ゆめうつつ
ヘンリー・スマラクトは、ある一点を除いて優秀と評される男だった。
ある一点とは、婚約者のエリザベス・グラナート。
エリザベスの話題になると呆けた表情で賛辞の言葉を述べるが、彼女の前に立つと緊張し体が硬直してしまう。
二人の出会いは、好印象とは言えなかった。
茶会に連れられてきたエリザベスを見た時から、ヘンリーは彼女から目を離せなくなっていた。
自分の内に湧く感情に流されるまま庭の花を差し出したが、後になって毒草と知った。
それからも、家同士の付き合いで顔を合わせる事はあったが、エリザベスは自分に近付くことは無かった。
彼女に話し掛けようとしては躊躇い、後悔し……そんな彼に転機が訪れたのは一年後。
アネット・グラナート伯爵夫人が急逝した事だ。
優しく貞淑な夫人は周囲の人々から敬愛されており、多くの人々がその知らせに涙した。
そしてエリザベスは、愛する母親の死を機に別人のように変わってしまった。
夫人の死を乗り越えて前を向こうとする家族や使用人達を罵り、夫人の部屋で泣き喚く日々を過ごしていたらしい。
エリザベスの事情を聞いたヘンリーは、そんな彼女に寄り添いたいと婚約を申し込む事にした。
母を亡くしたばかりの少女に――と両親は難色を示したが、ヘンリーの必死の説得により、公爵家から伯爵家へ打診された。
グラナート伯爵は、再婚して後継の男児を儲けるか、エリザベスに婿を取らせるかの選択を迫られていた。
古い付き合いがあるスマラクト家に嫁げば、娘も安心できるか――と婚約を承諾した。
伯爵の再婚後は親子間で諍いもあったらしいが、月日が経つにつれてエリザベスは落ち着きを取り戻していった。
夫人の死因は心臓の病ではないか――医師がそう推察してから、伯爵は娘の健康状態を懸念していた。
嫁ぐまでは出来るだけ外へ出さず、伯爵家の中でエリザベスは大事に育てられた。
ヘンリーは伯爵の意向を汲み、エリザベスを外出に誘うことはせず、自分から会いに行くようにした。
気の利いた言葉一つ言えない自分にも、エリザベスは優しく微笑んでくれていた。
そんな交流が長きに渡って続き、いつしかエリザベスの異母妹であるローズが同席するようになった。
ヘンリーとしては、エリザベスと二人で過ごしたいという気持ちもあった。
しかし、姉妹が仲良くしている光景は微笑ましく、またローズがいると緊張も緩和されたため、拒む事は無かった。
同年代の者達が結婚し始めた頃も、伯爵はエリザベスの嫁入りに躊躇し、二人の関係が進展することは無かった。
ある日、母から諭された。
エリザベスはずっと質素な出で立ちだが、婚約者なら気を配るものだと。
内輪の茶会を開くから、周囲の令嬢達を見て省みろ――そう言われた際に気が付いた。
エリザベスに装飾品を贈る事もあったが、彼女がそれを身に纏う姿を見ていない。
好みに合わなかったのかと落ち込んだ。
臨んだ茶会の日、予想に反して、エリザベスは淡い橙色のドレスを纏っていた。
いつもより美しく、光り輝いて見えて……まともに見る事が出来なかった。
王太子が場の空気を乱した際も、彼女は堂々と振る舞い、円滑に納めて見せた。
彼女が“フランチェスカの再来”と踊る姿は、とても不快であったが……。
「ヘンリー、君の婚約者はやるじゃないか」
「かなりの美人だな」
友人からの称賛を受けて、ヘンリーの心に沸き上がったのは、焦燥感であった。
他の誰にもエリザベスを取られたくない――そのような思いで、次の夜会では地味なドレスを着るように頼んだ。
ザフィーア公爵家に着くなり、ヘンリーに浴びせられたのは、臆病な自分を揶揄する言葉。
それでも、エリザベスは誰よりも美しく見えたから、満足だった。
しかし、状況を一変させたのは、また“フランチェスカの再来”。
「……公爵だけですわ」
エリザベスの社交辞令に、訳知り顔で頷く公爵。
その姿に腹が立ち、エリザベスを取り戻そうとして、彼女に恥をかかせる結果となってしまった。
自分の振る舞いは、周囲から呆れられていた。
自分に希望をもたらしたのは、王太子の助言。
「彼女に服を贈って、一緒に出掛けたら良い」
