ちょっと横道・特別編 アーレリーの独白
すっかり暗くなってしまった夜の道を自転車でするりと抜けていく。いつもの帰宅時間よりだいぶ遅くなってしまったが、連絡のしようがないから仕方がない。そんなことを考えながら夜道を明るく照らす電話ボックスを横目で見、通り過ぎた。……必要ない、連絡など。遅くなったとしても、“彼”は起きているか寝ているかすら分からないし、連絡して欲しいと言われたこともなかった。
住宅街のはずれ、木々に囲まれたレンガ造りの洋館。ぎぎっと音を立てる門を開けて自転車を押し入れる。再び門を閉じ、色とりどりに咲き誇るバラのアーチをくぐり歩くことしばし。手入れされた広い庭の奥にようやくたどり着く玄関。
ドアノブを握り、ひとつ深呼吸をする。……この瞬間だけは未だに慣れない。数え切れないほど何度も繰り返しても。
「……ただいま帰りました」
しんと静まり返った広い玄関ホールに溶けるように声は吸い込まれた。何の反応も返ってこないことにほっとため息をついてドアを閉める。きっと部屋に篭って書き物でもしているのだろうと思ったけれど、次の瞬間にその想像は打ち消された。
「お帰り、遅かったねアンナ」
年を経て独特にしわがれた声が、音楽のような波を立ててホールに響いた。
「……遅くなりました、ごめんなさい。お食事はもう済まされたのでしょう? おじいさま」
声の主に視線をやると、ダイニングから顔を出したその人はあごの髭を撫でながら微笑み、首を振った。皺だらけの顔にさらに皺が寄って、目が細められる。
「いいや、お前を待っていたんだアンナ。今日は私特製のシチューを作ったから、一緒に食べようと思って」
……その、碧い空の色を映した湖のような瞳。
「さあ手を洗っておいで」
家の中でも出かけるときでもきちんと着こなした仕立ての良いフルセットのスーツ。
「……はい、おじいさま」
コツ、と音を立てる杖、漂うパイプの香り。
……私の同居人であり、『祖父』である、ラフマニコフ・ドミンスキー。
ロシア人の、老文学者。
日本人の妻を亡くし、“孫娘”とひっそり暮らす。
……それが“彼”を言い表す、私の知る全て。
カチャカチャと食器を使う音だけが静かに響く。この人は食事のとき静かなのが好きで、テレビや音楽をかけたりはしない。気詰まりしそうなほど静かなダイニングでふたり、彼特製のシチューを食べる。
ロシアから来た彼は、季節がいつであろうと好きなときにシチューを作る。牛肉や玉ねぎ、トマト、香辛料様々な具材をじっくり何時間も煮込んだ手の込んだシチュー。市販のルーを入れて済ませてしまう私の作ったシチューでは満足できないらしく、時折発作的に玉ねぎを炒め始める。もっとも、彼が私の料理に文句を言うことなどないのだけれど。
「……今日はどこかに行っていたのかい? いつも仕事が終わればまっすぐ家に帰ってくるのに」
パンをちぎりながら彼が私を見た。全てを映し出す水鏡のような瞳。碧い宝石のような煌めきが静かに私を見据えている。
「ええ、知り合いと少し話を。こんなに遅くなるとは思っていなかったので、ごめんなさい」
そう、本来役所を出るときに電話をすればよかったのだ。そうしなかったのは、あの彼―アルシェネの夫になるだろう人―との話が意外にも長くかかったからだ。そういえばいろいろ話をしたのにあの彼の名前を聞くのを忘れてしまった。
「いや、謝ることはないよ。ただ……楽しいことがあったんじゃないかと思ってね。お前のそんな顔は久しぶりだ」
