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SABAKI 第一部 勃焉  作者: 吉幸 晶
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殺意を生んだ笑顔


殺意を生んだ笑顔



「ねぇお母さん、これなんか似合うんじゃない?」

「そぉかしら。ちょっと派手じゃない?」

「そんなこと無いよ。お母さんに似合った色と形だよ。」

「でもちょっと……。やっぱり派手よ。」

「良いから、絶対似合うから。一度着てみよ」

「奈美がそこまで言うのなら……。着てみようかな?」

「はいはい。バッグ持っているから、早く着て。」

 渋谷の109近くのブティックで、親子が楽しそうにペアルックを探していた。母親は娘に勧められて、フィッティングルームへワンピースを手に入っていった。


「お母さんどう?」

 母親はカーテンを少し開き、顔だけを出した。

「やっぱり私には派手みたいよ。」

「そんな事どうでもいいから、出てきて見せてよ」

 気弱な母の態度に業を煮やし、娘はカーテンを一気に開けた。そこには、薄いピンク地に、黄色と若葉色、薄目の赤い小さな花柄がプリントされたワンピースを着ている母が立っていた。

「ほら。私が言った通り、お母さんにとっても似合っているわよ。」

「そうかな……可笑しく無い?」

「全然」

「私も色違いのワンピにすれば、お母さんとお揃いね。」

「お父さんが何て言うかしら……」

「お父さんだって絶対似合うって言うわよ!それに、『デートにでも誘おうかな』なんて言うかもね」

「ばっ、バカなこと言わないでよ。親をからかうなんて……。」

「お客様、お嬢様がおっしゃる通りで、大変お似合いですよ。」

 親子の賑わいに店員がやってきた。

「ほら。店員さんだって言っているでしょ。だから絶対これが良いって!」

「そうかな……。この()が、お揃いの服が良いなんて言い出すので着てみたけど……。可笑しくありません?」

「とてもお似合いですわ。今、親娘ファッションが流行ってますものね。でも私は、あまりお勧めはしていないのですよ。」

「どうしてですか?」

 母親が心配になって聞いた。

「本当のところ、大体のお客様は年齢と体系から無理だと思っていても、お客様が気に入って、お求めいただいていますので、お断りする事もできませんし。そう言う時は、仕事と割り切ってお買い上げいただいております。」

「私達も……」

 不安げに母親が娘の顔を見ながら言った。

「それは違います。お客様とお嬢様でしたら、是非着ていただきたいです。」

 店員は慌てることもなく、慣れた口調で親子へファッションのアドバイスを始めた。

「特に色違いには拘らない方がいいですね。同じ色のワンピにムートン系のハーフコートと、下は紺のデニムでブーツインがお勧めですね。嫌味が感じられない、本当の姉妹のように見えると思いますわ。」

「実は来週の金曜日が高校の創立記念日で、その日に、父がディズニーランドへ連れていってくれると約束したんです。」

「いいわねぇ。その時用の服をお探しに?」

「はい。今日は土曜日の球技大会の代休なので、買うなら今日しかないと思って出てきたのに、お母さんったら、ババ臭い服ばかり選ぶから、友達に聞いていたこの店に、引っ張ってきたんです。」

「それは、ありがとうございます。」

 店員は明るく丁寧に、二人へ挨拶とお礼を言った。

「お母さん。それで決まりよ!」

「本当に良いのかしら……。」

「大丈夫です。もっと、ご自分に自信を持たれた方が良いと思いますわ。必ず、『自信』がお客様の美しさを、一層引き立たせると思いますよ。」

「そう言う事よ、お母さん。もっと自信持って、お父さんを驚ろかさせちゃおうよ!」

「またぁ、奈美はそんなこと言って――。良いわ、これに決めちゃお!奈美も着てごらんなさい。」

「それより、コートやブーツなんかもコーディネイトしてもらおうよ」

「どうせお父さんのお小遣いで買っちゃうんでしょ」

「そうね。服を上から下までまとめて買うなんて、結婚してから初めての経験だわ。」

「ありがとうございます。それでは、このワンピに似合う、パンツとブーツにコートで、機能性と保温性と女性らしさを生かせる、コーディネイトをさせていただきます。」

「うーんと、ゴージャスにお願いします。」

「もう。奈美ったら、調子に乗って」

「だって、もう一度お父さんに、お母さんへプロポーズさせて見たいもの」

 親子は満面な笑みを浮かべていた。普通であればショーウインドウには、仲の良い親子が楽しげに買い物をしていると映るはずなのだが、たまたま通りかかった、一人の男には違った映像として受け取られた。



