第1話
じりじりと照りつける太陽が、容赦なく体内の水分を奪っていく。日焼けした額から滴る汗は、乾いた土に一瞬で吸い込まれた。
リアムは広大な畑の至るところで自由気ままに生い茂る名もない雑草を黙々とむしり取っていた。ふと見上げると、太陽はすでに真上まで昇っていた。朝早くから休みなく動かし続けている筋肉が悲鳴を上げ始めている。
リアムは空に向かって両手を大きく広げ、ぐぅっと背伸びをした。くらくらするほどのまぶしさに手をかざすと、太陽の光を背に受けて大地に影を落とす鳥たちが、
「ピーヒョロロ」
と鳴きながら気持ちよさそうに旋回しているのが見えた。
「おーい、リアム」
背後から馴染みのある声が届いた。この農場を営む叔父のパウルが手を振っているのが見える。叔母のアイラも隣に立っていた。
リアムは作業道具を担いで農道に駆け上がり、その勢いのまま走って向かった。
「走らんでもええのに」
アイラが初夏の日差しを右手で遮りながらやさしく言う。
「何か御用でしょうか?」
「ちょっと買い物に行ってもらいたくてな。今日はもう戻ってこんでええから。明日買ったものを持ってきてくれるか」
「わかりました」
メモとお金を渡されると、作業道具を片付けてすぐに街に向かって歩き出した。
ここからしばらくは道沿いに銀杏の木が連なっている。木陰に入ると、樹々の間を吹き抜けてきた涼やかな風が頬を撫でた。火照った体から汗が引いていく。
陽光を浴びた木々の緑がまぶしい。枝葉の隙間から垣間見える雲一つない空は、空気が澄んでいるせいかどこまでも果てがないような透き通った青色に染まり、鮮やかな緑で覆われた山々の稜線をよりいっそう際立たせていた。
野菜や麦を育てるのも、山菜や薬草を採るのも大好きだ。自然の中で暮らしていると、こころが癒され豊かな気持ちになれる。
歩き始めてしばらくすると、自分の名前を呼ぶ聞きなれた元気な声が飛んできた。声の方に目を向けるとフレアが走ってくるのが見える。
「リアム、どうしたの?仕事は?」
「ちょっと買い物を頼まれてね」
「そうなんだ。私も買い物。ウェーバー通りとセインズリー通りの十字路近くに最近できたパン屋さん。知ってる? とうもろこしパンがおいしいんだって」
「ふーん。ソフィアさんのところの仕事は休みなの?」
「うん。今日は休みをもらってマチルダ叔母さんとダニエル叔父さんとお祝いの食事会。叔母さんの家に来てちょうど8年目の記念日なんだよ」
リアムがフレアと初めて会ったのも8年前だった。そのときフレアは9歳。人の表情や仕草の端々から、相手の本心や要求を必死に読み取ろうとしていた姿にひどく驚かされたのを覚えている。両親を流行り病で亡くしたフレアにとって、それは天涯孤独で生きていくためのすべだったのかもしれない。
そんな境遇にもかかわらず、無口になったり、人との交流をためらったりすることなく、いつも素直で明るく、少々おせっかいで、リアムの世話をよく焼いていた。今思えば、リアムが同じ時期に父親を亡くしていたことも関係していたのかもしれない。
改めて振り返ってみると、フレアと過ごした日々はかけがえのない思い出に満ちていた。フレアとは同い年で11歳から15歳まで同じ学舎に通っていた。
家が近いこともあってほぼ毎日行き帰りが一緒だった。二人とも薬草に興味があって学舎帰りに連れ立って野山を駆けるのが日課だった。お互いの家を行き来することも多く、リアムの母アンナはフレアを娘のようにかわいがっていた。
学舎を卒業してもうすぐ2年になる。フレアは街で一番賑わっている市場の一角にある惣菜屋で働いていた。リアムは叔父のパウルの農場で働いているが、昼過ぎに農場の仕事を終えると、掛け持ちでソフィアの惣菜屋を手伝っていた。
始めて会った頃から、フレアは凛とした美しさと愛らしさを兼ね備え、ひときわ異彩を放っていた。今は、透き通るような白肌と、光を浴びて赤茶色に煌めく艶やかな髪によってその天性の造形にいっそうの磨きをかけていた。
フレアの美しさは街でも評判になっているが、本人は全くその自覚がないようだ。ソフィアの惣菜屋の男客のほとんどはフレア目当てで通っているという噂だ。それだけにリアムとしては心配の種がつきなかった。
「フレア、気を付けて行くんだよ。知らない人について行っちゃだめだよ」
「もうっ、私、子供じゃないんだからね」
フレアはくりっとした大きな目を見開いて、頬を膨らませながらかわいらしい唇でぷんぷんと抗議している。
「ごめん。ごめん。じゃあまたね」
「うん。ばいばい」
フレアはかわいらしい鼻歌を響かせながら軽やかに歩きだした。
リアムは先を急いだ。人通りの多い道に入り歩くペースを少し落としたとき、何やら話し込んでいるご婦人たちの気になる会話が耳に飛び込んできた。なんとなく気になって足を止めた。
「また16歳の女の子が人さらいにあったらしいわよ」
「これで5人目だって」
「怖いわね。公安は何をやってるのかしら」
『人さらい』という言葉が妙に引っ掛かり、いつまでも耳から離れなかった。フレアの顔が思い浮かび胸の奥が騒ぎだす。ほどなく、この胸のざわつきは不可思議な焦燥感へと変わり、じわじわと内側からせり上がってきた。
フレアがさらわれる?
