24 その日
本格的な夏がやってきた。日差しは強く、風は生ぬるい。
蝉だけがわんさか際限を知らず鳴き続け、その他の動物や昆虫は一様に元気をなくして日陰に縮こまる、夏。
ひまわりが元気よく風に揺れる。夏に咲く花だけあって、太陽の下で黄色が良く映える。緑の葉は光を浴びんと盛んに広がり、がさがさと音を立てる。
日曜日だ。本来大工には日曜も何もあったものではないけれど、親父は日曜は休みと決めていたのでうちの工務店は日曜祝日は基本休みだ。おれは大きく伸びをしながらベッドから身を起こした。ちょっと朝寝坊的な時間だったけれど、良く眠れた気持ちのよさに、ぐぐっと腕を伸ばして大きく深呼吸した。
何かいいことが起こりそうな、そんな青い空がカーテンの向こうから覗いている。
アルは未だに眠っていた。熱は落ち着いたので冬がけの布団から夏用の薄い布団に変えた。流石にこんなに気温が上がっては、暑苦しくて寝苦しいだろうと思ったからだ。布団を変えたときに一瞬、唇を動かし何か言ったような気がしたがそれっきり、彼女はもう五日ほど目を覚ましてはいない。
彼女が熱を出し、床についてからおおよそ一ヶ月の時間が経っていた。本当は何日ときちんと数えている。でも親父と話をしたあの日以来、日にちを気にするのはやめたのだ。ただいつか目覚めるのを待つだけにした。何日寝ていようと、目覚めるその日だけが重要だと思うから。
朝食を済ましたおれは、植物図鑑を持って板張りの廊下に腹ばいになった。窓を開け放した廊下には、たっぷりと風が入り込んでくる。午前中なら日差しもそんなに暑くはない。アルの眠っている客間の障子を少しだけ開け風が通るようにし、その隙間からアルが見える位置に陣取ってぼんやりと図鑑を眺め、庭に生えた植物の名前を覚えるのが最近の休日の過ごし方だ。
「えー、あれは……ゼラニウム、かな。ふむ、ふむ」
庭に生えた植物の名前はあらかた確認した。よくぞこんなに植えたなぁと思ってお袋にそういうと、「植物が好きなのよ。いろいろ種類があって面白いでしょ」と笑った。庭がもっと広ければもっとたくさんの種類の植物を植えていたのだろうと苦笑しつつページをめくる。
アルが目覚めたら教えてあげよう。あれは桔梗で、あっちはグラジオラス。家の裏にはザクロもあって、食べられる実が生るって言ったら喜ぶかな。
妄想しながら過ごす日々にもだいぶ慣れてきた。
いつか、アルが目を覚ましたらやろうと思うことや言いたいこと、聞きたいことを考えて過ごすのだ。
近くにいるのに声も聞けない状況に最初は苦しいばかりで、アルの枕元に座り込んでは何時間も寝顔を見つめて過ごしていた。我ながら暗く、傍から見たらよっぽど追い詰められているように見えたのだと思う。お袋がしょっちゅう心配そうに柱の影から見つめてくる視線に気付いては、へらっと笑って何でもなかったように振舞い、親父に頭を小突かれてははっとする、その繰り返しだった。そうやって長いこと無益な時間を過ごしてようやく、心の整理が付いたのだと思う。
スーパーに行ってアルの好みは分からないながらも、女の子の好きそうなものを見つけては買い溜めている。植物図鑑のほかに、漢字辞典と国語辞典もばっちり準備してある。漢字を勉強したいといっていたアルの為に、本屋に行って小学生用の漢字ワークも買ったし、鉛筆もノートもある。
アルが目覚めたらああしようこうしようと、それだけがおれの楽しみだった。
病んでる、と言われればそうかもしれない。はた、と我に返れば虚しいときもある。けれども待ち続けると決めたのだから、これでいいと納得している自分が一番強かった。
「…………」
障子の向こうから声が聞こえたような気がしてはっと顔を上げ、急いで中の様子を伺う。
まさか、と思った。
アルが目を覚ましたのか、と。
しかし、おれの小さな期待はいつも通りの空耳で、待ち望むあの澄んだ茶色の目を見ることは叶わなかった。
「……ふ、何回目だよ、全く」
小さく息を吐きながら、先ほどと同じ姿勢に戻ってぐったりする。客間の布団の中で、アルは相変わらずの規則的な寝息を立ててぐっすり眠っていた。呼吸に合わせて上下する布団に安心しながらも、おれは再び植物図鑑をめくる。
ぱらり、ぱらりと次々にページをめくり、色とりどりの花々と緑の植物の絵や写真が、次々におれの視界に入ってはすぐ、どこかへ消えていく。
「ほんと、びっくりだな。こんな風におれがなるなんて」