 菅谷(すがや)一樹(かずき)は、騒音と振動で目が覚めた。目覚し時計を見ると、デジタルの数字は十時十五分を表示していた。

「ったく。うるせぇ!」

 菅谷は窓を開け大声で騒音源を怒鳴りつけた。しかし騒音は止むわけでもなく、菅谷が怒鳴ったことで、他の休んでいた機械もそれが合図になったのか一斉に動き出した。当然のことながら、騒音と振動は五割増になった。

 先月から菅谷が住むアパートの隣では、マンション建設が始まっていた。住民は日照権や住人が増えることによる生活道の自動車等による混雑と騒音などから、マンションの建設反対運動を起こしていた。

 それでも建設側は、国や都からの承認が取れていることを御旗に掲げ、三月完成を目指して工事を急ピッチで進めていた。朝は九時丁度に建設機械が動き始め夕方六時まで、昼休み以外は、常に騒音と振動を撒き散らしていた。

 それでも一昨日までは、騒音と振動は極微かで眠りを邪魔される事は然程無かったが、昨日から工事内容が変わったのか、激しくなっていた。

 朝の目覚めの悪さに不機嫌を隠せない菅谷は、バックへ適当に身の回りの物を入れ、朝食も摂らずに外へ出た。


 まず菅谷は、アパートを管理している不動産屋へ出向いた。

「あの悪劣な環境は、人様が暮らせるには値しない。だから工事が終わる三月までの家賃は、管理責任不行届きのお前等が持つべきだ。文句はねぇよな!」

「しかしそう言われましても……」

「うるせぇ!とりあえず暫くは留守にするが、無断で俺の部屋の中へ入ったり、荷物を持っていたりすんじゃねぇぞ!もし入ったとわかったら、この店がどうなったって責任負ねぇからな!」

 不動産屋の老夫婦へ一方的に言いたい放題言って脅し店を出ると、店の前の細い路地を抜け、バス通りを桜新町の駅へ向け歩きだした。

 駅までの途中にあるコンビニでカツサンドと缶コーヒーのホットを買い、渋谷へ向かうバスに乗った。


 出勤時間を当に過ぎたこの時間帯では、乗客は疎らで良いのだろうが、一般的なマナーから考えれば、通勤の満員電車の中で、化粧をしたり食事を摂ったりなどの行動は避けて当たり前の筈。しかし今の若者達には、日常茶飯事のことで、注意する人はすでにいなくなっている。バスもまた同じことなのであろう、運転手に注意されるわけでもなく、菅谷は先程買ったカツサンドとコーヒーでかなり遅い朝食を摂った。

 本来、桜新町から渋谷に出るのであれば、十分弱で行ける東急田園都市線に乗るのだが、菅谷は移動中に、これから暫くの間、泊まる先を探さなければならなかった。従って東急田園都市線の地下鉄を避けバスを選んだ。

 朝食を済ませバスが三軒茶屋を過ぎた辺りから、携帯で電話をし始めた。

「俺だ。菅谷だ。悪いがしばらくお前のところへ泊めさせてくれないか?」

 バスのなかでの通話も当然マナー違反だが、菅谷は気にせず話し続けた。

「いつまでと言われても俺も困る。とりあえず工事中のマンションが完成する、来年の三月一杯ってところだな。」

 運転手が社内放送で、携帯電話のマナーを守るよう放送しても、菅谷は気にせず次々と電話をし続けた。結局、菅谷は五人目の友人で連泊可能の約束を取り付け、これから行くことを告げて電話を切った。

 渋谷駅に着きバスから降りる際に、運転手から車内での通話に対して、直接注意を受けた菅谷は、瞬時に切れた。運転手の胸倉を掴み自分の方へ引き付けて「何か言ったか!」と怒鳴り散らした。

