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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
28/128

23 親父と息子


「兄貴……? 疲れてるっすか、顔色悪いっすよ」


 朝現場に行ったら開口一番、洋二がおれの顔を見てそう言った。


「……そうか? うん、まぁ、あんまし眠れてないからかな……」


 心配そうに見上げてくるその顔がいつものおれをからかう感じではなかったので、素直に受け取って呟き、首をぼきりと鳴らした。盛大に鳴った音に洋二は目を丸くしてこちらを見ているが、おれにとってはここ数日いつもこんな状態だからもう気にもならない。


「兄貴、悩みでもあるっすか? そういうの良くないっすよ、きっと」


「ああ、大丈夫だ。心配掛けて悪かったな。……さあ、仕事だ」


 おれは苦笑しつつそれっきり話を切り上げ、尚も心配そうな目線を投げてくる洋二の頭にぽんと手を置いた。弟がいたらこんな感じだったろうかとわざと髪をぐちゃぐちゃに撫でてやった。


「うわぁ、兄貴のアホー! せっかくセットしてきたのに!」


 洋二は大げさに頬を膨らまして文句を言いながら、車の方へと走っていった。多分サイドミラーで確認しつつ直すのだろう。

 単純な性格の洋二は扱いが楽で、こういうとき本当に助かる。馬鹿にしている訳ではなくて、洋二みたいな純粋さに救われる、という話だ。あいつは人の心の機微に心を配れる。傍にいてほしくないことを分かって、冗談みたいに逃げて行ってくれたのだ。


「……ふう、洋二に心配されちゃ、おれもまだまだだなぁ……」


 空を見上げながらため息をついた。朝の気持ちのいい空気の中にいるというのに、おれの心だけがもやもやと雲行きが怪しい。ひとりぼんやりしていると、後ろから肩を叩かれた。


「おう、暗れぇなあ、栄! しゃきっとしろよー、しゃきっと!」


「上がったら一杯行くかー? おれが奢ってやるよ、な!」


 賑やかな声は、現場で一緒に働く職人さんたちだった。工事が進むにつれ、現場には様々な職種の職人さんたちが出入りしてくる。みんな親父の長年の仕事仲間であるが、特に左官(さかん)職人の田村さんことタムさんと板金工の吉村さんことヨシさんのふたりは親父の幼馴染でもあり、おれも小さい頃から知っている。

 ヨシさんにバシバシと強い力で背中を叩かれて前のめりになって慌てて体勢を整え、苦笑した。

 特に理由も聞かず、ただ元気のないおれを励ましてくれる。職人気質の男達はさっぱりとした性格で、そして頼もしい。本当に相談に乗ってほしいときは時間を厭わず長々と相談に乗ってくれる、兄のような第二の父のような人たち。その人たちがおれを見て、明るい笑顔でおれの返事を待っていた。


「……ありがとうございます、ヨシさん、タムさん。……でも」


「わー、タムさんの奢りならおれも付いていきます! ごちでーす!」


「おめーには言ってねぇよ、洋二!! アホが、仕事しろっ!」


 髪をセットし直した洋二が抜け目なく戻ってきて飲み会参加の名乗りを上げたが、タムさんに瞬殺された。コントのようにダメージを受け流す素振りをする洋二を見て笑いつつ、おれは声を上げた。


