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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
27/128

22 聞きたいことば



「あら、あなた」


「……こんにちは」


 夕方の市役所の職員通用口前。黒のジャケットにミニスカート、ハイヒールが似合う、黒髪をさらりと風になびかせた美人―アーレリーはおれに気づいてくれた。


 実は先日から彼女にまた会えないかと策を練っていた。昨日の夕方はあの土手の上で待っていたのだが、多分通勤に使っている道ではないのだろう、彼女は現れなかった。そこで仕方なく、こうして職場を出てくるところを待ち伏せたのだ。これじゃホントに不審者になっちゃうよと微妙な気になりつつ、他の職員たちの好奇な視線に晒されつつおれは待っていた。


「どうしたの、こんなところで。アルのことなのでしょうけど」


「あ、ああ、すまない。職場に待ち伏せなんて良くないとは思ったんだけど、他に方法を思いつかなくて」


 職場では『神原アンナ』という名前で地味に働いているアーレリーは、通用口から出てくる他の人たちを気にして少し振り返った。その微妙な表情を見て、申し訳なさにおれは素直に謝った。

 顔を上げたらいつぞやの眼鏡のおじさん―安西さんとか言ったか、その人がにやにやしながら親指を立てておれに合図してきた。おじさんには曖昧な笑顔を返して視線を逸らす。


「……移動しましょう」


「ああ」


 不機嫌さを無表情で隠し、アーレリーはすたすたと歩き出す。視界の端でおじさんが大きく手を振っているのが見えたが、もしかしたらおれを応援しているつもりなのかもしれない。余計なことを、と思いつつおれはアーレリーの後に続く。多分、明日また、『アンナさん』は噂の渦中に放り込まれるのだろう。無言で前を行く彼女の背中から、怒りの気配を感じ取って思わず俯いた。


 またあの土手に向かうのだろうか、それなら車で移動した方が、と思ったが、彼女についてしばらく歩くと役所の裏手の公園に出た。

 アーレリーは勝手知ったる様子で木のベンチに腰を下ろす。そして黙っておれを見上げてきたので、おれもその隣に座った。無言と無表情が、妙な迫力を持っておれを威圧してくる。夕方の、オレンジの日差しが満ちた緑の公園。いくつかの色鮮やかな遊具が点在するだけで、子供一人もいない。


「……すまなかった」


 沈黙と空気感に耐えられず、思わずもう一度謝った。職場で待ち伏せていたことは仕方のないこととはいえ本当に迷惑なことだっただろう。謝罪の意を込めてきちんと頭を下げたら、頭上から吹き出すような笑い声が聞こえた。


「……ふっ、別にいいわ、もう。……それで? アルの様子はどう? もう目が覚めた頃かしら?」


 顔を上げるとアーレリーの気配は和らぎ、おれを見て小さな笑みを零していた。それにほっとして早速話を始める。


「それが……。アルはまだ目覚めてないんだ。高い熱はなくて、今は微熱程度。ただ、前は数時間置きに不意に目を覚ましていたんだけど、最近は目を覚ますことが少ないんだ。一回だけ、目を覚ましたときにおれと少し話をしたことがあったんだけど、それっきり……今度は本格的な眠りに入ったみたいに何日も目を覚まさないんだ。今日は、朝方に目を覚ましたってお袋が言ってたけど、今度はいつまで眠るか……」


 そう、あの時アーレリーと会って話を聞いてからもう二週間以上経っていた。


 アルはあれ以来ほとんど眠り続けていて、熱は下がったものの何日も目を覚まさないことが多くなった。この間は三日間、一度も目を覚まさなかった。もしかしたら深夜、おれたちの目が届かないときに目覚めていたかもしれないが、目覚めたとしてもほんの一瞬。ぼんやりとしていたと思った次の瞬間には眠りに落ちていて、水を飲ませることもままならない。熱が下がったせいなのか、水分をほとんど取っていないというのに彼女の肌は不思議と乾燥することもなく、時折濡らしたガーゼで唇を湿らす程度にしかかまってやることはできなかった。


 おれは一気に話すと、隣のアーレリーの様子を伺った。彼女は優雅に足を組み、考え込むように手を顎に当てていた。と、不意に首がこちらに回り、深い群青の瞳が光を灯すように光って見えた。


「……前にも言ったとおり、アルに起こっていることは前例がないし予測の立てようもないの。やっぱり生殖機能を作り出すことは簡単なことじゃないってことだと思うわ。正直言って私にもどうしようもない。アル自身にもわかっていないんでしょうね」