 運転手も車内に残っていた乗客も、菅谷の豹変に怯えた。

「ばぁさん。俺のバス代払ってくれんのかい?助かるね。」

 菅谷の後ろにいた中年の女性を睨み付けた。女性は恐怖から「はい」と返事をし、小銭を運賃ケースの中へ入れた。

「このご既得なおばさんが、俺の分を払ってくれたから、俺は行くぜ」

 そう言って運転手を突き放しバスから降りた。


(――さてと。時間まで何すっか)

 菅谷は行く当ても無く、渋谷駅前のスクランブル交差点を渡り、109へ向けて歩きだした。平日とは言え、昼近い道玄坂は人通りが多く賑わっている。時間潰しに何をするか考えて歩いていると、歩道のタイルの段差につま先が引っかかって、片足で二三歩ケンケンした後に勢い良く前に倒れた。

 倒れた拍子に持っていたバックも前方に放り出された。

「くそ!」短く吐き出し、落としたバックを拾って立ち上がり、何気なく周りを見た。

 道路の向こう側にあるブティックのウインドウの奥で、こっちを見て笑っている二人の女が目に入った。

「あの女共。今、俺を笑いやがったな!」

 菅谷はブティックへ行き、自分を笑った事を後悔させてやろうと考えたが、人で賑わっている繁華街の真っ只中では、さすがに目立ち過ぎる。暇潰しに、二人が人気の少ない所へ行くまで付き合う事にして、目の前にある喫茶店へ入ると、マスターと思われる男へ「ブレンド」と一言告げ、ブティックの出入り口が見える窓際の席に陣取った。

(人気の無いところへ行ったが最後だ。俺を笑った事を後悔させてから、ゆっくり甚振(いたぶ)って――。そうだ、奴ら呼んで廻すのも面白そうだな……)

 菅谷はそんな事を考えていた。そこへマスターがコーヒーを運んできた。

「まだモーニングの時間内ですので、こちらはサービスです。」

 目を窓の向こうのブティックからテーブルへ移し見ると、レーズンの入った小振りなバターロールが二個と、注文したコーヒーが置いてあった。

「いつでも良いぜ――。今日は時間があるから、何処までも付き合ってやるよ。」

 ブティックの入口を見ながら、ブラックのままコーヒーに口を付けた。


 二人は各々大きな袋を持って店から出てきた。心は買ったばかりの洋服を着て出掛けることへの思いで、手にしている袋より遥かに膨らんでいる。

 笑顔が絶えず話も途切れることなく、二人は渋谷駅方面へ歩き始めた。菅谷も店から出てきた二人を見て席を立った。支払いを済ませ喫茶店を出て、道路を挟んだ状態で二人と同様に、渋谷駅方向へ歩き始めた。

 菅谷は二人に着かず離れず微妙な距離を保ち、人気の無くなる所まで付けるつもりであった。

 二人の後を付けながら、菅谷は女の観察をした。年上の方は清楚な美形で、ダークブラウンのストレートの長い髪を、ポニーテールにしているせいか、色白な顔が良く映えていた。もう一人は、体型は似ているがボブが似合った女子大生風で、美形と言うよりは可愛い顔立ちで、明るく活発な感じがした。菅谷はどちらも捨てがたい、美人姉妹と勝手に思い込んでいた。


 二人は渋谷駅まで来ると、JRのガードを潜り、宮益坂の真中辺りにある、オムレツの専門店へ昼食を摂りに入って行った。

 菅谷はバスの中で食べたカツサンドと、さっきの喫茶店で出てきたロールパンを食べて、昼食を摂る気にもならず「昼メシならちっとは眼を離しても大丈夫か……」とつぶやき、寒さを凌げるレストランのビルの隣にある郵便局へ入った。

 郵便局に入ると、長椅子の空いているところに腰を下ろし、椅子の横に置いてあった雑誌を読み始めた。


 二人がレストランから出てきたところを見逃さないように、雑誌と外へ交互に目をやりながら時間を潰した。一時間ほど経ったとき、レストランから大きな紙袋がふたつ出てきたのが見えた。