「タムさん、悪いんですけど、おれ今日は行けないです。ちょっと用事があって。……すみません、せっかく誘ってもらったのに」


 本当は特に用事なんてない。ただ早く家に帰りたいだけだ。半分嘘をついていることもあって申し訳なく頭を下げると、ヨシさんはまたおれの背中を力強く叩いた。


「いや、いーんだよ、用があるなら仕方ねぇじゃねえか。ま、次の機会にな! まだ作業は終わらねぇし、おれの出番もまだ先だ」


「そうだぞ栄。早く進めておれらの出番作ってくれ! もう材料は準備できてんだからよ、とっととやってくれねぇと詰まっちまうよ、仕事が」


 ヨシさんに呼応するようにタムさんががははと笑った。タムさんの見事なビール腹が笑いとともに波打って揺れた。


「えー、行きましょうよぅ、飲み~! おれはめっちゃ暇ですよー、ヨシさんタムさん~。……痛てっ!」


「いつまでも喋ってんじゃねぇよ、しかもお前はまだ未成年だろ、洋二」


 タムさんに追いすがるようにしてべったりくっついていた洋二の頭に拳骨を落としたのは現場責任者でかつ棟梁でもある親父だった。親父は右手に持った鉛筆の反対側で頭を掻きながら、鋭い視線をタムさんとヨシさんに投げる。


「おう、ヨシ、タム。お前ら手伝いに来たんならさっさと仕事しろよ。こっち終わんなきゃお前らの出番はないんだからな」


 睨み付けたようでいて、その目は笑っていた。お互い通じ合っている三人は、口汚く互いを罵りあいながら散会していく。


「へいへーい、人使い荒いんだからーヒナは。バイト料弾んでもらうぞ、こんなおっさん働かせるんだし」


「ピーチクパーチクしてるだけのヒナちゃんなら可愛いけどよ、こんな親父じゃぁ可愛らしさの欠片もねぇよな。やっぱあだ名変えるか?」


「……お前ら」


 ヨシさんタムさんのあだ名同様、親父も苗字の『日向(ひなた)』から取って『ヒナ』と呼ばれている。安直すぎてなんともいえないが、『ヒナ』に関しては三人の中での格好の冗談のネタで、いつも「あだ名変えるか」と言い合っては結局ヒナと呼んでいる。面白い人たちなのだ。


 親父に追い立てられるようにして逃げていくタムさんヨシさん、そして洋二。三人を見送ったおれも、笑いながら自分の持ち場へと向かう。いつの間にかさっきまでの鬱々とした気持ちはどこかへ消え、なんだか元気がわいてきた。


 今日一日の仕事が上手く乗り切れそうな、そんな力強い気持ちがした。









「ただいまー」


「あら、おかえりなさい。お父さんは?」


「親父なら作業場寄ってる。でもすぐ来るよ、トラック置いてくるだけだから」


 夕方、仕事は何事もなく乗り切れ、いつものように帰宅した。お袋が台所から顔を出してそしてまた引っ込んだ。おれは上がり(かまち)に座り込んで足袋の留め金をひとつひとつ外していく。ふくらはぎまで覆う黒い足袋は、履くのも脱ぐのも面倒で、座らないと上手くできない。無言で手を動かすおれの頭上、下駄箱の上に置かれた時計からカチコチと秒針の進む音が聞こえる。時間だけが進む。いつだって。


 ……また、今日も。


 おれは大きく息を吸って、鼻からゆっくりと吐き出した。ため息ではない、これは深呼吸だ。


 ようやく脱いだ足袋を下駄箱の下に押し込み、おれは立ち上がった。そのまましばらく立ち尽くしていたら、親父が帰ってきた。


「ただいま。……おう、邪魔だ栄」


「あ、ごめん、親父」


 ぼんやりしていたおれは、親父の声に押されて慌ててその場から飛びのいた。親父が玄関から入ってきたのにも扉を閉めた音にも気づかなかった。おれの耳に響いていたのはただ、進み続ける秒針の音。


「……なぁ、栄」


「ん? 何、親父」


 声を掛けられ、親父の方を見た。おれ同様、足袋を脱ぐために座り込んだ親父を、上から見下ろす格好になった。元々親父より背が高いので普段から見下ろしてはいるが、座り込んだ親父の背中を見るのはなんだか変な感じだ。

 親父はごそごそと足袋を脱ぎながら、こちらを見ずに話しかけてきた。


「……今日で何日目だったか」


 何が何日目なのか、おれはすぐに分かった。


「ああ、熱出してからなら十六日目、だな。最後に目を覚ましたのが二日前……」


 言いながら気持ちが暗く沈んでいく。本当なら数えたくもない。けれどもアルが寝込んでから実際これほどまでの時間が経ってしまっている。一日、また一日と伸びていく目覚めない日々。もう数えたくもないのが正直な気持ちだった。


