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 「──ごめん。俺が悪かった。言い方間違えた。謝る。謝るから許して」

 頭から被ったコートを引き剥がした壱己は、正座に居直って深々と頭を下げる。陳謝の姿勢になった壱己を見下ろし、私は溜息を吐いた。

 反省してるのは伝わる。頭に血が上ってだけなのもわかる。元々口が悪いのも知ってる。でも壱己にそんなふうに思われていた、それ自体に腹が立つ。納得もいかない。

 「…前に言ってたちょろいとかグダグダとかも、そういう意味だったの?何でそんなふうに言われなきゃいけないの?そりゃ壱己からしたらいつでも出来る手軽な女かもしれないけど、誰にでもって訳じゃない。実際生まれてこのかた壱己としかしたことないんだし、三十近くなって一人だけなんて全然多くないじゃない。緩いなんて言われる筋合いない…」

 「───何?」

 「何って何」

 「もっかい言って、今の」

 「今の?どれ?」

 「俺としかしたことないって、嘘だろ」

 「あぁ、それ?何でよ、嘘じゃないよ。壱己としかしたことない」

 「嘘だ」

 「だから何で」

 「じゃああいつは何なんだよ、二十歳ハタチん時に付き合ってた…」

 壱己が言う『あいつ』が誰のことか、一瞬わからなかった。でもすぐに思い出す。壱己に吐いた嘘を現実にする為に付き合った、もう顔も思い出せない大学の先輩。苦い思い出だ。

 「何ヶ月か付き合ったけど、そういうことはしてない。キスもしてない。それ以来彼氏なんて一度もいたことないし、誰ともしてない」

 「……ふ……」

 正座で床を見つめる壱己の肩が震えている。一瞬笑っているのかと思ったけど、違った。

 「…ふざけんな、あの野郎…!」

 何故か、壱己は怒っていた。

 「な、何?何で怒ってるの?あの野郎って誰」

 「お前の元彼だよ。だってあいつ別れた原因お前の浮気だって」

 「えぇ…?浮気なんてしてないよ」

 「それも手当たり次第、節操無しで何人も男がいたって。性欲オバケでついていけないと思って別れたって」

 「おば…?ちょ、ちょっと何それ。手も繋いだことなかったくらいだよ。何ならそっちが別れた理由だもん。手を繋ぐのも目を合わせるのも嫌なら別れて欲しいってそう言われて」

 唖然とした。先輩と付き合っていた期間の記憶は朧げだけど、真面目で大人しい印象の人だった。そんな嘘を言うような人だったとは、全く思っていなかった。

 「そもそも壱己、先輩とそんな話するほど交流あった?」

 「いや、誘われて行った飲み会にOB枠で偶々そいつがいて。誰かがお前と別れた理由聞いてて、それでそいつがそう…」

 「馬鹿馬鹿しい。そんな嘘みたいな嘘、真面目に信じたの?」

 「いや、多少盛ってるだろうとは思ったけど」

 「多少、程度…?」

 じっとりと私に睨まれて、壱己は慌てて言い訳を始める。

 「だってお前だって言ってたじゃん。俺と寝たのも練習だとか何とか…だからそういう事に本当はすげぇ興味あったんかなって、ちょっとは本当なのかって…けど誰彼構わずってくらいなら、何で俺は駄目なんだって腹立って、それで俺、あの日…」

 壱己の声は次第に小さくなっていった。

 壱己の言うあの日がいつのことか、私にはすぐにわかった。しばらく音信の絶えていた壱己が突然私の家に来たあの日。壱己が強引に行為に及んだ、あの日だ。 

 「…そんな嘘信じて、あんなことしたの?」

 「……酔ってたのも、あって……」

 呆れた。

 そんなつまらない誤解で、あんな酷いことをするなんて。

 「……ごめん。本当にごめんな、灯里」

 壱己は床に膝をついたまま、私の手を握る。その子供じみた仕草。子供というより大型犬か。お座りからのお手。興奮のあまりうっかり飼い主の手を噛んでしまって、ごめんねと謝りながら傷口を舐める、そういう感じ。

 狡くないか。私の過去の発言を引き合いに出して罪悪感を煽った上に、庇護欲を刺激してくる。狡い。許すしかないじゃないか。

 「…もういいよ。私も誤解されるようなこと言ったし。でも壱己は口が悪過ぎるから、それは直して。いくら慣れてるって言っても酷いこと言われたら私も傷付くから」

 「うん。ごめん。気を付ける」

 「今度言ったらもう二度と会わないからね」

 「…わ…わかった」

 いつになく項垂うなだれた壱己のつむじを見つめていると、手を引かれた。座って、と無言で乞われて、仕方ないから座り直した。

 二人して疲れ果てて、並んで座って深い溜息を吐く。 

 「俺、ほんと馬鹿だな」

 「本当にね。まぁ私もだけど…でも先輩のその嘘がなければ私たちには何のきっかけもなくて、あのまま会わずにいたかもしれないね」

 「…どうかな。それがなくても俺は、結局いつかは我慢出来なくなってお前に会いに行ってたと思うけど」 

 脱力した壱己が、私の肩に寄りかかる。温かくて、重い。

 そう、壱己は重いのだ。全体的に重い。

 けれどその重さが、きっと私に必要だった。

 荒波に揉まれる船が疲弊した時に、立ち止まり安息を与えてくれるいかりのような役目を果たす、その重みが。

 「…お前、本当に俺としかしたことないの?」

 「しつこいな。そう言ってるでしょ。信じないならもういいよ。尻軽の性欲オバケって思ってれば?」

 「信じる。すげぇ嬉しい。嬉し過ぎてちょっと勃った」

 「本っっっ当に、馬鹿だよね…」

 馬鹿だな。壱己も、私も。

 お互い大事なことを、言わないで、聞かないで、勘違いしたり深読みしたり、遠ざけようとしたり、でも出来なかったり。まどろっこしいことをして、こんがらがってばかりいる。こんがらがるから、紐解くのに時間がかかる。だからいつも私は、自分の気持ちがよくわからないのかもしれない。

 面倒臭いな。なんだかもう、面倒臭い。

 余計なことを考えないで、もっと正直に率直に奔放に、欲しいものは欲しい、したいことはしたい、好きなものは好きだと言えていたら、何か違っていたのだろうか。

 (あの(ひと)、みたいに)

 その記憶ははるか遠く、もう、あやふやな輪郭しか浮かんでこない。

 あの人はどんな顔をしていたっけ。思い出そうとして、すぐにやめた。

 「…今日はもう、寝よっか」

 「灯里、疲れた?」

 「うん、少し。続きはまた明日話そうよ」

 「明日…」

 横道に逸れてしまって、大事な話はまだ途中だ。壱己は眉間に皺を寄せて逡巡したけれど、結局は私の意向を汲むことにしたみたいだ。ぽんと私の頭を叩いて「風呂ためてくる」と立ち上がった。


 壱己は知っているだろうか。

 明日の午後、私には通常業務外の予定が入っている。前回の検査から一週間、週に一度のモニタリングの日。天河さんに会う日だ。


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