 菅谷のいる郵便局の中では、何を話しているかは聞こえないが、雰囲気から見ると美味しいランチだったと窺えた。

 年上の女が腕時計を見て、若い方へ声を掛け、宮益坂を下り始めた。渋谷駅を右手に見ながら、歩道橋で国道二四六号線を渡った。

 その先には警察署が在る。まさか付けているのがばれたのかと焦った菅谷は、今までの二人との距離を、倍に取り尾行を続けた。

 二人は渋谷中央署の前まで来ると、入口にある階段の所で止まり、誰かと待ち合わせをしている様子で辺りを見回している。年上の女が大きな袋を階段の端に置き携帯を取り出した。通話時間は短かった。切ったのとほぼ同時に一人の男が駆け寄って来た。

「パパ!」

 年の若い方が男へ手を振りながら呼んだ。

「ご免。待たせたかな?」

「私達も今来たところです。」

 渋谷中央署から少し離れた歩道橋の上で、二人を見ていた菅谷は走って来た男の顔を見て、それが誰かを思い出した。

「あいつは確か新宿南署の多治見って言ったな……。こいつは面白い。刑事の娘二人だったとは……。楽しみ甲斐が有るってことだ。」

 菅谷は刑事の家族であろうが、目を付けた獲物を諦めるような神経を持ち合わせてはいない。むしろ多治見には、以前歌舞伎町で遊ぶ金を調達している時に邪魔された恨みが蘇った。その時菅谷は、遊び過ぎて電車賃が無かったと嘘を吐いた。多治見は渋谷までのJRの切符とバス代だと五百円を渡し、菅谷を強制的に山手線へ乗せた。外から見れば良い話しなのだろうが、菅谷から言わせれば、金は奪う物でしかなく。強引に渡された施しなどは、侮辱以外の何者でもなかった。何時かし返しをしてやる。とその時は思ったが、渋谷を根城にしている菅谷は、それ以降新宿へ行かなくなり、忘れかけていた。しかし多治見をみた瞬間に、仔細を思い出し恨みが再燃した。まさに千載一遇の、めったにお目にかかれないシュチエーションに、菅谷は興奮を抑えきれなかった。


 自分が後を付けていることを察知して、渋谷中央署へ来た訳ではないと判ると、菅谷はゆっくりと移動を始めた。ゆっくりと目立たないように、多治見達のいる階段の逆側まで来て、物陰に身を潜め聞き耳を立てた。

「買い物はどうだった?良い物が見付ったかい?」

「うん。パパが見たらきっと驚くよ。」

「まさか、セクシーな危ない、服じゃないだろうね。」

「私は結構大人びて見えるかな?でもママは店員さんにも褒められるほど着こなしていて、パパなんかイチコロよ」

「おいおい刑事の娘が、警察署の前で物騒な物言いは駄目だよ。」

 お説教口調ではあったが、顔は綻んで言葉には温かみが混じっていた。

「あれが嫁さんだって!多治見(あいつ)自身が犯罪者じゃないのか?」

 そんな話しを聞いていた菅谷は、多治見の妻に対して、一層好奇心が沸き、多治見へは嫉妬がふつふつと湧いてきた。


「僕はこれから、会合があるから行くけど、気を付けて帰るようにね。」

「ありがとう。お帰りは遅くなりますか?」

「いいや、定刻には終わる筈だから、新宿から帰るより近い分、早く帰宅できると思うよ」

「わかりました。貴方も気を付けてね。」

「うん。」

「じゃぁねパパ。クリームシチュー作って待ってるね。」

「美佐江と奈美の合作かい?楽しみにして帰るよ。」



 無趣味だった多治見は、三十一歳の時に油絵を習い始めた。そこの教室に通っていた美佐江が、外見も中身もやさしく暖かな多治見に惹かれ、美佐江が食事へ誘ったのが、二人が付き合う切っ掛けであった。

