第6話:はじめての夜、心ほぐれる温もり
ヴァルザール城の客間に案内されたエリスは、思わず言葉を失った。
石造りの重厚な外観とは裏腹に、室内は驚くほど温かく、柔らかな雰囲気に包まれていた。
広い窓には厚手のカーテンがかけられ、壁には繊細な刺繍のタペストリーが飾られている。
ベッドはふかふかで、天蓋には銀糸があしらわれ、まるでおとぎ話の中の部屋のようだった。
「いかがですか、お嬢様。窮屈な思いをされないよう気をつけますので、何かあれば何でもお申し付けくださいませ」
兎族のメイド、フィーリアがふわりと笑いながら柔らかく声をかける。白い耳がぴくりと揺れ、その仕草にエリスは思わず胸が温かくなるのを感じた。
「……わ、私……お嬢様なんて、そんな……」
思わず首を振るが、別のメイド──小柄なネズミ族の少女、ミルナがきょとんと目を丸くする。
「でも皇帝陛下が、あなた様は“客人”だって仰っていましたよ?ヴァルザールでは、客人は敬意を払って迎えるのが常識です」
エリスは胸がきゅっと締め付けられるような気持ちになった。ルミナシア王国ではただの厄介者、黒髪黒目の呪われた存在だった自分が、こんなにも優しく迎えられるなんて思いもしなかった。
「……ありがとう……ございます」
涙がこぼれそうになるのをこらえながら、エリスは微笑んだ。メイドたちの耳と尻尾が嬉しそうにぴくぴくと揺れた。
「さあ、お風呂のご用意が整いました。湯船に浸かれば疲れも取れますよ」
フィーリアに手を取られ、浴室へと案内される。湯気が立ち込めた大理石の浴槽は、ほのかな花の香りが漂い、エリスの心をそっとほぐしてくれた。
熱い湯に浸かった瞬間、全身の力が抜けた。肌が温まり、冷え切っていた体がじんわりと蘇る。ふと指先を見れば、ここ数日の逃亡と飢えで荒れてしまっていた肌が、少しずつ色を取り戻している気がした。
──不思議だ。今まで生きているのが辛かったのに、こうしてただ温かい湯に浸かるだけで、生きていてもいいのかもしれないって思える……。
気づけば涙がぽろぽろと湯船に落ちていた。誰にも必要とされず、忌み嫌われてきた十数年の記憶が、静かに洗い流されていくようだった。
「……エリス様、そろそろ……」
優しい声に呼ばれ、名残惜しみながらも湯から上がった。柔らかなタオルで身体を包まれ、メイドたちが丁寧に髪を乾かしてくれた。まるで夢のような時間だった。
その後も温かいシチューとパンが用意され、焼きたての香ばしい匂いに思わず涙ぐんだ。ふと、食卓の端にはルミナシア王国では見たことのない果物や干し肉が並んでいるのも目に入った。
「こちらは皇帝陛下が狩りで獲られたイノシシのお肉です。栄養満点ですよ」
「果物はルミナシア王国からの輸入品でして、城では貴族用の特別等級しか使いませんの」
説明を受けながら、エリスはぎこちなくスプーンを口に運ぶ。優しい塩気と肉の旨味が口いっぱいに広がり、頬が緩んだ。
「……お、美味しい……」
「良かったです!おかわりもありますからね!」
「好きなだけ食べてください!」
初めて心から美味しいと感じた。
温かいシチューを食べたのも、しっかりと調理されたものを食べたのも初めてだったからだ。
エリスは「これならいくらでも食べれそうだ」と思っていたが、普段からあまり食べなかったせいか、シチュー一杯でお腹が満たされたしまった。
少し残念な気持ちで食事を終え、メイドたちに早めに休むよう言われたエリスはふかふかのベッドに身体を沈めた。
今までは硬い藁の上か、冷たい床だったのに──ふんわりとした布団に包まれた瞬間、エリスの瞼は自然と重くなっていった。
「(本当に、夢みたい……)」
心が緩んだとたん、眠気が一気に押し寄せた。静かに目を閉じると、胸の奥でかすかに芽生えた小さな希望が、優しく鼓動を打った。
初めての安らかな夜。ヴァルザール帝国の温もりの中、エリスは静かに眠りについた。
──まだこの国で何が待ち受けているのか知らずに。