「普通なら……」


「え?」


「普通なら、もう衰弱してどうしようもない感じになってるだろう、普通の人間なら」


 親父が低い声でぼそっと呟くので聞き返した。親父は足袋を半分脱いだ状態で手を止め、じっと玄関のタイルを見つめながらそう言った。おれは親父が何を言いたいのかが分からず、黙って立ち尽くしていた。


「……本当に、天使なんだなぁ。人間とは違うもんだな」


 吐き出す息に乗せて呟かれた言葉の真意を問いたくて、おれは親父の横にどすっと座り込んだ。


「親父、それってどういう意味だ……」


 まさか人間ではないからアルが怖くなったとか、追い出したいとか、そういう話ではないだろうか。


 確かにいまの状態は普通じゃない。何日間も飲まず食わずで寝通すなんて、点滴を打った入院患者、しかも状態の悪い人しかいないだろう。アルはただ眠っているだけで、ここ二日なんて一度も目を覚ましてはいない。最近は水を飲む量も減って、どうやって飲ませるかと頭を悩ませている。それでもアルの外見は変わらない。飲まず食わずで栄養さえ補給していないというのに、やつれもしないのだ。


 「人間とは違うもんだ」という親父の言葉がひどく胸に刺さる。だからなんだ、違うからって何だ。


「……いや、だからどうしたって訳じゃねぇよ。安心しろ、別に追い出したりはしない」


「は?」


 できるだけ感情を押さえて尋ねたはずなのに、おれの思っていることが丸分かりだったようだ。


「敵を威嚇する動物みたいな気配だぞ、お前。……ふふ」


「…………」


 親父は再び手を動かしながら小さく笑った。緩んだ雰囲気の親父に、おれはどうしたらいいのか分からない。固まったままで親父をじっと見つめていると、親父はおもむろに口を開いた。


「おれが言いたいのはな……、体が強いのはいいことだってことだ」


「……は?」


「お前の母さん、体弱かったんだ。いまより若い頃の方が体力がなかった」


 片方の足袋をずぼっと脱いだ親父は、もう片方の金具に取り掛かりながら話を続けた。


「一度なぁ、何日も寝込んだときがあって……お前が腹の中にいた頃だ。原因不明でな、どんどんやつれていくんでどうしようかと、どうしようもないのにどうしたらいいかと思いつめた。死んでしまうんじゃないかと、本気で思った」


「……親父……」


「でもなぁ、その後けろっと良くなって、無事にお前が生まれた。医者は体が弱いせいだと言っていた。ほんとのところはよくわからないが、とにかく母さんはふたり目を生むのは諦めた方がいいと、そう言われておれ達はそれに従った」


 初めて聞く話だった。おれが生まれるときに大変だったことも、お袋が体が弱かったことも初耳だ。おれが一人っ子であることには何の疑問も持ってはいなかったし、親父もお袋も、こんな話をしたことなどなかったのだ。おれは驚きと複雑な感情でぎゅっと締め付けられるような思いで何も言えなかった。


「いまとなってはな、母さんも健康だし、あと一人くらいはいけたのかなと思うさ。けど、まぁいいんだ、そのことは。お前がしっかり大きく育ってくれたし、嫁さんだって来てくれた。……よっと」