 最初は歳が違い過ぎると、多治見は相手にしていなかったが、美佐江の情熱に押され、付き合いだして一年後に、多治見は一回りも年の離れた美佐江と結婚した。



 多治見は大きな袋が二つ、歩道橋を登って行くのを渋谷中央署の入口の前で見ていた。

 歩道橋を登り切った所で、娘が振り向き大きく手を振った。つられて多治見も多きく手を振って返したが、年甲斐も無く無邪気に手を振った自分に気付き、慌てて周りを見た。すぐ後ろで立哨をしている警察官二人と目が合った。多治見は恥ずかしさと伐の悪さから、素早く敬礼をして、二人の警察官の間を通って署内へ入った。

 多治見が通り過ぎたあと、笑いを堪えていた二人の警察官は「面白い物を見た」とばかりに噴出したが、お互いに立哨勤務をしている時に不謹慎だと思ったのか、すぐに真顔に戻った。


 親子を見ていたもうひとつの影も、多治見が署内に消えたのを確認し動き出した。開いた距離を詰めるべく急ぎ足で歩道橋を登った時に、獲物の親子は歩道橋を渡り終え、渋谷駅へ向かって、楽しげに話しながら歩いて行くのが見えた。

 この距離で駅構内に入られると見失う恐れがある、菅谷は歩道橋の階段をひとつ飛ばしで降り、JRのガード下で親子のすぐ後ろまで距離を詰めた。


 親子は駅前の交番の前を通り、東急東横線に乗るつもりらしく駅ビルに入って階段を登って行く。菅谷も親子のすぐ後に付いて行った。改札まで来ると娘はカードを自動改札の読取部に晒し先に中へ入っていったが、改札を過ぎた所で、券売機で切符を買っている母親を待った。三人が改札を通りホームに入った時には、既に電車はホームに停まっていて、発車時刻待ちであった。

「調度良かったわね。」

「うん。ラッキーだね。」

 すぐ後ろを歩いていた菅谷にも、親子の話しが聞こえ「俺もね」とニヤリと薄笑いを浮かべ、親子へは聞こえないよう小さな声で返した。


 親子が電車に乗り込み大きな袋を膝に乗せ、並んでシートに腰掛けたのを確認してから、菅谷はわざと一輌ずらし親子を確認できる位置のシートに座った。さほど待つことなく電車は横浜を目指し、親子の楽しみを絶望に変える野獣を乗せ、渋谷駅を発車した。


