第八十六話 武術
まず最初にコングが動いた。
巨体とは思えない瞬発力で駆け出すと、一瞬でゼンとの間合いを詰める。そのまま体勢を低くして左肩を前に突き出し、体当たりを見舞う。
当たればこれで終わっていた。
だがゼンはコングの体当たりを、半歩引いただけで躱す。
それはまるで羽毛が風に吹かれるような、あまりにも軽やかな受け流しで、コングは勢い余って駆け抜けてしまう。
「野郎……!」
自慢の体当たりを軽く流され、コングの鼻息が牛のように荒くなる。そして再び猪の如き勢いで突進するが、さすがに今度は頭を使ったようだ。
コングは走りながら、両手を横に大きく広げた。体当たりが駄目なら、今度は捕まえようという気だ。コングの長い腕なら、多少逃げたぐらいじゃ捕まえるだろう。
これはどう躱す。そう思ってゼンを見ると、なんと奴は棒立ちだった。そしてあっという間にコングに捕まり、丸太のような腕にがっちりと組みつかれてしまった。
「捕まえちまえばこっちのもんだぜ。背骨が折れる前に、ちゃんと参ったって言えよ」
その言葉通り、コングは両腕に力を入れてゼンを締め上げにかかる。筋肉が膨れ上がり、女の太ももくらいありそうな腕がさらに太くなる。
「物凄い力だ。さすがに少し苦しいですね」
そう言うとゼンは、身体から力を抜いた。馬鹿な。今力を抜いたら、コングにバラバラにされちまうぞ。
ゼンは大きく息を吸い込むと足を少しだけ開き、軽く握った右の拳をそっとコングの腹に押し当てた。当然密着した状態でのパンチはまったく威力がなく、まさに触れただけといった感じだった。
「何だそりゃ? もう諦めたのか? もっと無駄なあがきをしてみろよ」
勝利を確信したのか、コングの顔に笑みが浮かぶ。そしてゼンを締めつける力を緩めるどころか、さらに力を込め始めた。
そろそろ止めるか。俺がそう思った瞬間、
「フンッ!」
ゼンの身体が気合と同時に震えた。その時地面に着いていたゼンの両足が土を踏み砕いたのを、俺は後になって気づいた。
それよりも驚くべきは、そのたった一発の気合だけで、コングの顔色が見る見る青ざめていったのだ。
見れば、ゼンの右拳がコングの腹に深々とめり込んでいた。当然コングだって油断していたわけじゃない。ゼンを両腕で締めつけつつ分厚い腹筋に力を入れ、鋼のように固めていたに違いない。なのにそれを突き破るようにしてゼンの拳が刺さっている。何故? どうやって? 当然拳を振りかぶる距離なんてまったくなかった。だって最初から拳が腹に着いていたのだから。
俺が愕然としていると、コングの両腕から力が抜け、だらりと垂れる。そのまま身体がずるずると下がっていき、最終的にはゼンの肩に顎を乗せてどうにかずり落ちずに済んでいるような形になった。これは完全に勝負ありだな。
「おや、これを受けて失神しないとはさすがですね」
「うるせえ……まだ勝負はついてねえぞ……」
いや、どう見ても勝負はついてるだろう。俺が背中を軽く叩くと、ようやくコングは諦めて地面に両膝を着いた。




