天下統一編 第五話
天正16年(1588)6月15日 寧々屋敷
「……そうですか。衆道に関心が無かったあの人が、そこまで」
「御意。南蛮公家の間では、そういうやり方で子を為す事があるとの事です」
秀吉は若い頃、側室を持てない為、高級遊女と戯れていた。その一人が、たまたま石松丸秀勝を生んだ例を引き合いに出し、三成は秀吉に進言、了承させていた。それにより、三成が茶々を抱いた後、秀吉が茶々を抱くようになっていたのだ。
「その役は、孫七郎の方が良かったのでは?」
「いえ。某の方が茶々殿から信頼されておりますれば」
もっとも秀吉直系が生まれた場合は、秀次の娘を嫁がせる事で、近江衆との間で合意形成がされていた。三成は、秀次を暫定的に推していたものの、寧々や秀俊と敵対する意図は無かったのだ。むしろ補完勢力としての活用方法を模索していた。
「ならば私は、花見などを催すようお願いしておきましょう」
「ありがたき、幸せ。それともう一つ、報告が御座います。淀城を改築している最中に御座います」
寧々は若い頃、お市の側女で有った事から、茶々に対して親愛の情が深かった。実子が無いゆえの博愛精神かも知れないが。
「それも、茶々の為かえ?」
「御意。珍奇故、曝したくはなく存じます。そこで某が進言し、改築と相成りまして御座います」
淀城は大阪方面や奈良方面から京都へ繋ぐ要の位置に有った。西の≪毛利家≫や東の≪徳川家≫の挟撃を避ける為と称し、欧州技術による改築が進められていたのだ。三成が頻繁に茶々の元へ訪れては、周囲から不審がられ、権威失墜にも繋がる恐れがあった。そこで、淀城に茶々を置く事で周囲の眼から遠ざける事にしたのだ。その中には、秀吉に伏せた目的も存在していた。それは、欧州王家に倣い、正室二人体制を実現する事である。改築は、その為の布石でもあったのだ。このままでは、茶々が子を為しても、側室の子と見做される。そうなると正室である寧々の養子を経なくては、後継者になる事は難しい。そうした場合、尾張衆の浅野長政らの更なる台頭を許す事になり、三成としては、それも避けたかったのだ。
「なるほどのぉ。如何に藤吉(秀吉)達ての望みとはいえ、進言したのが佐吉と知られれば、敵視する者も更に増えましょう」
「お寧様に信じて頂くだけで、某は満足で御座います。ところで、秀俊様や秀康殿のお姿が観えませんが、如何されましたでしょうか?」
三成の来訪目的は、三つ有った。言うまでもなく尾張衆の纏め役である豊臣寧々との関係強化である。もう一つは、羽柴秀俊・羽柴秀康の連合阻止する事である。両者が必要以上に力を持てば、いらぬ野心を持ち、いずれは徳川家康が介入をしてくるのは、必定と考えていたのだ。そもそも羽柴秀康は、徳川家康の次男にあたり、豊臣家へ布石として形式上人質として置いた駒で有った。介入を抑止する一環として、豊臣家第二位継承権者と豊臣家第一位継承権者との間を取り持とうと、幾度か画策していたのだが、思う様にはならなかった。気難しい羽柴秀次と気性の荒い羽柴秀俊は、性格の相異に加え、周りが対立を煽り立てる為、むしろ悪化の一途を辿っていたのだ。三成の政治基盤である近江衆も、尾張衆に対抗するために、結託しているに過ぎなかったのだ。党首笛吹けど、党員踊らずである。
「一足遅かったわね、一刻ほど前に京の都へ向かったわよ」
「京で御座るか? あのお二人は、ほんに兄弟の様に仲がよう御座いまするな」
「ほんに孫七郎も、秀康ほどの度量あるといいわね。ところで三成、秀俊をどう扱うつもりです」
「は。秀俊様には大身の大名なれるよう力添えする所存でございます。ただ某の一存ではどうとも……」
「そう、判りました。では、これを」
三成は、寧々が預かっていた書を懐にしまうと、部屋を後にするのであった。
天正16年(1588)6月16日 京都藤林邸
「さっそく意見を聞かせて貰おうか」
そう藤林四郎将信は、眼前の柳生兄弟に問うた。
