妻娘(おやこ)の死
妻娘の死
菅谷は街中で美人姉妹に笑われ、仕返しに脅してやろうと、人気の無くなる所まで後を密かに付け回した。途中、姉妹ではなく新宿南署の刑事の妻と娘と知り、刑事への仕返しに目的を代え、執拗に後を追った。そして運良く相手の自宅まで辿り着いた。
家に招かれ入ってから、三十分程で菅谷は出てきた。タバコを一本銜え、火を点けた。大きく深く吸い込んで、ゆっくりと時間を掛けて吐き出した。そして玄関の扉を振り向いた菅谷は、含みのある笑いを浮かべて多治見宅を辞去した。家に明かりは灯っているが、留守の様に静まりかえっていた。
その後菅谷は、駅までの道の途中に有った公園で、多治見が帰って来るのを待つ事にした。
「あの若い奥さんが、七時には帰ると言っていたから、そろそろ現れても良い頃だな」
そう呟くと、近くの公衆電話に入り、どこかへ電話をした。口論の末、受話器を一度置き、次に緊急ボタンを自ら押し一一0番を続けて押した。すぐさま、警察通報に繋がった。
「どうされました?」
「……」
「もしもし?緊急ですか?」
「……。あ、あの。」
「はい。どうされました?」
「……渋谷区猿楽町……の、多治見って言う家で、悲鳴が聞こえたので、電話しました。」
「悲鳴ですか?」
「……はい。玄関から男が出て行きました。その後、血を流している女の人が見えます。」
「もしもし!」
電話は切れていた。
すぐに駅前交番と、周辺をパトロールしているパトカーへ通達され、それぞれが現場へ急行した。
菅谷はパトカーが赤色灯を回しながら、目の前を通り過ぎるのを、公園のベンチから見ていた。
しばらくすると、何も知らない多治見がいそいそと歩いて来るのが見えた。菅谷はベンチから立ち上がり、多治見へと歩きだした。
「多治見さん」菅谷が背後から声を掛けた。
いきなり声を掛けられ、驚き振り向いて声の主を確かめる。
「たしか君は――。菅谷君だったかな?」
「さすが新宿南署一の敏腕刑事ですね。昔の些細な事まで良く覚えていらっしゃる」
「どうかしたのか?」
「昔の仮を返そうと思いましてね。お宅を訪ねたのですがね。」
「ウチへ?」怪訝な顔を菅谷へ向けた。
「とても綺麗な若い奥さんと、可愛いお嬢さんさんでした。」
「何かしたのか?」多治見は警戒して問う。
菅谷は問いには答えず、無言でニヤリと笑みを浮かべた。
「家内と娘に、何かしたのかと聞いている!」
声を荒げ菅谷の胸倉を掴み恫喝する。
「美味かったすよ。」
「何を!」
「特に、お嬢さんの目の前で、ダチと二人して奥さんを甚振った時が最高に興奮しましたよ。」
多治見の顔から血の気が引いてゆく。みるみるうちに蒼白になった。
「娘に手を出さなければ、自分は何でもすると言ってね。ダチのあれを口に突っ込まれながら、俺が後ろから可愛がってやった。ダチも自分の体液を飲ませてから、我慢できないって言いながら、無抵抗の奥さんを二度も強姦してましたよ。気持ち良過ぎて、二度目の途中から、喘ぎ声も出なくなって、動かなくなっちまった。それ見て、ダチは驚いて先に逃げちまった。まぁ、お陰で、ゆっくりお嬢さんとやれましたけどね。」
多治見は、慌てて自宅へ戻ろうとしたが、菅谷は多治見に抱きつき、行く手を邪魔した。
「お嬢さんさんですけどね。やる前に舌噛んじまって、苦しそうに死んで行きましたよ。処女のままでは可愛そうだと思って、動かなくなってから、一発入れてやりました。死んでもすぐならできるんですね。その一部始終を奥さんは、やられすぎて動けずに、涙を流しながら見ていましたよ。だから首絞めて楽にしてやったっす。なぁに、礼には及びませんよ。」
