第六十六話 サイン?
夕食を終え、俺は自室へと戻った。
五つの書状という宿題を手に持って。
室内には書類仕事をするための木製の机が備えつけられている。俺は部屋の照明から火種を取ると、机の上に置いてあるランプに火を点けた。
椅子に座り、机の上に書状を並べる。
溜息を一つ。さて、どうしよう。
人間の文字が読めるのは、地図を見た時に確認できた。だが書くのはどうだろう。いや、この身体は人間スレイのものだから当然読み書きができるのは記憶からすでにわかっている。けど俺がこの身体を支配している状態で文字が書けるのか。
つまり、俺がスレイの身体を使って文字を書けるのか、という事だ。
不覚だった。ここに来て、スレイの身体でまだ試していない動作があったとは……。
それにしても、この文字っていうのは何だ? 絵でもないくせにそれぞれ一つ一つに意味があって、それを組み合わせる事によって言葉じゃないのに思った事を相手に伝えられる。
しかも驚くべきは、この書状のように自分の声が届かないほど遠方の相手にも、自分の意思が伝えられるという。そして書いたものが焼けたり失くなったりしない限り、ずっと残る。つまり記録だ。極端な話、俺が死んで何十年何百年後の世界でも、ものが残っていたら俺の意思は残るのだ。
人間は、何てもの思いつきやがるんだ。
どんだけ意思を残したいんだよ。
キモ!
人間キモ!!
……っと、余計な事を考えている暇はないんだった。気を取り直し、俺は机上の飾りのようにずっと置かれたままのペンとインク壺を手元に引き寄せる。
ペンとインク壺の埃を払い、ペン先にインクをつける。よし、ここまでは大丈夫。いくらスレイが馬鹿だと言われてるとはいえ、さすがに自分の名前くらいは書ける。……はず。
ペンを持つ手が震える。大丈夫、問題ない。スレイの記憶にある行動を、実際に再現するだけだ。馬に乗るのだって、剣を振るのだってできたじゃないか。要は、脳にある記憶情報を筋肉を動かす電気刺激に変換するだけでいい。ただそれだけの事だ。
いざ。練習用の皮紙に向かってペンを向ける。大丈夫。何だかんだでペンの握り方とかも自動的に手がやってくれている。きっと何度も繰り返した動作は、頭で考えなくても身体が憶えているはずだ。
ペン先が皮紙に触れる。じわり、とインクが皮紙に染み、ペン先が皮の表面にひっかかる感触が手に伝わる。
今だ! 俺は意を決し、ペンを走らせる。
ほぼ自動的に動く自分の右手に、俺は言い知れない不快感を憶える。うわあキモイ、キモいよお……。俺自身は文字なんて知らないし書いた事もないのに、使ってる身体が勝手に書いてる。
こうして俺の不快感に反して、身体は見事にスレイの名前を書き上げた。この調子で全部の書状にサインしてしまおう。
どうにか五つ全ての書状にサインし終わると、俺はくたくたになっていた。たかが名前を書いただけなのだが、俺自身に経験のない情報が宿主から流れ込んでくる状態が、こんなに不快だとは思わなかった。
今は誰も見てないからいいが、もし誰かの目がある状態でこうなると怪しまれるかもしれない。それにまだこんなふうに不快な動作があるかもしれない。
ぐったりしている場合じゃない。俺は気を取り直すと、スレイの脳内から自分にとって未知の作業を検索し始めた。