 お手上げ、といった様子で、アーレリーは肩を竦めた。そして沈んでいく太陽のオレンジの光を見つめながら、眩しそうに目を細めた。


「だけど前にもそう言ったわよね? 見守るしかないって。確かに眠りについている時間が長すぎるのは気になるけれど、どうしようもないのよ。元々天使って眠らないし、体が人間の機能に合わせるために調整しているのだろうとしか推測できないわ。それであなたの話ってこれだけなの? わざわざ待ち伏せてまでする話とも思えないのだけれど」


 アーレリーは吐息と共におれを横目で見た。呆れているのがよく分かる。だけれどおれが今日彼女に聞きたかったのはまた別のことだった。


「いや、あの今日来たのはさ、その……アーレリーの連絡先を聞こうと、思って」


「……は?」


「いや、アルが目、覚めたらさ、電話とかで声聞けたら安心するのかなって思って。それで、番号を聞こうと」


「…………はぁ~」


 一度は驚きの声を上げたアーレリーだったが、おれの言うことを聞くうちにがっくりと頭を落として大きなため息をついた。……あれ、そんなに変なこと言ったか、おれ。


「あ、いやほら、連絡先知ってたらこんな風に待ち伏せしなくてもいいし! 聞きたいことがあったら電話できたら便利かと思ったんだけど」


 あたふたと言い訳のように言い募ると、顔を上げたアーレリーはおれの顔をじっと見つめたあと、ふっと視線を逸らした。


「……教えたく、ないわ」


「え」


「……教えたくないの。家の電話番号」


「あ……そう。わかった、悪かったな、聞いて」


 何か事情があるのだろう、目を逸らしていても分かる。彼女が申し訳なく思っていることが。それならおれも、無理矢理聞き出そうとは思わない。彼女の居場所は分かっているのだし、次に会うときはもっとこっそり待ち伏せすればいい。

 しかし、電話で話ができないとなると、アルが目を覚ましてもしばらくの間アーレリーとは話もできないということだ。こんなに寝続けているのだから足も弱くなって、歩けなくなってしまっているだろう。元気になってから会わせるとは前に言っていたけれど、それはだいぶ先のことになってしまいそうだ。

 

 おれが考え込んでいると、ギシリと音を立ててベンチがきしんだ。隣に座っていたアーレリーが立ち上がっておれを見下ろしていた。影になった顔に浮かぶ表情は、暗くてよく分からない。ただ、強い光を放っていた瞳が少し揺らいでいるような、そんな気がした。


「……本当に大切にしているのね。羨ましいわ」


 ぼそっと呟くようにそういうと、アーレリーは空気を切り替えるように髪を風に流した。群青色に鈍く光る黒髪が、さらりと広がって視界を遮りまたもとの位置に戻る。一瞬見とれるようにぼーっとし、ハッと彼女を見上げると、アーレリーはまたいつかのような不敵な笑みを浮かべていた。


「用はこれだけ? なら帰るわね」


 おれの返事を待って立ち止まっているのが分かって、慌てて口を開いた。


「あ、ああ。悪かったな、こんな用で。また目立ってしまったし……」


「ふふ、いいわ。気配を隠してじっとしてれば済むことよ。じゃあね。アルが目覚めたらよろしく」


「ああ。また」


 アーレリーは身を翻して颯爽と歩いていく。タイトなミニスカートから惜しげもなく伸びた足は長く、その綺麗な後ろ姿をぼんやりと見ながら、この人に惚れる男も多いんだろうなぁと思っていると、不意に彼女は振り向いた。


「……そうだ、聞き忘れていたわ」


「え?」


 下世話な考えに囚われていた自分が申し訳なく、居住まいを正して彼女の言葉を待った。


「あなたの名前、聞くのを忘れていたの」


「え、……ああ、そうだったっけ」


 そういわれてみれば自己紹介もしなかったかと、おれはベンチから立ち上がって彼女のところまで行った。

 立ち上がってよく比べてみれば、背の高い彼女よりもほんの少しだけ、おれのほうが身長があった。そんなことにすら気づかないほど、前に会った時には緊張していたのだろうと思う。口下手で美人が苦手なおれが、こんなに自然に話せるようになったのも不思議なことではあるがなんだかくすぐったい気持ちだ。