「貴様!」その瞬間、多治見の右拳が菅谷の左頬へ炸裂した。
「菅谷!」
「多治見さん。『人を憎まず』じゃなかったんですか?話しだけで逆上して、俺を――、未成年者を殴るなんて、警察官がすることじゃありませんよね?」
唇から血が零れ堕ちた。
「す、すまん。一度、自宅へ戻る」
「おっと。警察はそんな事させてくれませんよね。現行犯逮捕だと言って、その場で拘束されて家には戻れない。違いますかね?」
「だが――」
「俺が話したのは嘘か誠か――。だけど、生活安全課の係長が、未成年者に何か言われただけで、暴力を振るった。これは真実。」
「俺にどうしろと言うのかね?」
「とりあえず俺自首すんで、多治見さんに、渋谷中央署まで付き合ってもらいたいんすよ。」
「自首?」
「ええ。奥さんと娘さんを殺した罪で……」
「なんだと!」
「二人を殺してから、そこの公園の公衆電話で警察へ電話をして呼んだ。さっきパトカーが行ったから、もうじき、渋谷中央署の連中が来るはず。俺は自首なら素直に罪を認めるけど、捕まるのは御免だ。だから多治見さんに、一緒に付いて来て貰いたいんすよ。」
「供述で逮捕はできるぞ。」
「でも本当に死んだのが誰かは、今は判らないですよね。どうやって殺したかも。それに、僕の服には多治見さんに殴られて、たれた自分の血しか付いていない。争った形跡さえ無い。」
「渋谷中央署へ行けば、全て洗いざらい話すのだろうな。」
「勿論。多治見さんに殴られた事も含め、全て話しますよ。」
「自宅へ帰ってからでは駄目なのか?」
問うた時に、遠くから数多くのサイレンが近付いてくるのが多治見にもわかった。
「あのサイレンが全部、多治見さんの家へ行くぜ。」不敵な笑みを浮かべていた。
「菅谷、君も一緒に私の家まで来てもらえないか?家族の様子を見ないといくら私だって――、行くことはできない!」
「刑事が沢山いる所へ行けば逮捕される。それじゃ俺は自首にはならないじゃないか。自首にならないなら俺は逃げるぜ。当然あんたは、自首した自分の家族を殺した犯人を、逃がしたってことになる。マスコミがどう騒ぐか楽しみだな。」
家族の安否の確認を取るか、菅谷を渋谷中央署へ連行するか、多治見は混乱した。サイレンはどんどん近付いて来る。
「さぁどうすんだよ!さっさと決めろよ!」
「貴様!おれの家族を殺しておきながら、悪びれもせずに何て奴だ!」
「また殴るかい?別に俺はいいぜ。何度でも気が済むまで殴れよ。『仏の多治見』さんよ。」
多治見は硬く握った右手の拳を開き、携帯を手にした。渋谷中央署へ電話をし、相良を呼んでもらったが、さすがに夜勤明けで帰宅した。と電話に出た署員から言われたが、刑事課へ電話を廻して貰い、まだ残っていた刑事課長が電話口に出てくれた。
多治見は帰宅途中で、菅谷と言う青年に声をかけられ、自分の家に押し入り、家内と娘を仲間と共に襲い殺害した。と言っていると告げた。刑事課長は、事件の一報を匿名の電話が入ったと聞いており、真意の確認の為に、数人の部下と鑑識を手配し、現場へ向かわせていると返事をした。
多治見は自宅へ行って事を確認したいが、犯人と思しき者が自首を希望していることもあり、家族の事は心配だが、犯人を逃す訳にも行かず、バス通りからタクシーを拾い、渋谷中央署へ連れて行くと告げ、家族の安否の確認を頼み電話を切った。
「早く行こうぜ。俺の気が変わらないうちに着かないと、逃げちゃうよ。」
菅谷はニヤニヤ笑いながら、多治見を挑発している。その言葉や態度に多治見は違和感を覚えた。(こいつは、わざと俺を怒らせようとしているのではないのか?)と自問し、(これ以上手を出したら、俺の負けだ)と自答した。