そう想像しただけで心臓の鼓動が激しくなった。まさか、フレアに限っては大丈夫だろう。そんなことあるはずがない。そう自分に言い聞かせようとした。しかし、得体の知れない胸騒ぎは、澱のように心の底に居続けて消えることはなかった。
根拠となる事実は何もない。でも理屈や理性とは別の何かが、リアムの心に必死に訴えかけてくるのも事実だった。
リアムはその場で反転すると今来た道を戻り始めた。最初は小走りだった足取りが、膨れ上がる不安と焦燥に突き動かされるように、いつしか地面を強く蹴り上げる疾走へと変わっていった。
10分ほど走り、先ほどフレアと別れた場所に戻った。フレアはウェーバー通りとセインズリー通りの十字路の近くのパン屋に行くと言っていた。
どうしようもなく不安な気持ちをなんとか振り払い、フレアが今どのあたりにいるかを冷静に推測し、どう行けば最短ルートになるのか頭をフル回転させた。
ウェーバー通りへの最短ルート、しかも人通りが少なく全力で走ることができそうな道を選んで進んだ。走る速度を緩めずに行きかう人々の間を駆け抜けていく。
何の根拠もないが、残された時間は少ないような気がした。リアムは焦る気持ちをそのまま手足を動かすエネルギーに変換していった。
もし、本当にフレアがさらわれたのだとしたら、もう二度と会えないかもしれない。
想像しただけで、とてつもない恐怖に襲われ、胸の奥を鋭いナイフで抉られているかのような痛みが走る。温かいものが頬をつたっていくのを感じて涙を流していることに気づいた。
ついさっき会ったときのフレアの笑顔が脳裏に浮かび、フレアと過ごした8年間の出来事がよみがえってきた。しかし、今はそれに浸っている時間はなかった。
午後の灼熱の太陽が上半身を容赦なく照りつける。リアムは額の汗を右の手の甲でぬぐった。上腕と大腿部の疲労が限界に近い。
喉の奥で鳴るゼーゼーという呼吸音は耳に届いているのに、酸素が肺に届いていないような底なしの窒息感。まるで喉元を締め上げられているようだった。ほんの少しだけ立ち止まって休みたい、そんな衝動に駆られる。
でも、ここで足を止めて、万が一にも本当にフレアがさらわれてしまったとしたら、フレアは想像を絶する辱めを受けて苦しむことになる。そんなこと、絶対に、あってはならない。
人通りの流れが変わり一瞬リアムの前方の視界が開けた。人の往来が途絶えたその先に茶色の幌を被った一両の馬車が姿を現した。
1人の男が後ろから脇を抱え、もう1人の男が両足を持ち上げて、女性を馬車の荷台に乗せようとしているのが見えた。
まさか、本当に? 信じられない思いに驚愕しながらも、リアムはとっさに
「フレアっ」
と叫んだ。
いや、叫んだつもりだった。しかし、実際にはゼーゼーという呼吸音だけが虚しく宙を舞っていた。
男たちはフレアを荷台に乗せるとすぐさま馬車を走らせた。
リアムは遠ざかる幌を一点に見据え、もつれそうになる足にさらなる力を込めて地を蹴った。喉の奥までせり上がった心臓は、その限界を超えて命を削りながら脈打っているかのようだった。
心臓が今にも口から飛び出しそうな苦しみだったが、ここで見失ったらもう二度と会えなくなるという恐怖が全身に力をみなぎらせていく。
クヌム神様、どうかフレアを助けてください。救ってください。どうか、どうか・・・・・・。
リアムは絶叫した。
クヌム神様はアドリア国の建国以来、国の守護神として崇められている神である。しかしながら、リアムはこれまでの人生で、クヌム神様にまともに祈ったことなどなかった。
でも、自分の力だけではどうしょうもない状況になった今、魂の奥底からクヌム神様に救いを求める自分がいる。
勝手なものだが今は本当に存在するかどうかわからないクヌム神様にすがってでもフレアを助けたかった。
******
パン屋さんにもう少しで着くというところで、突然後ろから羽交い絞めにされ、馬車の荷台に乗せられた。両手首、両足首を縛られ、声を出せないように猿轡をされた。
私、さらわれたの?