燦燦と輝く太陽が降り注ぐ夏の庭。明るい色の花が咲くその庭を横目に、おれは廊下に腹ばいになったままふと、呟く。
一ヶ月前のおれは一体何をして休日を過ごしていたのだったか。こんな風に、誰かを好きになって、そしてそのことしか考えられなくなるなんて。自分でも可笑しくなるくらい、今自分の生活のすべてがアルを中心に回っている。
朝起きて、彼女の様子を見、変化がなければお袋に着替えと体を拭くことを頼んで仕事に出かける。仕事を終えて帰るとすぐに彼女の様子を確認しに行ってそれから風呂に入って着替え、夕飯を食べた後は数時間、彼女の傍に付き添う。休日ともなれば特別に必要な用事さえなければこうしてずっと、彼女の傍にいる。
それが全く苦ではない。もう半ば習慣のようになってしまっていて、親父もお袋も何も言わない。呆れたような顔をしておれを見るときもあれば、可哀想にと見つめてくるときもある。でも何も言わないで好きにさせてくれるふたりには本当に感謝している。非生産的でかつしょうもないことをしていると自分でも分かっているからだ。
「……すごいもんなんだな、ひとを好きになるっていうのは」
好きになったの理由も、何がきっかけだったかなんていうことももう分からない。出会って一ヶ月、アルはほとんど眠っている状態ではあるけれど、自分の気持ちは衰えることを知らない。ただアルを想って、いつか彼女が目を覚ましてくれることを願って、彼女への気持ちは募っていくばかりで少しも、マイナス方向へは動かなかった。
恋をすれば人は変わると、どこかの誰かがテレビで偉そうに言っていたのを見たことがある。あの時は全く意味が分からなかったが今なら分かる。……おれは、変わった。
見ているだけでちっとも頭に入ってこない植物図鑑をめくるのを止め、おれはごろりと寝返りをうった。仰向けになり、両手を頭の下で組む。縦の線を描くように張られた天井の板を眺めながら、ふっと笑いを零す。
……変わるには変わった。いい方向なのか悪い方向なのかはわからないが、でも確実に。
「もっと馬鹿になったって感じだけど」
ざあっと吹き抜けてきた気持ちのいい風がおれの髪を揺らすと同時に、ざわざわと揺れるひまわりの葉の音が耳に届いた。なんだかひまわりにさえ笑われているような気がした。どんどん“アル馬鹿”になっていくおれをずっと見守っている黄色い花に。
「……ちぇ、まぁ、おれだってそう思うから別にいいけどな」
独り言が増えたのも最近の傾向で、寂しい人間だなおれも、とは思うが気にしなかった。誰かと話したいとは思わないのだから仕方がない。親父やお袋とは話すが、時々飲みに誘ってくれる友人や職人仲間、学生時代の先輩後輩やら知り合いとぱあっと遊びに行くことはおろか、電話で話す事もしたくなかった。誰とも、話をしたくはなかった。
ただ、この家の中で、切り離された空間の中で、アルの傍にいたかった。……彼女と、話したかった。
組んだ両手を枕に、いつの間にかウトウトと居眠りをしてしまっていたらしい。
まだ眠りの余韻にぼんやりする頭で目を開けると、相変わらずの木目の天井が視界に入った。何度かまばたきをして眠気を追い出しつつ、頭の下敷きにしていたためにいくらかしびれてしまった手をそっと外した。目の前に持ってきて両手をグーパーしながら、今何時だろう、と思った。
「あー、結構良く寝たな。うーん、昼ちょい前くらいか?」
お昼になったらお袋が来て起こしてくれるはずなのでまだ昼前だと推測して大きなあくびを零した。
のんびりした時間が流れる日の当たる廊下。遮られていたはずの日の光は角度を変え、おれの頭の辺りまで射して来ていた。眩しさに目を細めながら体を起こそうと、まずうつ伏せに体勢を入れ替えた、その時。
「…………ヵ……ェ」
小さな、小さな声が、暢気にあくびをするおれの耳に届いた気がしてはっと体を硬くした。
「……アル?」
まさか、と思いつつすぐに体を起こし、客間の障子から中を覗く。
きっと今回もまたいつもの空耳だろうと、半分は期待しない気持ちでいたおれの目に飛び込んできたのは。
ただ上下する布団の動きではなく。
閉ざされた瞼とそれを飾る長い睫毛ではなく。
待ち望んだあの、茶色の。少し緑がかった不思議な色を湛えたあの。
……今日が、その日だと、誰か教えてくれたらよかったのに。
大きく目を見開いて、そんな頓珍漢なことを思った。
アルが、目を覚ましていた。




