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SABAKI 第一部 勃焉  作者: 吉幸 晶
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生きている死人


生きている死人



 射水は腕時計を見た。勤続十年の褒美に、自分へ買ったロレックスは、七時三十六分を指していた。

「あと二時間か……」

 渋谷中央署刑事課で中堅所に位置する射水は、宿直勤務明けで引継ぎ完了の九時半まで、事件など起きず、無事に引き継ぎができるよう密かに祈っていた。

 今日は射水夫妻にとって、五度目の結婚記念日であった。以前から妻が観たがっていた、レ・ミゼラブルを観る予定をしていた。その後、日比谷公園内にある、フレンチレストランで少し遅めのディナーを取り、最後は小粋なバーでカクテルの祝杯をあげる。結婚以降、一度も祝えなかった記念日を、今年こそは二人だけで祝おうとしていた。


 射水は傷害事件の聞き込みをしながら、密かにチケットを買い、レストランを予約した。妻が欲しがっていたダイヤのブローチもすでに買ってある。

 サプライズな記念日を妻に喜んでもらおうと、射水は始末書を覚悟の上で、これだけのものを、時間を掛けて少しずつ用意したのであった。

「引継ぎの奴らが来ればセーフだろうから、正味一時間ってところか――。」

 ロレックスの秒針を目で追いながら、ひとり言が口を吐いた。

「ミズさんよ、昔から良く言うだろ。早く帰りたいなどと口にすると『必ず』が付くほどに、事件が起こるものだと。」

 自席でパソコンを(いじく)りながら、天気予報を見ていた、射水の上司で、宿直の相棒を務めた、警部補の相良が煙草に火を点けて横槍を入れた。


 相良は一昨年、ようやく昇級試験に受かり警部補になった。警察学校の同期生の中でも、かなり遅い昇級であった。

 相良の初めての配属先が、新宿南署の歌舞伎町交番であった事と、五年後に転勤が決まったが、現在いる渋谷中央署の刑事課勤務では、なかなか勉強どころか、実務に追われて受験する時間さえ無かった。しかし警察官になって十五年が経った二年前に、当時の刑事課課長の優しい心使いの命令で、二ヶ月間の内勤となった。勉強する時間ができた相良は、その甲斐があり、遅まきながら警部補の肩書きを、何とか取る事ができた。


「俺の刑事の感が、今日は大事件が起きて、夜勤明けの非常勤となると言っている――。」

 相良は舞台俳優さながらな、オーバーアクションで、ジョークのように射水を茶化したが、現場一筋で身も心も鍛え上げた相良が言うと、冗談でも本当の事のように聞こえてくる。

「相良さん。そんな物騒なこと言わないでくださいよ。」

 射水は意地悪を言う相良へ、哀願するように言い、言葉に力を込めて続けた。

「自分は結婚してからのこの五年間、結婚記念日の全てが事件発生や地取捜査、犯人逮捕とかで毎回流れてんですよ。その度にカミさんは「仕事だから仕方無いわね。」と一見、聞き分けの良い妻を演じながら、ひとつ十数万の指輪やアクセサリーなどを買って、付き合ってもらった友人と夜中まで遊んで帰宅……。仕事をしている自分は、張り込み先や自宅でカップ麺か菓子パンでは、割が合いませんよ。」

 感極まり、最後の言葉が半べそのようになった。

「お前が惚れて、口説き落とした刑事課の紅一点。俺たちの仕事を熟知しているから、浮気もせずにいてくれる。実に良い嫁さんだぜ」

 本音とも、からかいとも取れる言い方であった。

「それは判っていますよ。だから、節目の五年目位は一緒に過ごしたいと……」

「俺は結婚して十数年経つが、一度もそんなことしたことが無い。妻どころか、子供の出産や入学式とか卒業式だって、行ったことなど無いが、家族は俺の仕事だと理解してくれて、文句など言わずに俺を支えてくれているぜ」

「相良さんの家なんてどうでもいいですよ。自分は例えこの後に、渋谷駅へのテロが有ったとしても、夜勤明けの定時で帰りますから!」

「今、刑事課(うち)で追っ駆けている、二人の若者の失踪事件で、三人目の害者が出ると噂されている時に、あまり物騒な事は言わないで欲しいものだな……」

「物騒なことを言い出したのは相良さんですよ。」

不満げに射水が言ったその時、壁に掛けられたスピーカーから、事件発生の一報が知らされた。


  消防より入電!

