
「なぁに、栄、大声出して。アルちゃんに何かあった……、アルちゃん!!」
客間の障子の間から顔を出したお袋は、すぐに状況を掴んで声を上げた。飛び上がらんばかりに喜んで、おれとは反対側のアルの枕元へ座り込んだ。お袋の後ろから付いてきていた親父も、ほっとした表情を浮かべながら入ってきておれの横に座る。
「アルちゃん~よかったわぁ、心配したのよ~」
「はい、すみませんでした……本当に、ありがとうございます」
目に涙を浮かべたお袋は、アルを覗き込んで大げさに言う。親父は無言のままじっとアルを見つめ、様子を窺っているようだ。
「もう、一ヶ月も寝込むなんて想像してなかったから……お腹は空いていない? ずっと食べていないんだもの、お母さん心配で!」
「えっ、一ヶ月?」
アルはお袋の言葉に目を丸くし、おれの方を向いた。本当なの、と言わんばかりのその視線に、おれは真面目な顔でゆっくり頷いた。アルは大きな目をしきりに瞬いておれ、親父、そしてお袋を見回した。
「……一月も……そんなに……」
「そんなに寝ていた感じはなかったのか? 最近は何日も目を覚まさないんでヒヤヒヤしてたんだぞ」
ぼんやりと呟いたアルにおれは苦笑して言ってやった。別に責める気持ちなんてちっともないが、本心でもある。ずっと心配し通しだったのだ、少しくらい言ってやりたい。
アルはしばらくおれの顔を見ていたが、急に体を動かして起き上がる素振りを見せた。
「……ん、よいしょ……あれ」
肘で体を支え上体を起こそうとするのでおれは背中に手を回して支えてやった。けれども思うようには力が入らないようでアルは掛け声をかけもがきながらも自力では起きられなかった。
「アル、無理するな。ずっと寝ていたんだから急には動けないよ」
「そうだ、無理はいけない。ゆっくり休んでそれから動いたらいい。慌てることはない」
おれと親父に声を掛けられ、アルも無理だと気づいたのか、しぶしぶ体の力を抜いて布団に逆戻りした。そして申し訳なさそうに眉を顰めながら、また親父とお袋、そしておれの顔を順々に見上げてきた。
「……すみません。ご迷惑を……」
布団の端を掴んでの上目づかいにおれは心臓をぎゅっとつかまれる思いがしたが、表面上は平静を保った。お袋はほっと息を吐いて苦笑し、アルの頭を撫でて言った。
「もう、アルちゃん。迷惑なんかじゃないわ。心配するのは当然よ、アルちゃんはもうウチの家族なんだもの、ねぇお父さん?」
「ああ、そうだ。……まぁとにかく、良かった。目が覚めて。起きれるようになったら起きて、また一緒にメシを食おう」
親父も笑いながら目を細め、優しい声で労わった。ふたりに笑いかけられ、またお袋には撫でられ、アルもくすぐったそうに笑った。
「……はい」
不意に蝉の大合唱が聞こえてきて、おれは息を吐いた。突然別の世界に来たような、そんな唐突さでようやく、極度の緊張状態から解放されたことを知った。
すっかり和やかな雰囲気になった客間で、しばし談笑は続いた。親父もお袋も、アルに負担を掛けたくないと思いつつも彼女が目を覚ましてくれたことをこの上なく喜んでいて話は尽きず、おれは一歩引いた格好で、本当によかったとその光景を眺めていた。
その後は少しだけ水を飲んだが食事を取れず、ひたすら話をするだけで、結局アルは布団から身を起こすこともできずにそのまま夜を迎えた。
立ち上がれもしないため風呂に入ることもできずに体を拭くだけで着替えを済まし、また布団へと戻った。アルが寝ている間ももちろん、お袋が毎日体を拭いてやっていたので清潔であるはずだが、髪を洗っていないしアル自身も風呂に入りたがった。しかしどうしようもないだろう。歩けないのに一人で風呂に入れないし、お袋じゃ支えきれなかったときに危ない。おれが一緒に、という選択肢は最初から除外して、結局諦めてもらった。
「む~、明日はお風呂に入りたい! 頑張って歩く練習する!」
布団に横になって唇を尖らすアルにおれは苦笑した。
「うん、じゃあ頑張れ。まずは布団から起き上がるところから、だな」
上体を少し起こしたり、寝返りを打つことはできたが、やっぱり一月寝込んだ足は上手く動いてくれないようで、布団の中で動かすことさえ一苦労なようだ。
布団の中でじたばたしているアルを横目で見て笑いながら、おれは電気を消そうと伸びたスイッチの紐に手を掛けた。
「おーい、アル。電気消すぞ?」
「わ、もうそんな時間? 全然眠くないのに」
「はは、アルはずーっと寝てたんだから眠くはないだろうさ。明日休みだったらおれも付き合って夜更かししたいんだけど、仕事だからな」
「うー。分かった、じゃあ寝る」
子供とするようなやり取りに苦笑しながら、アルが布団の中にきちんと収まるのを見ていた。本当は夜明けまでずっとアルの傍にいたかった。明日が眠かろうがなんだろうが、彼女の、傍に。