 掛け声をかけながらもう片方を脱いだ親父は、足袋を手にしたままでおれを見た。


「体が強いのは何よりだ。普通の人間だったら今頃どうなってるかわからないぞ、それよりはずっとマシだ。いつか目が覚めると信じて待てるのはいいことだ。……違うか?」


 親父の黒い瞳が、しっかりとした意思を持っておれを見つめてきた。有無を言わさない、強い瞳。大工の棟梁としてずっと男たちの世界で生きてきた親父の、覇気の篭った瞳。


「……違わ…ない」


 おれもしっかりと親父を見つめ返して答えると、珍しくふっと笑っておれの頭を撫でた。大きくなってからはされた覚えのない、小さな子供を褒めるような仕草。


「……さて、先に風呂に入っちまうかな。お前もさっさと着替えろよ」


「…………おう」


 ぼんやりと座り込んだままのおれを置いて、親父はさっさと風呂場へ向かっていってしまった。撫でられた頭に無意識に手をやったおれは、親父の歩き去る背中を見て笑ってしまった。


「普通はそんなこと思わないだろ……」


 ほとんどファンタジーの世界の住人である天使を受け入れ且つ体が強いのが何よりだと、人間じゃなくて良かったようなことを言うなんて、親父の方がよっぽど普通じゃない。

 やつれ衰える気配もないアルが怖くなって追い出そうという話か、と身構えたのが、全く別の話になってしまっておれは気が抜けた。まったくおれの親父ときたら、こんなに変だとは思わなかった。


「あー。知らなかった。親父の思考パターン」


 くすくすと笑いながらおれは玄関先でひとり呟く。

 結局親父も、お袋至上主義的なところがあって、昔お袋にしたような心配がアルにないのならはそれが何よりだとそう言いたいのだろう。親父にとってアルが何者かなんて多分、重要なことじゃない。アルが天使だということは未だ半信半疑なところもあって、もしかしたらまだどこかで体が妙に強いだけと思っているのかもしれない。それでもいい。ただ、アルの体が頑丈なことがおれの嫁として認める重要な要素になっているのだと思う。体が強ければ他は何でもいい、というような。お袋の若い頃どれだけ大変な思いをしたのかは分からないが、トラウマのようにそれが心に引っかかっていて、アルにはその心配が要らないことに安堵しているのだろう。


「おれとしてはただ、アルがいてくれるってだけで、天使だろうがなんだろうが関係ないんだけど……」


 やっぱり親子、思考が単純なところはそっくりだ。自分だって十分変だと吹き出し、ふうと息を吐いたら、先ほどまでの張り詰めた気持ちが緩んでいることに気づいてまた笑った。


『いつか目が覚めると信じて待てるのはいいことだ。……違うか?』


 親父の真剣な瞳と言葉が頭に蘇った。妙に確信を付く言葉。


 いつか目が覚めるはずだ。

 アルは天使だから、大丈夫だ。


 そう心の中で言い聞かせながらもずっと、心配ばかりが募ってがんじがらめになっていた。ひとりで悩んで、消化できなくてアーレリー、アンナさんのところへ行ったり、仕事場でもわざとらしく元気をなくしてみたり。誰かに励まして欲しくて、でも相談もできないこの状況を打破する術を見つけられないまま悶々としていたのを親父には気づかれていた。


 大丈夫、このまま死んでしまうという最悪の状況を心配する必要がないのだから、おれたちはただ、彼女を見守っていればいいのだ、待っていればいいのだと、心に染みるように納得できた。


 親父がいる方を見てまた、大きくため息をついた。……敵わないな、本当に。


「……さんきゅー、親父」



 ……今日は、今日こそは目覚めないだろうか。

 毎日そんな、願うような気持ちで帰宅していたのを、親父は見抜いていたのだと思う。

 

 アーレリーは言っていた。そんなに簡単に天使を受け入れるなんて変だ、と。 ……変で上等、親子揃って筋金入りだ。

 おれはアルの眠っている客間の障子を見て、呟いた。


「待っているよ、ずっと。君が目覚めるまで、ずっと」


 待つことしかできないけれど、それでも待っていたい。おれの中で一番大切なひとは、君ひとりだから。




左官職人さんは、建物の壁、床などに、漆喰やコンクリートなどを塗って仕上げる職人さんのことです。

板金工は木材が水に濡れないよう家を守るべく、板状の金属を加工する職人さん。主な活躍の場は屋根や雨どいなどだそうです。

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