 親子は渋谷の隣の代官山駅で下車した。たった一区間しか乗らないとは思わず油断していた菅谷は、親子の降りる仕草を見落とした。

 ドアが閉まる寸前で慌てて車外へ飛び出し、ドアに挟まり掛けた。そばにいた乗客等は、テレビのコントでも観無いような行動を目の当りにして苦笑した。

「また笑われた。あの親子が勝手に降りるから……。俺が笑われた。」などと、とんだ勘違いの逆恨みを膨らませ、ホームを出口へ向かい歩いて行く親子の後ろ姿を睨んだ。


 親子は菅谷の尾行に気付かず、ホーム中央付近にある階段に差し掛かったていた。

「ねぇお母さん。私ねここの階段って普段でも段数が多いと思っているの、今日のこの荷物を持って登るのは大変だと思うんだけど」

「エレベータは駄目よ。健康のためには階段の上り下りが良いの」

「私は若いから平気だけど、お母さんが大変だと思って言っているのに」

「あらそう?ママは奈美ちゃんが、乗りたがっているように聞こえたわよ。」

「失礼な。私だって平気です。」

 そう言って、娘は階段を登り始めた。


 母親は目の前の大きな袋が右へ左へと揺れて登って行くのを見ながら、いつも通りのゆっくりな歩調で娘の後を付いて登った。

「ついでに夕飯の買い物も済ませて帰りましょうね。」

 改札を出て母親が娘へ話しかけた。

「えっ。夕飯の買い物って、買い置きとか有るんじゃないの?」

「いつもならね。今夜はとんかつにするつもりだったのに、奈美ちゃんがお父さんにクリームチシューだなんて、家に無いもの言うから」

「だってぇ。お父さん大好きだし、私ができる料理っていったら……」

「レパートリーを増やす良い機会よね。お父さんには悪いけど、とんかつにしようか」

「だめよ!今日はクリームシチューって決めたんだから。私が作るからお母さんはテレビでも観ていて良いわよ」

「ありがとう。でもお父さんは、私と奈美ちゃんの合作と言っていたから私も作るわよ。」

 母親の言葉に歯切れが悪かった。

「じゃ、買い物しましょう」

 何か吹っ切れたのか、諦めたのか分からないが、母親がヤケ気味に言い、親子は駅から少し離れた所にあるスーパーへ入った。

「家には何が有るの?」

「うーん。シチューの材料になりそうな物は、ほとんど無いに近いわね。ジャガイモとタマネギ、ニンジンは必要ね。後はブロッコリーと鶏肉、そうそうサラダ用のレタスとキュウリも買わなくちゃ」

「この袋を持って買い物はちょっと辛いかも……」 

 母親のリストアップした物を想像した娘が、洋服とブーツが入った大きな袋を恨めしそうに見た。

「奈美ちゃんはここで荷物番していてくれれば、私が買ってくるわよ」

 母親は入り口脇の休憩所を差して言った。

「今日は逆ね。私が買ってくるからママが番をしていて。そのまま、家まで持って行ってくれると嬉しいんだけどな」

「奈美ちゃん甘いわよ。自分の物は自分で持つのがウチ流じゃなかったかな?」

「そうね。良い物買って貰った事だし、今日は頑張るわ!」

 母親が娘から大きな袋を預かり、ふたつの袋を入り口脇の休憩所のベンチに置いた。

「じゃ行って来るね」

「奈美ちゃん、お財布の中身と相談して、良い物を選んで買ってきてね。」

 母親が財布を渡しながら妙な事を言ったので、奈美は首を傾げて渡された財布を摘んで目の高さに持ち上げてみた。

「お財布の中……。ほとんど無いから」

 恥ずかしそうに付け加えた。

「えっ!」

 奈美は財布を開けて中を見た。千円札が2枚と10円玉が少し入っていた。

「今日は買い物だけじゃなくて、お昼も奮発しちゃって、散財に継ぐ散財……で」

「うん、分かったわ。ジャガイモと玉ねぎとニンジンだけのシチュー。後は私とお母さんの愛情でカバーってことで、お父さんには許してもらおう!」

 母親は調子に乗って、家計を省みなかった事への反省と、娘から言われた「愛情でカバー」と言う恥ずかしい言葉で、色白な顔を赤くし右手の人差し指で「しー」を奈美にした。

「じゃ行ってくるね。」

 奈美が「しー」につられたのか、小声で母に言い、笑顔で店内用のカゴを手にして、レジを越え売り場の方へ消えた。

 休憩所に残った母親は、ベンチに腰掛けため息を()いた。シチューに肉が入らない状況にしてしまった、今日の散財を改めて反省して主人に心の中で詫びた。

 頭に優しくにこやかに笑う、夫の顔が浮かんで見えた。美佐江は「ごめんなさい」と今度は小声で詫びた。


 美佐江は中々戻らない奈美を心配し始めていた。背伸びをして店の奥を覗いて見たが、奈美の姿は見えなかった。荷物を気にしつつ、一歩また一歩と荷物から離れてはレジの向こうを見るがやはり見えない。

 左腕に着けた腕時計を見ると、三十分近く時間が経っている。美佐江は携帯を取り出して奈美へ電話してみた。奈美がお気に入りのグループの軽快な歌が流れている。途中で奈美の声と変わった。

「どうしたの?」

 店の中で気にしているのか小声で電話に出た。

「こっちが聞きたいわ。あまりに遅いから心配していたのよ」

「んもう。またメール見てないな?」

「メール?」

 美佐江は携帯を耳から離し、メールモードに切り替えて着信メールのフォルダを見た。

 奈美から新着メールが入っていた。

「あら。ごめんね。気が付かなかったわ。読んで返信するわね」

 美佐江は慌てて電話を切った。

「もう!ママったら。電話してきたんだから、電話で済ませれば良いのに!」

 奈美が切れた携帯に文句を言ったが、いつもの事ながら母親の携帯の概念には敬服し、今更文句を言ってもどうしようもないと諦め、母からのメールを待った。

 美佐江は急いで奈美から来ているメールを開けて読んだ。そこには、『お肉屋さんで4時からタイムバーゲンあり。鶏の胸肉が半額!しばしお待ちを!』と絵文字入りで書いてあった。美佐江は三分ほどかけて、『とりにくよろしく』と全文字ひらがなで書いて奈美へ返信した。


