15_咆哮
血や暴力描写NGな方はご遠慮ください。
何かが血管を通して這い上がってくる。
ドロリとした粘性を持った「それ」は、心臓の鼓動に合わせて逆流し、神経の末端を焼き切るような苛烈な熱を撒き散らしていく。
本能が、理解した。
自分という器の底に沈んでいた何かが、今、深い眠りから目を覚ましたのだ。
呼応するのは、ノアの心に燃え盛る黒い炎。
怒り――。
それはノアの意識を飲み込み、黒く塗りつぶしていく。
これは誰かの感覚なのだろうか。
微かな希望が霧散し、大切なものを無残に奪われる絶望。
ノアではない。
この身体の中に潜む「それ」が、ノアの怒りに呼応して、あまりの絶望にのたうち回り、内側から殻を突き破らんばかりに叫んだ。
※
ジルは暗い森を、あてどなく歩いていた。
背後には、死神のように冷徹な足音がぴたりと張り付いている。月明かりだけが頼りだったが、さっきからその月も厚い雲に隠れ、ジルは不安定な足元を泥にまみれながら進むしかなかった。
身体中の至る所に、鋭利な刃でなぞったような傷が刻まれている。枝で引っ掻いたわけではない。ジルがつまずき、足をもたつかせるたび、背後の男が残忍に肌を切り刻んでくるのだ。
役に立たないなら首を掻き切ると脅されたが、その前に失血で死ぬかもしれない。
だが、不思議とジルの心に恐怖の震えはなかった。以前、森で襲われた時は恐怖のあまり震え、縮こまり、ノアの胸で泣き喚いたのが嘘のようだった。
ジルはただただ、アンナが無事でよかったと思っていた。もちろん幼い彼女に心の傷は残るだろうが、少なくとも今ジルが受けているような虐待は受けていなかったはずだ。自分という身代わりが現れたことであの子が解放されたのなら、それでいい。七歳の子供が理不尽に傷つくなんて、冗談じゃない。
だが、覚悟を決めたところで状況が好転するわけではない。何せ、男の目的である「森の主」の居場所も、ノアの居場所も知らないのだ。今はただ、出口のない迷宮を彷徨っているに過ぎない。
ウーゴも、いっさい姿を見せなかった。前の時もそうだが、どうやら悪党の近くにはいられないらしい。だが、ノアにアンナのことを伝えてくれるよう頼んだことが、唯一の希望の光だった。もしかしたらウーゴは、アンナの代わりにジルが森に入ったこともしっかり見ていたかもしれない。それなら尚のこといい。
また、切られた。
今度は左足で、ジルは堪えきれずに倒れ込んでしまった。
「歩け」
冷酷な声が降ってくる。ジルはゆらりと立ち上がり、重い足を引きずって歩き始めた。
男は一体、何を期待しているのだろう。森の主とやらが、わざわざ足を運んでくれるとでも思っているのだろうか。だが、ノアが来る可能性は確かにあった。何せ、ジルがノアに伝言を頼んだのを、男は聞いていたはずだから。
道中、男はノアのことを執拗に聞いてきた。だがジルが教えられたのは、ノアが美しい女性の姿で学園生活を送っていたことぐらいだ。それは大いに男を面白がらせたが、ジルに大した情報がないとわかると、質問はすぐに終わった。
「そういえば、この地を張っていたビューティスという女が消えたんだが、知っているか?」
突然の問いに、ジルは静かに首を振った。
「知らないわ」
どうやら、あの土気色の顔をした不気味な女のことだろう。しかし、ビューティス(美しきもの)なんて、随分と名前負けしたものだ。ジルはいつになく意地悪な気分だった。内心で、その女ならノアに殺されて土に還ったわよ、と返事をした。
「豹王に殺されたか……」
男は呟いたが、仲間だろうに、その声に惜しむ様子はなかった。
前の時のように走って逃げても、すぐに追いつかれてしまうだろう。あの女は長い爪で直接攻撃してきたが、この男は「風」を操るのか、直接触れることなくジルを先ほどから切り刻んでいた。
そこでジルは、今更ながら思い出した。あの女がジルに触れた直後、悲鳴を上げて痛みを訴えたことを。あれは一体、何だったのだろう。ノアがあらかじめジルに保護魔法でもかけてくれていたのだろうか。それなら、今もかかっている?
だが、試すわけにもいかない。距離を詰めた途端、首を刎ねられる可能性が高すぎた。
ウーゴはもう、ずっと姿を見せない。無事にノアに会ってくれただろうか。
そう考えていた時、男がぼそりと呟いた。
「あと、十五分だ」
「……?」
「日付が変わるまで、あと十五分ということだ」
男の声音には、不吉な愉悦が混じっていた。ジルは何も言い返さなかった。賢い彼女には、それが自分の命の残り時間なのだと分かったからだ。
だが、実際はもっと短いようだった。
「さて。どうやらホロウはお前を導いてはくれないようだ」
不穏な声に、ジルは足を止めて振り返った。厚い雲が切れ、淡い月光が貴族的な男の青白い顔を照らし出す。
「ホロウと会話していたから期待したが……無駄だったな」
「私は森の主とやらには会ったこともないし、存在も知らなかったわ」
「だが、乙女しか入れぬ森だ。特別な導きを期待してもいいだろう。収穫祭だしな」
男が一歩、近づいてきた。ジルも反射的に一歩下がる。
男の表情は、どこまでも酷薄だった。
「私がいなかったら、あなたはこの森から出られないでしょう?」
ジルの精一杯の抵抗を、男は馬鹿にするように笑った。
「そうらしいな。だが実際に歩いてみたが、時空の歪みはあれど、ここは特別な森というわけではなさそうだ。男が彷徨うのは乙女好きなホロウの仕業のようだ」
男がさらに近づく。ついにジルの足が震え始めた。
「だが、今奴らはいない。精霊は我々のような存在を忌避する性質があるからな。当然のことだ」
さらに一歩。
「つまり、お前がいなくとも問題ないということだ」
もう一歩。
「あと、十分か」
「……私がいなくても問題ないとして、わざわざ殺す理由にはならないと思うけれど」
「確かに。捨て置くのも一つの手だが……」
刹那、凄まじい衝撃がジルを襲った。
「あ……っ!」
鋭い痛みが腹部を貫き、息が止まる。身体が動かない。
ジルは糸の切れた人形のように脆く地面に崩れ落ちた。
「豹王の顔に泥を塗るというのも、いい余興だ」
視界の端で、熱い血が土の上を流れていくのが見える。
「あと九分。ちょうどいい感じだな」
その時――森の静寂を切り裂き、地響きのような咆哮が全てを包み込んだ。
森が激しく揺れ、古木たちが悲鳴を上げてざわめく。圧倒的な、怒りの波動。
「本当にちょうど良かった。お前、役に立ったじゃないか」
至上の喜びと言わんばかりに、男は暗闇の向こうを見据えて楽しげに笑った。
ジルの視界が暗くなった。何かが遮ったのだ。
「これはこれは、豹王殿下」
男の恭しい声が響く。実に愉快げな声だった。
「ーーー我が主」
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