「……?」
私を見て深く微笑む彼に、言葉の意味が分からず首を傾げた。どんな顔をしているというのだろう。
「ふふ、わからないかい? いつになく楽しそうな顔をしているよ。もし良ければ話してくれないか? 誰とどんな話をしたのか」
「え……、はい」
誰とどんな話をしたか。彼が私に興味を持って尋ねてくるなんて珍しい。彼の優しげな笑顔に促されて思わず肯定の返事を返してしまった。“天使”の話など彼にできるはずもないというのに。
「えっと……、彼は、友人の……婚約者で。友人についての相談を受けていました」
上手く誤魔化せるように適当に話を作ってみる。“婚約者”というのは当人達にとってはいかがなものかと思うが、結婚前だから“夫”とも言えない。でもどうせ結婚するのだろうからいいだろうと思う。
「おや、なんと男性かね。男性とおしゃべりをしていたとは予想外だったなぁ」
彼は持っていたスプーンを取り落としそうになるほど驚いて目を丸くした。
「けれども友人の婚約者です。話も友人についてのことですから、私には関係ありません」
男性と話すことがそんなに驚くべきことだろうか? まぁ彼にとっては大切な“孫娘”なのだ、悪い虫がついてはということなのだろう。しかし私はそういう関係ではないとばっさり否定した。
「う、うむ……そうか。……それで? 何か深刻な相談かね?」
「……いいえ、友人が今体調を崩して臥せっているのでそのことについて。でも彼女は元々強い子ですから大丈夫だと、そう話しました」
私は深皿の中の茶色いシチューをひとすくいして口に運ぶ。冷めないうちに食べた方がこのシチューはおいしい。スプーンで簡単にほぐれるほど柔らかく煮込まれた牛肉を小さくしながら、土手でのやり取りを思い出す。
人とあんな風に楽しく会話したのは初めてだったかもしれない。あんな風に大声を出して笑ったことも。それにしても、“彼”は面白いひとだった。まさかあんなに簡単に“天使”や“異次元”の世界を受け入れるとは思わなかった。しかもあまりに上手すぎるこの展開を『都合がよくてありがたい』と言うなんて。
「……彼が彼女を、私の友人をどれだけ愛しているかが今日分かりました。ふたりを引き合わせたのは私、だったので。友人をあの人に任せて正解だったと思えたので、それで嬉しいのかもしれません」
そう、そのことは本当によく分かった。あの彼がこの短い時間の間にどれだけアルを好きになり、大切にしてくれようと思っているのかを。あの時あの場にいた彼にアルシェネを託したことが間違いではなかったのだと本当に安心した。
気がついたら行儀悪くシチューをかき回して思いにふけっていたため、怒られるかと思いそっと目線を上げた。しかし目の前の碧い双眸は、柔らかい色を湛え蕩けるような笑顔で私を見つめていた。
「……おじいさま?」
思わず声を掛けていた。彼のこんな笑顔を見るのは初めてだった。しかも自分に向けられた、陰りのない満面の笑み。
……本当の孫娘ではない、本当の家族ではない私に
「……アンナ……。お前のそんな笑顔は何年ぶりだろうね……」
遠い昔を頭の中に描いているのだろう、彼は目を閉じてしみじみと言った。『アンナ』を思い出すとき、彼はいつも幸せそうな顔になる。
『アンナ』なら、こんなとき『おじいさま』に何を言うのだろうか。碧い碧い瞳を涙に潤ませて微笑む彼を前に、私は気の利いたひと言すら言えずただ呆然としていた。
……『アンナ』、あなたなら、何を言う?
