第12話:聖女の兆し
昼下がりの陽光が重厚なカーテンの隙間から静かに差し込んでいるヴァルザール帝国の皇帝執務室には緊張した空気が満ちていた。
レオンは重厚な執務机の前に立ち、静かに瞳を伏せる。机の上には書簡が積まれ地図が広げられているが、彼の心は目の前の紙片ではなく昨日の出来事へと向かっていた。
厚みのある扉の向こうから、規則正しい足音が響いてくる。扉が開かれると、熟練の側近たちが一人ずつ静かに入室し、定位置へと着いた。
最初に入ってきたのは老練な狼族の参謀グラハルド、続いて厳格な騎士グレイ、冷静沈着な虎族副将ランベル、そして俊敏な猫族の諜報長マリス。最後に、エリスに仕えているフィーリアが静かにレオンの前に立った。
ゆっくりと琥珀色の瞳が一人ひとりの顔を見渡す。瞳に宿るのは冷徹な威厳だが、その奥には一抹の思案が滲んでいた。
「集まったな」
低く落ち着いた声が、静寂に包まれていた空間を揺らした。全員が深く頭を下げ、無言のまま次の言葉を待つ。
レオンは執務机の傍を離れ、窓際へと歩を進めた。昨日見下ろした城下町の景色が、目の前に広がっている。
「昨日、エリスと共に城下町へ出た」
その名前に一部の側近たちの眉がわずかに動く。
言葉と共にレオンの記憶が蘇る。陽光の中、心から笑う民たちと、エリスが驚きながらも穏やかに過ごしていた光景。彼女の黒髪が風に揺れ、澄んだ瞳が輝いていたあの瞬間を思い返す。
「そこで、彼女が力を使った」
静かな声が部屋に落ちた途端、空気が一瞬緊張に包まれた。
グレイが眉をひそめ、声を潜めるように問う。
「……怪我の癒し以外に、何かが?」
レオンは短く頷いた。窓の外に視線を向けたまま、言葉を続ける。
「町の片隅にあった小さな家の庭。ほとんど枯れかけていた野菜の苗が、エリスの力で青々と蘇った。目の前で、鮮やかな命が芽吹いたのだ」
静まり返っていた室内が、わずかにざわめいた。
年老いたグラハルドが口元に手を添え、ゆっくりと唸るように言葉を紡いだ。
「……それは……」
「偶然にしては出来過ぎだろう」
「……ふむ。やはり聖女の力……なのかもしれませんな」
グラハルドの言葉にマリスの耳がぴくりと動き、尻尾がゆらりと揺れた。
厳格なグレイは無言のまま深く腕を組み、虎族のランベルが低く唸った。
「四百年ぶりか……」
レオンは静かに瞳を閉じる。
「まだ断定はしない。だが、目の前で起こった現象だけは……確かだ」
その静かな宣言に、空気が重く沈んだ。
沈黙を破ったのはグレイだった。彼は真剣な表情で一歩前へ出る。
「……陛下。それほどの力を持つならば……」
視線を正面から受け止めながら、グレイは真剣な声音で言い切った。
「もしかすると、陛下の妹君、ラシェル様を救えるのでは?」
その一言に、場の空気が揺れた。
レオンの指が僅かに机の縁を叩く。琥珀の瞳が鋭く細められ、氷のような沈黙が流れる。
「……その話はするな」
抑えられた声だったが、そこに宿る威圧は誰も逆らえないものだった。
しかしグレイは続けた。揺るぎない忠誠と願いが、その言葉に滲んでいた。
「ですが、陛下……奇跡を目の当たりにされたのではないのですか?」
レオンの唇が硬く結ばれた。目元の陰影が深くなり、低く一言が落ちる。
「くどいぞ」
レオンの声が鋭く空気を裂いたその瞬間、室内の温度が一段下がったように思えた。グレイがたじろぎ、静かに頭を垂れる。
「彼女に何かを強いるつもりはない」
やや緊張が走った空気の中、グラハルドがゆっくりと咳払いし、低く呟く。
「……陛下のご意志、しかと承知いたしました。ラシェル様のことは口外いたしません」
他の側近たちも、静かに頭を下げた。だが、話題はそれで終わらなかった。
マリスが鋭敏な瞳を揺らしながら進言する。
「ですが陛下、このままではいずれ城下町から噂が広まりましょう。昨今の魔物の動きも異常な中、聖女が現れたなどと知られれば、隣国……特にルミナシア王国へも情報が漏れる可能性があります」
ランベルが顎に手を添え、重い声を響かせた。
「国内ですら、その存在を利用しようとする者が出るやもしれません」
――聖女の伝承が本当であれば、争いの火種にも、希望にもなり得る。
レオンは静かに目を伏せ、思考を巡らせた。この国の土地は衰え始め、民は日々瘴気と戦い、帝国は多くの課題を抱えている。聖女という存在は、この国にとって“光”となり得る存在だが、その光に縋り過ぎれば逆に彼女を傷つけることになるだろう。
聖女という存在がどれほど国を揺るがすか、その影響の大きさは容易に想像がつく。
「それだけではありません」
グレイがもう一度口を開いたが、先ほどのような強引さはなかった。
「現在、我々側近はまだエリス様と直接顔を合わせておりません。このままでは、いざという時に信頼を得ることも、迅速に動くことも困難です」
マリスも続いた。
「皇帝陛下のお言葉は重いもの。しかし、我らも直接ご挨拶し、お目通しの機会を頂ければ……国の守りとしても動きやすくなります」
レオンの表情は動かなかったが、その心には僅かな葛藤が生まれていた。軽々しく彼女を人目に晒したくはなかったが事態が不穏な方向へ進んでいる以上、守りの手は増やさねばならない。
静かに息を吐き、琥珀の瞳が細められる。
「……一理あるな。 フィーリア、エリスを呼んできてくれ」
「かしこまりました、陛下」
柔らかな笑みを浮かべたフィーリアは深く一礼し、静かに部屋を後にした。
重厚な扉が静かに閉まった後、レオンは深く息をつき窓の外へ目を向けた。雲一つない澄んだ青空の向こう、エリスの運命が静かに動き始めているように感じた。
「(たとえ聖女であろうと、彼女の未来は……彼女のものだ)」
心の奥底に小さく刺さる不安と、彼女を守りたいという無自覚な感情が、静かにせめぎ合っていた。
琥珀の瞳は、沈黙のまま遠くの空を見つめ続けていた―――。