16_咆哮②
血や暴力描写が苦手な方はご遠慮ください。
凄まじい痛みと共に、身体中が燃え上がるような熱狂がノアを突き動かした。
それは魔力による高揚ではない。もっと泥臭く、禍々しい、根源的な「何か」だ。意識の混濁に抗う術もなく、彼は獣となって夜の森を疾走する。
今、この四肢を支配しているのはノアという青年なのか、それとも内側に潜む「別の怪物」なのか。
巨木の幹を蹴り、ノアは重力をあざ笑うように空中へ跳躍した。夜の闇を味方につける獣の瞳が、下界のすべてをつぶさに捉える。暗い木々の合間に、点々とした光の筋が道を作っていた。ホロウたちが、獲物の元へと彼を誘っているのだ。
(ジルのところへ……)
着地したノアは森を震わせるほどの咆哮を轟かせた。
大気が激しく振動し、臆したホロウたちが霧散していく。道標は消えたが、もはや迷いはなかった。ノアは本能が指し示す方向へと、再び土を蹴った。
疾走する感覚は、驚くほど自然だった。四肢を使い、風を切る。人ではない形に成り果てている自覚はあっても、その野生こそが真実であるかのように錯覚する。霞がかった思考は、刻一刻と何者かに塗り潰されようとしていた。
そして目的地に辿り着いた時、ノアの意識からは「なぜ自分がここにいるのか」という記憶さえも脱落していた。
※
「我が主」
恭しく胸に手を当て、何者かに膝をつく男。その背後、地面に横たわったままジルは息を呑んだ。
目の前の漆黒の獣。それがノアであると、ジルには直感で理解できた。例えその姿が豹そのものであったとしても。闇に浮かぶ艶やかな毛並み、牙を剥き出しにして低く唸る異形の王。三日月の形に歪んだ瞳孔は正気を失い、ただ破壊の衝動だけを湛えているように見える。それでも、彼女の瞳にはその奥に眠るノアの面影が見えていた。
(どうして、こんな姿に……)
助けに来てくれたのか、あるいは彼もまた制御を失ったのか。ジルの困惑を余所に、男は淡々と言葉を紡ぐ。その声には驚きも、恐怖もなかった。
「どうやら、順調に魔力を吸い取れたようですね」
吸い取る――? 痛みに霞む頭で、ジルはその言葉の意味を必死に手繰り寄せた。腹部の傷からは依然として鮮血が服を濡らし、意識は朦朧としている。だが、これほどの失血をしながらも意識が保てていることに、彼女は奇妙な違和感を覚えていた。
「やはり豹王を選んだのは正解でした。七獣国で最も魔力量の多い御方ですからね。あなた様の良い『肥やし』となると見込んで、私が選定したのですよ」
男の言葉に反応するように、ノアは喉を鳴らした。今にも食らいつかんとする殺気が膨れ上がる。
「姿をくらまされた時は肝を冷やしましたが、時折漏れ出るあなた様の気配を辿り、ようやくここまで……。しかし、なぜもっと早くお呼びくださらなかったのですか?」
芝居がかった身振りで両手を広げる男の背中を、ジルは凝視した。
今のノアは、自身の意思で動いているのではない。何者かの計画によって仕組まれ、何かに取り憑かれている。その事実だけはわかった。
直後、ノアの咆哮が爆発した。
衝撃波が走り、男の右半身が無残に吹き飛ぶ。ジルは辛うじて反対側へ倒れ込んだが、強烈な空圧に身体を弄ばれ、傷口の激痛に呻いた。
「クッ、クク……」
半身を失いながらも、男は愉悦に満ちた声を漏らした。断面から血が流れることはない。その異様な光景に、ジルは以前対峙したビューティスという女を想起した。
(人間じゃない……)
「素晴らしい。ですが、私は貴方の味方なのです。攻撃する必要など――おっと」
男はひらりと身を翻し、追撃をかわした。焦燥感は微塵もなく、むしろ実験の成果を眺める子供のように笑っている。
「ふむ、まだ理性的とは言い難い。まあ、豹王の自我さえ消えてしまえば、すべて解決することですが」
理性の灯が消えかかっているノアを見て、ジルは底冷えするような恐怖を覚えた。男の目的は不明だが、このままではノアという存在そのものが消失してしまう。
「――ノア!!」
渾身の力で名を呼んだが、獣の耳がぴくりとも動くことはなかった。
男は、ようやく思い出したかのようにジルへ視線を向けた。それは、道端に転がる石ころを見るような、無機質な眼差しだった。
「ああ……。お前も多少は役に立ってくれた。とりあえず礼を言っておこうか」
男の手が、ゆっくりと持ち上げられる。それが自身の死を意味する動きであることを、ジルは悟った。
(……ここまでなの?)
終わりを覚悟し、瞳を閉じかけたその瞬間。
ノアが男の肩に深く噛み付いた。
鋭い牙が肉を裂き、骨を砕く音が響く。だが、男は痛みを感じる素振りさえ見せない。
「お離しください、我が主。この娘はもう必要な――ああ、召し上がりますか?」
ノアの顎がさらに力を増し、男の残された左肩を食い千切った。
その時、男の瞳に冷酷な不穏さが宿った。
「無駄ですよ。私はビューティスとは違う。あなたでは私を殺せません」
男が何か言葉を口の中で転がした瞬間、ノアの巨体が地面に叩きつけられた。まるで見えない重圧に押し潰されたかのように、ノアは苦悶の声を漏らす。
「ふむ、ちょうどいい。この娘を目の前で殺せば、少しは獣王の自我抑え込めるかもしれませんね」
男の身体が、見る間に再生していく。欠けた半身も、食いちぎられた肩も、何事もなかったかのように元の姿へ。男は絶望をなめるようにジルへ近づき、その金の髪を無造作に掴み上げた。
「色々と役立ってくれたお礼を言うよ」
「この……化け物……!」
「否定はしない。私にとっては褒め言葉だ」
男は嗜虐的な笑みを浮かべ、地面でもがくノアを指差した。
「君の大切なお友達も同じだ。化け物なんだよ――」
その瞬間、ジルは反射的に手が持ち上げ、自身の髪を拘束する男の腕を掴む。振り解こうとしただけの、必死の抵抗。しかし、触れた瞬間に男の形相が劇的に歪んだ。
「あああああああああッ!!」
男が絶叫と共に手を離し、ジルは地面に転がった。先ほどまでの余裕は消え失せ、男は地面に突っ伏して、己の腕を抱えながら狂ったように喚き散らしている。
(まただ、あの時と同じ……!)
ジルは止まらなかった。今、この一瞬を逃せば次はないと本能が叫んでいた。
顔を上げた男に、ジルは自ら覆い被さるようにして、その顔面を両手で掴んだ。
「ぎゃああああああっ! 離せ、離せえええ!!」
凄まじい絶叫。男は全霊の力でジルを突き飛ばした。叩きつけられた衝撃で視界が明滅した。
だが、ジルは見た。
男の腕が、肩が、まるで乾燥した土くれのように崩れ落ちていく様を。
再生することのない破壊が、音を立てずに訪れたことを。
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