「では、某から。秀康殿は、類稀に観る逸材かと存じます。某の主として相応しいかと」
「ふむ、なるほどな」宗矩の眼を観ながら、不可思議な笑みを浮かべ頷いた。
「宗章はどうじゃ?」
「は。某は、秀俊殿を選びたく存じます。尾張衆を纏めれる器に育てたく」
「丁度よい具合に分かれたようだな」
もう一人の柳生厳勝は、既に徳川忍軍副頭の地位にいた。これは徳川家康の伊賀越え当時、武田家降将の駿河江尻城主穴山梅雪を暗殺依頼を成功された功績に報いたものである。この会議により柳生宗矩は秀康陣営、柳生宗章は秀俊陣営へ行く事が決まった。
「しかし、秀次側には誰も居りませんが?」不満げに宗矩が尋ねた。
「それには及ばん。五右衛門も居れば、他の者もおる。それに」
柳生家は、石田三成の手により、改易処分となっていた。太閤検地により隠田が露見、領地没収の憂き目に遭っていたのだ。その為、三成が後継に推す秀次にも、含むところがあったのであろう。改易後柳生一門は、交流の有った傭兵派遣業を営む藤林邸に身を寄せ、傭兵として活躍していた。茶屋が傭兵派遣の窓口となっている事は、知る人ぞ知る、事実であった。顧客には、足利義輝、松永久秀、本多忠勝など錚々たる顔ぶれが並ぶ。
「何でも知ろうとするな、小僧。興味は人を殺すぞ!」
「これはしたり。五右衛門殿、相変わらずの気殺、見事に尽きまするな」
「ハっ。貴様は、驚いておらぬであろうが。ああ、つまらぬ、つまらぬな。少しは宗章を見習ったらどうだ」宗章はというと、顔を引き攣らせながら、瞬きを繰り返していた。
「これで、会議はしまいじゃ。各々時期を見計らい近づくが良かろう」
柳生兄弟は、顔を見合わせ、暫くのち去っていた。
それから1刻(2時間後)、京都藤林邸
「琉球での布教率は、およそ八割程度に上ります。高砂(台湾)の制圧は、凡そ4割程度と報告を受けております。本格的な布教は、5年後を予定しております」
日本伴天連教会会長の矢島二郎兵衛が報告。6年前に琉球を海からスペイン艦隊が攻め、陸は、傭兵集団で首都を制圧。降伏した大半の者は、台湾へ入植者として、送り込んでいた。
「海運部門ですが、琉球港、大坂港、三河港の3点貿易での収益は上々です。今後も南蛮から人買をし、高砂国(台湾)への入植者を増やす予定でございます。報告は以上です」
細かい内訳の書簡を藤林に渡し、魚屋七朗の報告は終えた。
九州の各領主は、敵対者を捕らえては、欧州商人に売り渡し利益に代えていた。それを、欧州商人から安く買い取り、台湾へ入植者としてどんどん送り込んでいたのだ。
「秀勝の件でようやく進展が有ったようだ、丹波国10万石召し上げになった由。近江衆も賛意を示したらしい。あとは、豊臣秀長の後継者に秀俊を据えるだけですな」
石川五右衛門は、羽柴秀次の実弟である羽柴秀勝失脚を命じられていた。秀勝が九州制圧での功に不満を漏らしていたが、さして問題にはならなかった。秀吉から≪身内一の武士≫との評価を受けており、大目に観られていたのだ。また第三位継承権者であり、二大派閥の一つである近江衆からも受けが良かったのだ。
「しかし、なんですな。統領の言われる統一国家でしたか。豊臣家を操る方が安易と存じますが、なぜそこまで拘るのか、ご教授頂きたいものです」
「茶屋よ、今までの朝廷や武家の統治が何故失敗したと思う?」
「驕るる者久しからずと言います、それに後継者が小粒な事が多いですからな」
「確かにそれもあるが、統治そのものに問題があるのだ。大領主が複数の中領主を率い、中領主がまた複数の小領主を率いる。これが古来から続く、統治のあり方だ。大領主が弱れば、中領主からの下克上に遭う。故に、統治を変える必要があるのさ」
「そういう事。我らが遣ろうとしている事は、統一国家を創る事。その為に力を結集している。我らが民の為にな」
石川五右衛門が賛同の意を述べた。
「会議は、しまいじゃ。各々役目を果たされよ。我らが民の為に」