傷害事件発生!傷害事件発生!現場は代々木公園内神園町。

被害者は男性。推定年齢二十歳前後で体中に刺し傷有り――。


「代々木公園か。射水、残念だったな」

 相良は射水へ、申し訳無さそうに言ながら煙草をもみ消した。椅子の背に掛けていた上着を鷲掴みにすると、九十キロ近い巨体を揺すりながら、外へ走り出した。

「相良さんが、あんなことを言うからじゃないですか!昼と夜の飯は、ご馳走してもらいますからね!」

 走る相良の背中へ、半分ふて腐れながら大声で言い、射水も上着を着てキーボックスから、覆面パトカーのキーを取り出し、急いで相良の後を追った。


 相良は覆面パトカーの屋根にパトライトを載せてから、助手席に乗り込んだ。射水がサイレンを鳴らし、パトカーを運転して署から現場へ向けて出動する。

「今日の観劇は、カミさんの友人が自分の代わりに済ませてくれますよ。チケットは無駄にならずに済みますね」

 覆面パトカーは首都高速を潜り、明治通りを宮下公園へ向けて走っている。

「自分は今日一日は、何があっても相良さんから離れませんので。昼は牛丼の大盛りで良いですよ。味噌汁と卵は必須ですから、忘れずにお願いします。それと、夜は居酒屋で結構です。今夜は荒れますので、自分の家までちゃんと送り届けてくださいね。」

「たかが傷害事件だろう。そんなに大騒ぎするほどのものじゃないさ。意外と行方不明の一人かもしれないしな。」

 相良がなだめたが、定時上がりが出来なくなった事でのショックから、自分の殻に閉じ篭った射水には届かなかった。


 渋谷中央署から現場までは、五分程の距離である。明治通りを神宮前で左折し、表参道に入り原宿駅の横にある参宮橋を渡る。そのまま富ヶ谷方面へ五百メートルほど行った右側の公園入口付近に、救急車が停まっているのが見えた。

「あの救急車の横へ停めよう」

「了解!」

 射水はパトカーを救急車の隣へ並べて停めた。

「俺の感は当たる!この山はすぐ片付くから、お前はカミさんと楽しんで来い!」

 相良はパトカーを降りる際に射水へ言った。

「そんな事言って、騙そうとしたって駄目っすよ!ちゃんと昼飯と晩飯は面倒見ていただきますからね!」

 先に行く相良に追いつく勢いで、射水が走りながら返した。


 現場となった代々木公園は、明治神宮や原宿、表参道に隣接する為か、都民ならず近隣県からも、大勢の人が集まる憩いの場として知られている。

 また自然が豊かな公園と、東京オリンピックの時に建てられた体育館やNHK放送センターという建造物群を、国道四十三号線、通称井の頭通りで南北に分けた形に構成された、多種多様で賑わう都心の公園である。


 その公園を、井の頭通りから五十メートルほど入った、やや原宿駅寄りのところに、人が集まりかけていた。両刑事が小走りに、まだ(まば)らな人垣に入っていくと、救急車のストレッチャーに被害者の男はすでに寝かされていた。

 二人は救急隊の話を聞きながら、被害者の状況確認を始めた。見ると救急隊が言う通り、カッターより細い針状に近い刃物で刺された小さな刺し傷が、殆どの間接を貫通していた。目や耳、喉と言った部位からもそれらしい傷痕と血痕が見られた。