「おれは、日向栄だ。二十三歳、大工をしている。今更だけど、よろしく」


「ひなたさかえ……。大工、家を建てる仕事ね? ふふふ、本当に今更だけど、よろしく。私のことはアンナと呼んでもらえると助かるわ。ここでの名前はそれだから」


「ああ、アンナさん。分かった」


 ほのぼのとした空気が流れた。アルを介して友達ができたようなそんな気分だった。にこにこと笑い合えて嬉しくなった。


「……そうだわ、よく考えたら仕事場に電話してもらえばそれで済むことなのよ。昼間は大概ここにいるんだし。私用電話は良くないんだろうけれど、使っている人も多いしね」


 言いながら彼女は鞄からメモとペンを取り出して何かを書き付け、おれに渡してくれた。白いメモの上には電話番号ともうひとつ三桁の数字。


「市役所の電話番号と、私の机の上にある内線番号よ。いい、くれぐれも神原アンナ宛に電話してちょうだいね? 大抵は私が出るはずだけど、万が一別の人だったら」


「オーケー、大丈夫、分かったよ。ありがとう」


 アーレリーという名を出すのは彼女にとって良くないことなのだろう。アンナさん、アンナさんと心の中で念じながら、おれはそのメモの上の番号をじっと見つめた。

 おれの様子を見ていた彼女は、少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら、持ったままのメモ帳をすっとおれに差し出して言った。


「……あなたの家の番号、書いておいてくれる? もし何かあったら連絡するわ」


「ああ、もちろん。ん……と、これでよし。家はいつ電話してくれても大概お袋がでるから」


 アーレリー、ではなくアンナさんはおれの説明に頷きながら、メモ帳とペンを鞄にしまった。


「……なんだか不思議な気分。ふふ、まぁいいわ。じゃあね、日向さん」


 嬉しそうに笑みを零したアンナさんはおれに手を振って今度こそ去っていった。おれも手を上げて彼女を見送りながら、家の電話番号は分からなかったけれど今度は待ち伏せしなくて良くなったことにほっと安心していた。職場に電話して先に待ち合わせをすればよくなったので、この先便利になる。



 さて、とおれも歩き出して駐車場へ向かう。

 

 太陽はいつの間にか沈み、だいぶ暗くなっていた。薄墨に染まっていく空気の中、ぶらぶらとひとり、ゆっくりと車を目指して歩いていくその間。

 アルが目覚めたら、ちゃんとアンナさんにも電話で教えてあげようと思ってふと、足が止まった。


 ……目覚めたら。それは一体、いつになるんだろう。


 先ほどまでのほんわかした気分は一瞬で霧散した。


初夏の生ぬるい空気の中、おれの周りだけに冷たい冷気が流れ込んできているような。闇がおれの周りだけどんどん濃くなっていくような、そんな感覚。足元の小さな小石を見るでもなく凝視して、瞬きさえせずにしばし。……我に返って、肩を震わせた。


 ……アル、何故、目覚めないんだ。


 予想していたよりもずっと長くアルは眠り続けている。すぐにも目覚めるだろうと思っていた二週間前の自分がどんなに馬鹿だったのかと、大声で罵倒してやりたいと思った。

 本来どのくらい寝込むのかなど予測もできないなんてアーレリーに聞かずともわかっていた。分かっていながら聞きたい、教えて欲しい。矛盾した、やり場のない自分の感情。

 

 棒のように固まっていた足を動かし、軽トラへとゆっくり向かって歩く。自然と腕を擦っていた。寒いわけじゃないのに。

 遠くに停めたつもりもなかったのに妙に距離のある駐車場、ようやく愛車にたどり着き、鍵を開け乗り込む。外界と遮断され、シン…と静まりかえった車内で、エンジンをかけるのも忘れ思考だけが巡る。


 ……やり切れない。無理してでも明るく振舞わないと。


 アルが目覚めたら話がしたいだろうとか、電話番号を知っていたほうが便利だからとか、いろいろ理由をくっつけてはみたけれど。本心はそうじゃない。


 ただ、また言って欲しかっただけだ。見守るしかないのだ、と。


 いつか必ず目覚めるから、死ぬことなどないから、待っていればいいと、その言葉が聞きたかった。誰にも相談できない、彼女に、アーレリーにしか。だからわざわざ仕事終わりを待ち伏せしてまで会いたかった。


「……ほんと、情けない、な」


 アーレリーはアルが目覚めないと分かっても動揺したりはしなかった。憎らしいほどいつも通りの彼女。おれは違う、そんな風には振舞えない。心配で、心配で、どうしようもなくて……でも何もできない。


 ……おれが一番、アルの為に何もしてやれない。



 しばらく車の中で考え込んでいて、ハッとしたらもうあたりはすっかり暗くなってしまっていた。エンジンをかけて時間を見たらもう六時半を回っていた。大きく息を吸って、盛大に吐き出した。少しだけ胸の中のもやもやが吐き出されたような気がした。



 思うことは、ただ、ひとつ。



 ……アル、目覚めてくれ、早く、早く。 おれの心が、何かに潰される前に。……凍りつく、前に。




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