 奈美に「ママはいつも携帯を置きっ放しにするから、持っている意味が無いよ。」と良く言われる。たとえ持っている時でも、マナーモードのままバッグの奥深くにしまうから、一方通行の連絡となり奈美だけでは無く、多治見からも時々注意をされていた。

「また、やっちゃったな。」

 奈美へ返信した後、美佐江は携帯をしみじみと見て言った。


 四時になり店中に『タイムバーゲン』の放送が入った。軍艦マーチではないが、派手で賑やかな音楽に合わせバーゲン品の名前と値引き額やサービスの内容を音量一杯にした早口言葉が、何かの呪文をかけているかのように聴こえてきた。

 店の中では、今までゆっくりと買い物をしていた客が、放送に合わせ右や左に入り混じり、ちょっとしたお祭り騒ぎの様相を見せている。美佐江は一人、その人の波から逃れ安全地帯に避難しているが、心中は奈美が大丈夫か心配でならない。さっきと同じように、爪先立ちで店の奥の方を覗こうとするが、さっきは見えていたレジすら今は確認ができなかった。


 美佐江は奈美の所へ向かうべく、大きな二つの紙袋を両手に持ち、心の準備に入ったところへ、奈美が右手に店の買い物袋二つを持って満面の笑みを浮かべ出てきた。

「どうしたのママ?」

「奈美ちゃんを助けようと思って、準備していたのよ。」

「ありがとう。でも大丈夫。『とりにく』も無事ゲットできたし。急いで帰ってクリームシチューを作ろうね。」

 笑顔で奈美は言ったが、まだ店の中は多くの客が動いている。美佐江は、奈美がよくあの中で鶏肉を買えたものだと、正直驚いていた。

「よく買えたわね」

「だって、私がバーゲンで欲しかったのは鶏肉だけだったから、お肉屋さんのショーケースの傍で、バーゲンが始まるまで待っていたの。だから一番乗りで買えたのよ。作戦勝ちってこと!」と左腕でガッツポーズを作り美佐江へ見せた。


 菅谷は二人が大きな紙袋に買い物袋が増えて、スーパーから出てきたところを確認した。

 親子は代官山駅から北へ向かい、環状八号線を越えしばらく歩いた。やがてT字路にぶつかるとそれを右に折れた。一見、袋小路に思えたが、入り組んだ路地を進んで行くと先に広い道が見えた。その数件前が多治見の家らしく、親子が鉄製で少し錆び付いた門扉を開け入って行った。



 手袋をしてインターフォンを押した。

「どちら様でしょうか?」少し間があり返事が返ってきた。

「あの西井といいます。ひょっとしてこちらは、新宿南署生活安全課の多治見さんのお宅ではございませんか?」

「そうですが?主人とはどちらで?」

「先月、歌舞伎町で不良に絡まれているところを助けていただきました。今日はこの近くで、たまたま用事があったもので、その時のお礼をと思い窺わせていただきました。」

「生憎主人はまだ仕事で出ていまして、帰りは七時近くになると申しておりました。」

「そうですか……。実は私、就職が決まりまして、明日会社の有る北海道へ引越しするので今日しか時間がないのです――。では多治見さんが戻られるまで、ここで待たせていただきます。お許しをいただけますか?」

 美佐江は迷った。多治見からどのような理由が有っても、初めて会う人間を家に招き入れる事は、硬く禁じられていた。

「……そう言う事でしたら。狭い所ですが、家の中でお待ちください。」

 インターフォンが切れると暫くして、菅谷を出迎えるために、母親が玄関のドアを開けた。瞬間、菅谷は母親を押し退けて体を玄関に入れた。素早く母親の口に手をやり刃物を見せて「騒ぐと殺す」と短く脅し押さえ付けた。



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