「異常だな。」

 相良は顔を歪めた。

「自分が思った通り、やっぱり今日は帰れそうもないですね。僕達夫婦の記念日を邪魔するために、相良さんに備わった事件を呼び込む、特殊な能力ですよ。相良さんみたいな特殊能力を持った先輩と組めて、自分は世界一幸せな刑事です。」

 射水は再度、厭味を不満一杯に相良へぶつけた。

「くだらない事をいつまでも言っているな!被害者(がいしゃ)犯人(ホシ)の事だけに集中しろ!」

 相良は『刑事』として現場にいることを、射水へ強い口調で再認識させた。

「わかっていますよ、そんな事!自分だって一応、十年以上刑事やっていますからね。でも昼飯はゴチになりますので、そこのところは宜しくお願いします。」

「勝手にしろ。昼までに片付けたら、牛丼などと言わずに、松坂牛のステーキをたらふく食わせてやる。」

「本当ですか!ステーキと言うことであれば、自分の実力を出し切り、このヤマ片付けましょう!」

 相良は首を左右に振り、再度救急隊の話を聞いた。

「しかし、これでも生きていんですよね?手足どころか五体を動かせないし、話しも出来なければ、目も見えず耳も聴こえていない。まさに『植物人間』の状態だなんて……」

 現場に着いてから、射水がはじめてまともな事を言った。


 相良は射水の言葉を聞いて、子供の頃に観た映画を思い出していた。それは多分アメリカの戦争映画で、戦場で被弾して、両手足と目と耳に声まで失った兵士の映画であった。兵士は五感を無くしながらも、搬送された病院先で、医者や看護師へコンタクトを取ろうと、体で唯一動かせる頭を使い、モールス信号を打った。そして、こんな自分でもまだ思考力が残っていることを、周りへ伝えた。最初医者達は、それを単なる引き付け程度にしか見ていなかったが、ある医者がモールス信号だと気が付き、兵士と話ができるようになった。子供ながらに、両手足が無く、包帯で体中を巻かれた主人公の姿が、あまりにも惨く観えた。相良少年にとって、印象の強い映画であった。


「恐らく拷問を受けていたのだろうな。」

「拷問……ですか?」

「でなければ、よっぽどの恨みを晴らしたかったか……」

「恨みや拷問の他となると、愉快犯的なところも捨てられませんね。」

「そうだな。どうであれ、犯人(ほし)被害者(がいしゃ)を簡単には殺す気はなかった。と観て間違いはなさそうだ。」

「自分もそう思います。殺意が先立っていれば、もっと太い血管を切るか、心臓を一突きすれば済んだはずですから」

「確かにそうだな。」

「でもそうすると茂みの中とはいえ、何でこんなに人が集まる様な、見付け易いところへ被害者を捨てたのか。疑問ですね?」

「それも気になる問題だな。とりあえず、第一発見者へ聴いてみようじゃないか」

 相良は一応に、二人の初見と疑問点を出して区切りを着けた。


 救急隊の話で、傍にいる女性が、犬の散歩途中で見付けたと聞き、女性の記憶が薄れないうちにと、二人は父親らしき男といる若い女性へ近付いた。

「私は渋谷中央署の相良と言います。こちらは射水です。」

 相良が二人へ警察手帳を見せて軽く会釈をした。射水もそれに続き二人に挨拶をしたが、緊張した親子は頭を少し下げただけで、目は二人の刑事の顔ではなく、恐らく生まれて初めて見る警察手帳へ向けられていた。

「すみませんが、見付けられた方はお嬢さんで間違いないですか?」


 相良が親子二人を交互に見やって話しかけながら、射水へ『鑑識』を呼ぶよう目配せをした。それを受けて射水は頷き、携帯で鑑識の要請を依頼した。


「私です……。正確には犬のリズムですが……」

 二十歳位の女性は、足元に伏している犬へ視線を落とし答えた。

「まず、お名前と住所を伺いたいのですが、お応えいただけますか?」

 相良が娘へ巨体を向けて尋ねた。

「私は溝口恭子と申します。S音大の二年生で、主にピアノ演奏を習っています。この犬はリズムと言います。」

「オーストラリアン・シェパードですか」

 鑑識依頼の連絡を済ませた射水は、しゃがみ込んでリズムの頭を撫ぜながら恭子へ言った。

「刑事さんは犬に詳しいのですか」

「詳しい訳ではないですよ。実家でも飼っているので、わかるのはこの犬種と柴犬だけです。」

 元来、射水は犬好きで、相良は射水のこの口上から入る犬談義を、一晩中聞かされたことが有った。相良は射水が職務を忘れ、本格的に犬の話しに入る前に、少し早口で射水と親子の間を割って言った。