目じりに溜まった涙を指で拭った彼は、嬉しそうな笑顔のままで私に言った。
「やぁ、アンナ、いい夕食だった。……また、話してくれるかい? お前の話を」
「え、ええ、もちろんです。おじいさま」
その後は特に話す言葉もなく、いつものように静かな夕食は終わった。
食事の片付けを済ませ、風呂に入る。そして自室のベッドの上に腰掛けてそこで大きく深呼吸をした。何か摘む程度で済まそうと思っていた夕食は、彼が私を待っていたがゆえに豪勢に且つゆっくりと取られた。
……嫌いではない。彼と共にする食事は。ただ彼が私を呼ぶたびに、微笑みかけるたびに、何か重たい沈殿が胸の奥に積もっていく。
私は『アンナ』でもなければ人間でもない。ただあなたを利用している悪い天使なのだと、言ってしまいたい衝動に駆られては口を噤む。
<……彼が彼女を、私の友人をどれだけ愛しているかが今日分かりました。ふたりを引き合わせたのは私、だったので>
先ほど彼に話したことがふと頭の中に蘇った。アルとあの彼を引き合わせたのは私だと言った。引き合わせた、なんてキューピッドにでもなったような口ぶりに自嘲の笑みを零す。
アルをあの人に押し付けたのは私だ。引き合わせたなんて物は言い様、本当はそんな綺麗な理由ではなく、ただの打算。アルがこの世界に存在するために、誰かの庇護下で守ってもらうことが大切だと瞬時に判断したからだ。私という天使ではなく、他の誰か、人間に。
……いまの私の、様に。
私は“仕事”の為にこの世界へ来た。
アルは完全に人のような性格と感情を持っていたけれど、私が持っていたのは少しだけの疑問。―何故、天使として生まれたのだろうか、何故、私は働くのだろうか―
少しの自我、感情が、私の上司である神の気に触った。それが私がこの世界に来た理由。神のもとで働くために生まれたのに、働くことや存在のあり方に疑問を持つような天使を使えない部下を、神は厭った。神は私を“地上の詳しい事情を調査するため”という名目でここへ飛ばした。それは事実上の左遷、要らないものを捨てるのと同じだと思う。
知識として身体を人間仕様に変え、食べ物を食べなければ生きていけないことは“資料”を読んで知っていた。でもそれをするつもりにはなれなかった。“天使”としての私が、どこかに消えてしまう気がして。
最初は右も左も分からず、人間の様子を観察し、それを真似ることに徹した。ただこの髪が黒に近かったために“日本人”の中に紛れ込むことができた。翼を隠し、気配を殺し、人の間に紛れ様子を伺いながらじっと、何をどうしたらいいのかを考えていた。
数日間食べ物も飲み物も取らないまま人の営みを観察し続けたら、食べ物を得るのに“お金”がいること、お金は稼がなければいけないものと分かった。厄介払いされた私が持つものは何もなかった。ぼんやりと街を歩き、人の話に耳を澄ませながら、どうやって稼ぎ、お金を得、食べ物を得ればいいのだろうかと、この身体はいつまでもってくれるのだろうかと、そんなことを考えていた。
死ぬつもりはなかった。存在を否定され、疎まれても、まだ生きる世界と手段があるのなら私は生きたいと考えていた。それにこれは“仕事”だった。定期的に地上の様子を報告するのが私に与えられた仕事だった。“天使”としての私に仕事を放棄することはできなかった。やっぱりそういう生き物なのかな、と頭の隅で思った。
桜の舞う春の日だった。
ピンク色の小さな花びらが目の前に降ってきてふと、足を止めた。
レンガ塀の向こうから顔を出すように伸びていた大きな桜の木に、満開の花が咲き誇っていた。もちろんその時はその花の名前など知らなかった。ただ、地上の花も綺麗なものだとそれを見上げていただけで。
風に散っていく花びらを眺めていた私に声をかける人がいた。……それが、彼だった。
「……アンナ? アンナなのかい?」
「……?」
近くで人の声がしたので驚き、声のするほうを見てみると、そこにはシックなスーツを着こなした初老の男性が立っていた。白髪なのか銀髪なのか区別も付かなかったけれど、年を感じさせる皺の寄った顔のわりに、すっとスマートに立つ姿が印象的だった。
その人にじっと見つめられ、『アンナ』と呼ばれて誰かと間違えているのだろうと思い、すぐにその場を離れようと思った。しかし一歩後退した私の手をサッと掴んだ彼は、涙を流しながら私に縋りついてきた。