「逃がすわけが無いだろ。自供した時点で、君は殺人の容疑者になったのだからな。」
「ふふふ。二人とも良い女だったな。殺して惜しい事したかな。」
「貴様。署に着くまで何も言うな。いくら俺でも、誰も見ていなければ、貴様を殺さないと言う保証はないからな。」
多治見の形相が、菅谷を本気で怯えさせた。菅谷が怯えた事は、子供の頃に父親と姉から暴力を受け始めた時以来の事で、菅谷自身が忘れていた感情であった。それから渋谷中央署に着くまでの間、菅谷は多治見の形相で怯えた事を悔やんでいるのか、あるいは他に企みがあるのか定かではないが、右手の親指の爪を噛み、時折タクシーの床を力一杯蹴ったり「クソが!」と短く怒鳴ったりした。その度に、運転手に聞こえないほどの小声で「死にたいのか?」と多治見が呟くと、菅谷はさらに怯えて黙った。
二人は同じタクシーに乗り、同じ時間を共用していても、窓から見える窓外の風景は違ったものが見えていた。多治見は、妻と娘の携帯へ電話をした。どちらも、呼び出し音が続いたのちに伝言サービスへとなり、二人の声を聞くことはできなかった。多治見は携帯を両手で握り「どうか、無事でいてくれ!」と心の中で何度も叫んでいた。
十九時を少し回った時刻に、多治見と菅谷が乗ったタクシーは、渋谷中央署の入口着いた。菅谷を連れて降りた多治見は、渋谷中央署の中へ一人で入って行く、菅谷を入口の脇で見送った。署に入った菅谷は、入口の一番手前にいた警察官へ、猿楽町の多治見家での殺人で、自首して来た旨を伝え、身柄を確保された。これで形式上、菅谷の自首が成立したことになった。菅谷の自首の成立を確認した多治見は、急ぎ自宅へ戻ろうとしたが、その時、刑事課の課長から「家族の死」を確認したと電話が入った。
多治見は菅谷を自首などさせずに、この手で妻と娘への恨みを晴らすべきであったと、自首をさせた事に対して、後悔の念に囚われている自分に気が付いた。今まで『仏の多治見』と呼ばれる事でいい気になり、家族を失い、初めて遺族の気持ちと憤りを知り、自分がしてきた事は、単に自己満足に過ぎなかったと思い知らされた。
多治見の家族の遺体は、渋谷中央署の監察医をしている病院へ搬送されると聞き、渋谷中央署の刑事課で待機することになった。刑事課の住人の殆どが、多治見の家へ行っているらしく、刑事部屋は閑散としている。多治見はカウンター脇に有る応接セットに体を預け、深い溜息を吐いた。
家族の基へ早く行かせたいと思いながらも、菅谷の自供の裏を取るべく、留守番の刑事課長の泉は、多治見にコーヒーを淹れて持ってきて、形式的に悔やみの言葉を言った。
「多治見警部補、心痛のところ申し訳ないが、菅谷の自供の裏を取りたいので、協力をお願いしたいのだが……」と続けた。
事件の度、遺族や被害者の気持ちを二の次にして、多治見自身が言っていた言葉であった。
「はい。自分が菅谷から聞いた事は、全てお話しいたします。」
「助かるよ。部下達が帰ってきたら、できる限り早く休ませてやりたい。君は知らないと思うが……、今我々は、若者二人の行方不明事件と今朝起こった傷害事件を追いかけていてな、部下達を休めさせてやれずにいる。そこへ来て、今回の君の家族への殺人事件が起きて、君には悪いが頭を悩ませていたところだ。」
これも部下の健康を按じて、多治見が良く使う言葉であったが、聞く方からすれば、何と不快な言葉だったのかと反省しながら、「お手数をおかけいたします。宜しくお願いいたします。」と泉の言葉に返事をした。
「では、始めさせてもらうよ。まずは、君が菅谷に会った時間と場所を教えて欲しい。」