「……なぁ、アル」
電灯にくくりつけた紐を握りながら、ぽろりと口から零れ落ちた、言葉。アルは布団の中でおれが電気を消すのを大人しく待っていて、不思議そうに首をかしげた。
「なぁに、サカエ?」
……心配がすぎるだろうか。それとも臆病。
しかし今日の日までのあまりに苦しかった日々を振り返り、おれは意を決して聞いた。
「……また。……また、寝込んじゃうことは、ないだろう、な? 明日の朝が来たらちゃんと、起きる……よな?」
立ったままで、しかも明後日の方向を見たままで呟くように尋ねた。アルからの返事を聞くのが怖かった。多分大丈夫だろうとそう思いたかったが、強く思い込めない自分がいた。
「大丈夫だよ、サカエ」
布団に横になったままのアルの囁くような声が届いた。呼ばれた名前が妙に優しく響いてアルを見たら、彼女はにっこり優しい笑みをおれに向けていた。
「今全然眠くないから。……あのね、本当に目が覚める前まではね、ものすごく眠かったの、ずっと。だから一瞬目が開いてもまた、すぐ眠ってしまっていたんだけど……。だから、大丈夫だよ、もう。大丈夫」
大丈夫、と繰り返し言う彼女に、その優しすぎる声にまた涙が零れそうになった。おれの不安を感じ取ったのかもしれない。妙なところで敏いのだから。
「……っ、分かった。……電気、消すぞ」
ここで泣いてしまったら情けなさすぎる、と必死に涙を堪え、誤魔化すように紐を握り締めた。ところがアルがそれにストップをかけてきた。
「あ、サカエ、ちょっと待って! こっち、こっちへ来て!」
「ん? 何だ?」
電気を消すのを大人しく待っていたのかと思ったのに、何の用だろうかと、アルが手を振るのに誘われるように枕元へ座った。
「サカエ、寝る前の挨拶、忘れてたよ」
「え、挨拶? 挨拶は『おやすみ』だろ? それは今から言えばいいことで……」
「違う、それとは別の。人間の風習なんでしょう?」
アルに問われてはて、と首をかしげていると、彼女は布団から出した右手をひらひらと動かし、正座したおれに更に屈むよう指示してきた。
「サカエ、サカエ、もっと、こっち!」
「え、なんだよ、アル……あ、まさか」
ようやく思い至ったときには遅かった。おれの頬に柔らかい感触が触れた。
……アルが言いたかったのは『おやすみのキス』だったかと、されると同時に気づいた。
そういえば前にも、同じようにされたっけな。もう一ヶ月前の出来事、なんだな。
「ふふふ、おやすみ、サカエ」
おれの頬にキスをして満足したらしいアルは、にっこりと笑顔を浮かべながらそういった。ふにっと触れたちいさな感触。そう、一ヶ月前に彼女からキスされた時は、真っ赤になって自室に飛び込んだっけ……。
自分の顔の下でちょうど影になったアルの顔を間近に見つめながら、小さないたずら心が沸き起こってきた。……アルは知っているのだろうか、お返し、というものを……。
「……アル」
「んー?」
おれは素早く身を屈め顔を寄せ、アルの頬にそっとキスを落とした。
一瞬だけ触れた肌は、唇に滑らかな感触を伝えてきた。そしてそのまま、とくとくと刻む鼓動を耳の中で聞きながら至近距離でアルの目を見つめる。何か、おれのキスによって、何かの感情がその瞳に映らないかと期待して。
「……サカエ?」
アルは一瞬きょとんとした表情を浮かべただけで、すぐに笑顔になってふふふ、と笑った。純粋無垢な笑顔は嬉しそうにはしゃぐ子供のようにはじけた。つまりはおれの期待したような展開には全くならなかったということだ。
小さなため息とともに顔を上げ、それも仕方ないと、馬鹿なことを考えたものだと自嘲する。
……つい今朝、長い眠りから目覚めた彼女に向かって、意識してほしいとか、贅沢すぎるだろ。
「……おやすみ、アル」
おれはそのまま立ち上がって電気を消した。アルが万一起きることがあっても部屋の中が見えるよう豆電球はつけたままにして。
一気に暗くなった部屋からおれが出て行く直前、アルがごそっと動く音がした。念のため振り返ると薄明かりの下でアルはこちらを見ていた。小さな灯りを反射して光る、一対の瞳。
「おやすみ、サカエ。……また、明日ね」
……おれの心を動かすのも、掴むのも、すべてアルの方が上手だな。
「……ああ、また、明日」
そう、明日。また明日、君に会えるのならばもう、それに勝る幸福などないんだ。
万感の想いを込めておれは客間の障子を閉めた。そのままそこに立っていたかったが、アルに怪しまれるといけないのでゆっくりと自室へ向かった。
「……また、明日、な」
階段を上りながら、これほどまでに待ち遠しく不安な“明日”を経験したことはないな、と思った。心臓の鼓動が痛いくらいにドキンと、大きく跳ねたのが分かった。