「おお、アンナ……私の可愛いアンナが、帰ってきてくれたのだね……」
「お、おじいさん、私は、その……」
その時口を開かず何も言わなければ、彼は勘違いをし続けることもなかったかもしれない。
「ああ、アンナだ。そのロシア語は私が教えたもの、そうだろう……?」
更に感極まって泣き出す彼をどうしようもできずに困惑したまま立ち尽くした。私を抱きしめて泣き続ける老人を打ち捨てて逃げ出すのは“人間”がやってもいいことなのか判別ができなかった。できるだけ目立たぬようにしようと考えていた私はその時、何が正解か分からないままに、おんおん泣き続ける老人の白い髪をそっと撫でた。
そのまま流されるように彼の家に入っていた。出された湯気を立てる紅茶を前に、どうしてこうなったのだろうと部屋中を見回しながら、どうしたらいいのだろうかと途方にくれた。初めての人の家、初めての距離。何をどう言ったら、全ては彼の勘違いであり、私はここから逃げることができるのか分からなかった。だから落ち着いた様子の彼が安楽椅子に腰掛けながら語る、それまでの人生を黙って聞いているしかなかった。
『アンナ』とは彼の孫娘で、ロシア人である彼と日本人である奥さんの間に生まれた娘が、またロシア人に嫁いで生まれた子供なのだということ。私にそっくりな外見であること、ロシア語が堪能だったこと。
自分が何の言語を話しているのかという認識はなかった。ただ、彼に向かって話しただけだ。ロシア語を流暢に話しただけで孫娘だと確信されて戸惑いながら、ふと打算的な考えが浮かんだ。
……このまま『アンナ』になってしまうことはできないだろうか?
ひとり地上に放りだされた私には、自分の身体以外、持てるものはなかった。ここ数日、街を彷徨っていたが人間として生きるためには様々な厄介ごとが多く、自分ひとりではとても生きていけそうになかった。人としての常識や知識もないまま、食べ物も得られずにこのまま朽ちていくならば、いっそ。
……この優しそうな人を騙してでも、私は
「ああ、アンナ。本当に心配したんだ。良かった、アンナだけでも帰ってきてくれて」
心から安堵した様子で涙を拭う彼に、私はひとつ深呼吸をして口を開いた。
「……ご心配をおかけしてすみませんでした、おじいさま。これからは一緒にいます。『アンナ』が、傍に」
あの時、果たして上手く笑えていたのかどうかは分からない。
そうして私は彼を騙し、生死不明になっていたアンナの戸籍を復活させてアンナに成りすますことに成功した。『おじいさま』は私は事故のショックでいろいろなことを忘れてしまったのだろうと納得し、あれこれ様々なことを一から私に教えてくれた。
彼や他の人と話すうちに、私はこの世界のどんな言語でも操ることができるという事実に気づき、それを利用して市役所の国際交流係の職を手にした。相談員という形であるが、仕事を得ることができた。
そうして、……そうして私は今に至る。
人の間で人としての仕草や言葉遣い、自然な受け答えややりとりの仕方を盗み習い、もう四年が経った。あのアルの彼が言うように、私はもうほとんど人間に近い感情を持っているのかもしれない。けれども、どんなに努力をして人間に近づこうとも決してなれないのだ、“人間”には。……『アンナ』には。
まだ閉めていなかったカーテンの向こうの窓から、一筋の風が吹き込んで頬に当たった。夏の夜の少しだけ冷たい風。漆黒の夜空に瞬く星星を見ながらそっと、小さく呟いた。
「……アル、あなたが羨ましい」
あの子はあの彼を騙さずに済む。全てを知って受け入れてくれたあの彼は、あの子を愛し一生守るだろう。
私は、私はきっと、“彼”が一生を終えるその時まで“彼”を利用し続けるだろう。“彼”が死への旅路へ旅立った後さえも真実を明かさず、“彼”を騙し続けるだろう。『神原アンナ』として生きていくだろう。
「……もし、あの時、私も天使なのだと真実を言っていたら……。……いいえ、“もしも”なんていつだってありえないのよ」
小さな灯りを灯しただけの薄暗い部屋で、私は自分自身の呟きに応え、首を振った。……そう、いつだってありえない。どれだけ願ったとしても、過去が変わることなどないのだ。
私は、地上に降りて初めてひとり、“孤独”を感じていた。それは、今まで感じたことのない、“感情”だった。
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