「ここを五時半に出て帰宅途中の六時一五分頃に、自宅近くの公園で、菅谷が自分に『多治見さんですよね』と言って声を掛けてきました。」
「と言う事は、菅谷は君の事を知っていた。となるが、接点はあるのかね。」
「はい。昔――、三年ほど前になりますが、歌舞伎町でカツアゲをしようとしていた所を見付け、止めさせて訊いたところ、電車賃が無いとの事でしたので、五百円を渡し山手線へ乗り込むまで見届けました。」
泉から貰った紙コップのコーヒーを両手で持ち、ゆらゆらと登る湯気を漠然と見ながら、課長とのやり取りをしていた。
「では公園では、菅谷からどのような話を聞いたのかね。」
コーヒーの湯気から目を離すことなく、多治見は公園で菅谷から聞いたことを、一つ一つ丁寧に思い出しながら、泉へ静かに話し始めた。家族が菅谷とその仲間に暴行を受けた話しになった時、多治見は持っていた紙コップを両手で握り締めた。当然、手や袖はもちろんの事、床や応接セットのテーブルまでが、溢れ出たコーヒーで汚れたが、当の多治見は気付いていないのか、その両手で顔を覆い泣いた。
多治見をそっと一人にして、泉は雑巾とタオルを取りに給湯室へ行き、それらを持って戻ってきても、 多治見は顔を覆ったままでいた。
「辛いのは良くわかるが、もう少し付き合ってもらえるか。」
また多治見も使う言葉が出てきた。
今まで相手の事を第一に思い、言葉を選んで被害者や遺族と向き合ってきたつもりでいたが、実際に自分がその立場になってみると、こちらの気持ちや感情など、ぜんぜん気にしていなかったのだと痛感した。しかし多治見が現場復帰したのなら、事の成り行きで、多治見が泉から言われた今までの言葉を、そのまま使ってしまうのだろうと、頭の片隅で思った。
「君の話からすると、菅谷の他にも何人かの共犯者がいた事になるが、そいつらの情報は聞き出してはいないのだな。」
「はい。申し訳ございません。家族の安否ばかりが気になっていたところへ、自首をさせなければ逃げるなどと言われておりまして――。とにかく、菅谷をここへ連れて来たら自宅へ戻るつもりでおりましたし、菅谷は私を怒らせて暴力をふるわせるように企んでいた節も有り、二人きりでの会話は、その後不利な事になりそうでしたので、敢えてそれ以上は聞けませんでした。」
「わざと怒らせる?君は菅谷に対して手をだしたのか?」
「すみません。家族を陵辱されて、耐え切れず一度殴りました。」
「温厚で、『仏の多治見』とまで呼ばれている君が、手を出したと言うことは、よっぽどの事を言われたと思うが……。菅谷自身が未成年の上、自首をする前に、君へ詫びるつもりで君の帰りを待って自供した者へ、言葉だけで怒り、手を出したとなると――。厄介な事に成らなければいいが。」
「申し訳ございません。ご迷惑をおかけいたします。」
「うむ。後はこちらで菅谷の調書を取って起訴をする。君は家族が待っている病院へ行ってくれ。今、警ら課へパトカーを用意するように連絡する。」
「ありがとうございます。」
時計を見ると既に二十三時を五分程過ぎていた。泉がデスクへ戻り内線をしようとした時、刑事課に男が一人やってきた。
「私は、菅谷さんの知人で、弁護士をしている白木と申します。菅谷さんの事件担当の方にお会いしたいのですが。」
「私は刑事課課長の泉です。私がお話を伺いましょう。」
刑事課長は当事者である多治見へ目配せをして、別の場所で待機するよう指示をした。多治見は、自販機の有る休憩スペースへ移動して、そこのベンチに腰を下ろした。
(いつになったら、美佐江と奈美の所へ行けるのか――。)
携帯を開くと、多治見に二人が笑顔を向けていた。