もう二度とリアムに会えなくなってしまうの?
そう思うとフレアの胸は震えた。
クヌム神様、どうか助けてください。
リアムとずっと一緒にいたいです。
クヌム神様、どうか・・・・・・。
******
相手は馬車を操っている御者を含めると3人以上だろう。このまま馬車に追いついたとしても1人では勝ち目はない。公安を呼びに行けば馬車を見失ってしまう。どうすれば・・・・・・。
馬車が進んでいる道の先は突き当りになっていて、左に曲がれば街の中央に向かい、右に曲がれば街の外に繋がる東門がある。おそらく馬車は東門から街の外に向かうのではないか。
リアムは馬車が突き当りを右に曲がるのを確認した後、そこから500mほど手前の、人がなんとか行き来できる程度の細い道に入った。この道を行けば東門の手前で馬車に追いつけるはずだ。
細い道から大通りに出たとき、馬車は100mほど先を走っていた。
ほどなくして東門の前で止まると御車台の男が門番と何やら話をしている。リアムは門番に向かって声を張り上げた。しかし、実際はしわがれた声がかすかに漏れただけだった。
それでもなんとか両ひざに手を置きながら息を整えて声を絞りだした。
「助けてください。女の子がさわられて、この馬車の中に、拉致されています」
「フレアっ、今助けるよっ」
2人の門番は、リアムを一瞥すると、無言のまま互いに目配せしてその場から離れ、門番所の中に入っていった。
リアムは目の前で起こっていることが理解できなかった。門番たちの行動に愕然としつつも、何かの間違いであってほしいという期待を込めながら、もう一度、門番たちの背中に向けて、
「助けてください」
と確かな言葉を投げつけた。今度は確実に声が届いているはずなのに門番たちが振り向くことはなかった。リアムは頭の中が真っ白になって、茫然と立ちすくんだまま動くことが出来なくなった。
フレアを乗せた馬車は東門から外に向かって走り出した。
リアムは意を決して、馬車の荷台に飛び乗った。荷台の奥には、猿轡をはめられ手足を縄で縛られているフレアが横たわっていた。そして、その前に2人の男が立ちふさがっていた。
男たちは正体を隠すように、つばの広い帽子を深くかぶり、布らしきものを顔の前に垂らしていた。その布の目元あたりにある横長の穴から不気味な眼光が怪しく光っていた。
リアムは馬車に乗り込む直前に右手で土をひとつかみしていた。それを右側の男の目元をめがけて投げつけた。男がひるんだすきに股間を思いっきり蹴り上げた。
その直後左側の男が殴りかかってきた。それを左腕で防御しながら、右の拳で相手の腹を思いっきり突いた。2人とも倒れて呻いている。
「フレアっ。大丈夫?」
フレアに目を移すと、もうひとりの男がフレアの喉元にナイフを突きつけていた。
「小僧。そこまでだ。動けばこいつを殺す」
リアムの全身から力が抜けていく。膝間づいたリアムの腹を男たちは何度も何度も蹴りあげた。
「リアム、リアム、リアム・・・・・・」
涙声で呼びかけるフレアの声がかすかに聞こえた。




