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試験室の窓辺には、子供の背丈ほどの観葉植物が置いてある。冬でも瑞々しい緑の葉に、ブラインド越しの光が縞模様の影を作っていた。
その影が揺れるのを眺めながら、私は今朝のことを思い出していた。
朝の通勤電車内で、今日のこの予定のことを壱己に話した。
「知ってる」
やっぱり。そうだろうなと思っていた。モニターは一週間に一度、決まって週末の金曜日に行われている。壱己が忘れている筈がない。
昨夜はあんなに二人きりにさせるかと大騒ぎしていたのに、今朝の壱己はそれ以上何も言わなかった。でも、静かな逡巡が伝わってくる。
ドア横の角に収まった私の前に立ち混雑から庇ってくれていた壱己が、不意にぎゅっと私の手を握る。
「…灯里。今夜も、会いたい」
降車駅に着く少し前に、壱己は低い声でそう呟いた。
「……うん」
私も何故だか言葉が出てこなくて、それだけ言うのが精一杯だった。
壱己の抱く得体の知れない不安は、繋いだ手を通じて私にも伝染していた。
研究室の椅子で天河さんを待つ私は、初回の時よりもっと緊張していた。
天河さんは音もなく部屋に現れた。
「久しぶりだね」
天河さんはそう微笑った。不思議だった。彼が少し微笑んだだけで、部屋の空気が清浄なものに入れ替わった気がする。
どうしてか、私もすごく久しぶりだと感じていた。昨日社員食堂で顔を合わせたばかりなのに。
天河さんは変わらぬ穏やかな表情をたたえたまま、髪の調子を尋ねたり先週の検査結果を伝えたりした。こころなしかいつもより言葉少なだったけれど、特別変わった話題はない。そのことに安心して、ほっと緊張を緩めた。
私は一体、何をそんなに構えていたんだろう。このひとの、何をそんなに恐れていたんだろう。
天河さんは今までと同じ手順でシャンプー台へ案内し、私はそこで仰向けになった。天河さんが目の上にそうっとガーゼを広げる。視界が白くぼやけて、雲の中で横たわっているような気分になった。
「前に言ってた友達って、芦屋君の事だったんだね」
温かいシャワーを頭に浴びて少しぼんやりしていたから、すぐに意味を理解することが出来なかった。
それが頭の中で浸透した瞬間、私は危うく飛び起きそうになる。
「…どうしてっ…」
「動いちゃ駄目だよ。泡が撥ねる」
静かに制止されて、起こしかけた上半身を注意深く元に戻した。私が体勢を落ち着かせたのを確認して、天河さんは何事もなかったかのように作業を再開した。
私の呟きには沢山の問いが含まれていた。
どうして壱己だとわかったのか。どうして私が夢の内容を憶えていると知っているのか。どうして先週はその話に触れなかったのか。なのにどうして、昨日と今日は口にするのか。どうして貴方は───…
「僕も不思議に思ってたんだ。どうして急に呼ばなくなったんだろうって。でも昨日の彼を見て納得したよ。あんな子が傍にいたら、来れるわけないよね」
大の大人の壱己をあんな『子』呼ばわりして、天河さんはふふっと笑った。
「僕に聞きたいことがある?」
きゅっと蛇口を捻る音とともに、水が止まった。目を覆っていたガーゼが外され、そこで待ち構えていた淡い色の瞳と目が合う。
「今夜、おいで。夢で会おう」
慌てて目を逸らした私の耳元で、天河さんはそう囁いた。




