14_忍び寄る禍(わざわい)④
更新情報はXにて(@sharineko01)
ヘルナの寝息だけが、静まり返った部屋に虚しく響いていた。
グラスの中のワインはとうに飲み干され、ノアはワインを口にするのはとうにやめていた。卓上のランプが放つ微かな光を見つめながら、彼はただ、自身の内側で渦巻く情報を整理し続けていた。
ジルが、あの「浄化の魔女」だという事実を。
その事実は、この絶望的な世界において唯一の福音に思えた。
歴史に名を刻む大魔女オルガナ。かつて世界を侵食せんとした「it」を封じ込めた伝説の存在。だが、その英雄譚の、オルガナ個人の情報に関しては、正確な記述は残っていない。
浄化とは、一体いかなる力なのか。封印の儀式には何が必要だったのか。それを知るのは、今や目の前で醜態を晒して眠るこの「毛玉」だけだ。
ノアは思考を巡らせた。
いずれにせよ、ジルには真実を告げなければならない。そして彼女を首都へと連れ出すのだ。
「it」の出現により混迷を極める秩序を立て直す、最後の希望として。
彼女の力があれば、自分の中に巣食う「それ」を、この忌々しい呪いごと消し去る方法が見つかるのではないか。
それはオルガナがかつて成し遂げたように——。
「——……っ」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
命と引き換えに?
オルガナの伝説は「死による封印」によって完結した。
脳裏に、あの柔和な笑みを浮かべる少女の顔が浮かぶ。
突然現れたノアの友人で、癒してくれたあの無垢な存在を、世界の安定という名目で生贄に捧げるのか。
「……冗談じゃない」
独り言ちた声は、自分でも驚くほど低く、鋭かった。
彼女を危険に晒すことなど、到底考えられない。絶対にだ。
敵の目的も、自分を狙った理由も判然としない今、彼女の正体が知れ渡れば、ジルは「希望の光」であると同時に「最高の標的」となってしまうだろう。
慎重に進めるべきだ。まずはヘルナから情報を聞き出し、最善の策を練る。
ノアは一つ溜息をつき、椅子に深く背を預けた。視線の先では、ヘルナが相変わらず「グー……」と間の抜けたイビキをかきながら丸まっている。
この地に来た甲斐はあった。あとは、この酔いどれが起きるのを待つだけだ。
その時だった。
バタン! と扉が激しく跳ね上がり、部屋の静寂が粉砕された。
飛び込んできたのは、ウーゴの群れだ。
「……ッ、なんだ!?」
ノアが身構えるのも構わず、毛玉たちは尋常ならざる様子で鳴き喚き始めた。必死に何かを訴えようとしているようだが、ノアにはその声の意味が全く理解できない。だが緊急であることは分かった。
「ヘルナ! 起きろ、ヘルナ!!」
大声で呼びかけ、肩を揺さぶるが、酒精に浸りきった魔女は一向に意識を浮上させる気配がない。
埒が明かない。無理やりにでも冷水をぶっかけるかと立ち上がった瞬間、ノアより先にウーゴたちの堪忍袋の緒が切れた。
「キュイイイッ!!」
一斉にヘルナに飛びついた毛玉たちは、文字通り彼女を椅子から蹴り飛ばした。床に転がったヘルナの四肢を四方から掴み、まるで引き裂くような勢いで引っ張り回す。
「あー!! あーーー!!! 痛いっ! 痛いじゃないか!!」
物理的な苦痛によって、ヘルナがようやく絶叫とともに目覚めた。
彼女は乱れた髪を振り乱し、自分を襲った「毛玉共」に向けて凄まじい剣幕で怒鳴り散らす。
「なーんてことするんだね、この馬鹿たれどもは! 熟睡中のレディに対する所業か、これが!」
しかし、ウーゴたちは怯むどころか、さらに数を増やして部屋を埋め尽くさんばかりに喚き立てた。その異様な熱量に、ヘルナの表情から次第に怒りが消え、驚愕へと塗り替えられていく。
「……なんだって……?」
掠れた声がヘルナの口から漏れた。
「どうした、何と言っている」
ノアが問い詰めると、ヘルナは顔面を蒼白にし、ふらふらと壁に手をついた。
「大変だ……これは、大変なことに……うっぷ」
吐き気を堪えるように口元を押さえ、ヘルナはうずくまった。
一瞬、ノアはこの大魔女の頭を掴んで壁に叩きつけたい衝動に駆られた。
だが、その殺気を感じ取るよりも早く、ヘルナは弾かれたように顔を上げ、衝撃の事実を告げた。
「……ジルが、捕まったようだ。あんたが『泥人形』って呼んでた連中に……おえっ」
ノアの思考が、一瞬で凍りついた。