彼の言葉を受けて、仕立て屋に直接赴いてドレスを頼んだ。
針子達に『本当によろしいのですか?』と確認されたが、金に糸目を付ける気は無かった。
しかし、自分はまた失敗したらしく、劇場前での醜聞はそれなりに広まった。
このままでは婚約すら駄目になってしまう――落ち込む自分を見て、王太子が周囲に働きかけたらしい。
あっという間に、自分達の結婚が決まってしまった。
せめて、エリザベスには穏やかに過ごしてほしい――式の前日、彼女に思いを伝えに行った。
そして、帰る際に家政婦長から渡されたのは、一通の手紙。
『今日の夜更け過ぎ、この手紙を持って裏庭へ来てほしい。誰にも秘密で』
王太子から内密に呼ばれた振りをして馬車を借り、裏庭に入るとエリザベスが待っていた。
「ヘンリー様」
彼女は嬉しそうに自分の手を取った。
いつになく積極的な姿に戸惑ったが、結婚を前に彼女も浮かれているのだろう、と考えていた。
「私の手紙は?」
言われるままに、それを差し出した。
「二人だけで、お祝いしたかったの」
そう言うと、彼女は古そうな倉庫を開けた。
「……ここなら、誰にも見つからないでしょう?」
その言葉に誘われて、中に入った。
倉庫の中は大きな荷物が入っており、二人で座ると少し窮屈だった。
葡萄酒を勧められて、グラスに口を付け――
気が付いた時には伯爵家の中にいて、結婚は取りやめになったと告げられた。
自分がローズと不義の行いをしたと聞かされ、否定しても信じてもらえない。
家政婦長も、手紙など知らないと話していたらしい。
昨夜の出来事は、自分の夢だったのか――その答えは、今も分からない。
ローズの成長を待って自分と結婚させるか、ローズを修道院へ送るか――当主達の議論は翌日に持ち越された。
「明日、医師達がローズの診察を行います。それで処遇を決めましょう」
その言葉だけが、ヘンリーの救いであった。
しかし、翌朝に聞かされたのは、王太子とローズが焼死したという報せ。
「どうして……」
彼がローズに懸想していたようには見えなかった。
疑問に感じたが、これで自らの潔白を証明する手立てがなくなった。
極めつけに、王太子の葬儀で思わず“フランチェスカの再来”に手を上げた事が原因で、自分はスマラクト公爵家を勘当される事が決定した。
ペルレ王朝設立から王家と深い関係にあった公爵家でも、これほどの醜聞は庇いきれなかったらしい。
さらには、グラナート伯爵にも殺人の嫌疑が掛けられており、蟄居を命じられたと聞く。
これからは、グリンマー侯爵のような、新しい家系が台頭するのだろう。
王太子亡き今、ザフィーア公爵を擁立する勢力が出てくるかもしれない――とヘンリーは考えたが、もう、どうでもいい事だった。
彼の気掛かりは、エリザベスの未来だけ。
彼女は社交界に残ることは叶わず、修道院へ行く事が決まったらしい。
ヘンリーは王都から離れた領地へ向かうよう命じられた。
その地の修道院で奉仕活動を行った後、身の振り方を決める予定だ。
出発の前日、エリザベスに一目会いたくて、馬車を出してもらった。
いつか、エリザベスを迎えに行けたら――浅ましくも、そんな希望に縋りついていた。
物陰から見たのは、赤毛の使用人を連れたエリザベスの姿。
彼女は“フランチェスカの再来”と向かい合っていた。
男は手を取り、そして、エリザベスの指に口付ける。
その光景が、色褪せて見えた。
青々とした草原で、エリザベスとザフィーア公爵が踊る。
彼女達の足元には、焼け焦げた幾つかの遺骸。
それらを踏みつけながら、二人は幸せそうに微笑み合い――
馬車の振動で、ヘンリーは目を覚ます。
外を見れば、目指す修道院が近付いていた。
最後にエリザベスを見た時から、ヘンリーは同じ夢を繰り返し見ていた。
それは、絶えず彼を苛み苦しめる。
己の過ちを悔い、友の為に祈る生活も、長くはならないだろうと彼は感じている。
せめて、最後に眠りに就くときは、幸せな夢を見たい――
それだけが、ヘンリー・スマラクトの願いだった。
6/2 修正
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