「申し訳ないですが、被害者を発見した時の事を、詳しく伺いたいのですが」

「はい」と恭子は返事をしたが、父へ救いの目を向けた。それを受けて父親が名乗った。

「私は恭子の父親で溝口良治と申します。Nテレビの企画部長をしております。」

 両刑事は「『第一発見者の身内が厄介な人物』だと、重なる不運を呪った。


 『Nテレビ』は民放でも、ニュース番組にもっとも力を入れているテレビ局であった。先月も渋谷で起きた二人の若い男の失踪事件に付いて、平日の夜十一時から放送されている、高視聴率の看板番組中に、警察の対応の悪さを取り上げ訴えていた。


 相良は今後、射水の結婚記念日とその前後を合わせた三日間は、金輪際、射水とのペアは組まないと硬く心に誓ったが、射水も密かに同じ事を願っていた。


「Nテレビの企画部長ですか……。随分とご立派なお仕事に就かれてなによりです」

 射水は渋谷中央署の対応の良さを売ろうと、お世辞を言ったつもりだったが、射水の百九十センチに近い長身から見下ろす視線と、刑事体質の高圧的な構えた態度に、若干引きつった顔と事務的な口調も加わり、親子と相良には、厭味を言っているとしか受け取れなかった。

 ひとつ咳きをして、相良が訊ねなおした。

「もう一度お聞きいたしますが、先に見付けられたのは、お嬢さんで間違いないですか?」

「はい。私とリズムで見付けました。」

「その時、溝江さんはどちらにおいででした?」

 父親に目を向け相良が聞いた。

「私は起きたところでしたので、テレビをつけて朝のニュースを観ておりました」

「朝のニュースと言うと、Nテレビの朝の看板番組ですか?確かアイドルの可愛い()が、お天気と星 座占いを担当している番組ですよね?夏はビキニ姿も披露するとか……」

「刑事さんは、そのような目で観ているのですか?あれは、朝の情報番組で、別にアイドルの娘を売りにしている番組ではないのですがね。それに私は、あの娘の起用は反対だったが、諸事情から止むを得ず使っているに過ぎない。」

 溝口良治は間髪入れず切り替えしたが、歯切れは今ひとつであった。

 射水も名誉挽回を狙ってか、妻からの受け売りを言ったのだが、恥の上塗りになって撃沈された。


 気落ちした射水とは対照的に、相良は射水の発言など無かった事のように質問を続けた。

「と言う事は、散歩はお嬢さんとリズムだけですか?」

 相良は記憶の良いところを恭子の父親に見せ、事件の初動捜査に問題が無いと思わせる為、あえて「犬」とは言わず「リズム」に(こだわ)った言い方をした。

「はい。雨が降らない限り、殆ど毎朝、決まった道を散歩しています……。今朝、以外ですが……。」

 そう言いながら恭子は父親の顔をちらっと見た。

「今日以外とは?」

 射水が相良の横からまた口を挟んだ。

「いつもですと、そこの通りを交番の方へ曲がって行くのですが、あの……今朝はちょっと冷えたもので……、トイレへ……。」

 恭子は二人の刑事を交互に見ながら、少し恥ずかしそうに答えた。

「トイレって……。あぁ、あそこのトイレですね」

 メモを取りながら、射水が後方に見える公衆トイレを指した。

「トイレ脇の木の枝に、リズムのリードを縛ったのですが、ちゃんと縛れていなかったようで、私がトイレから出てきたらリズムが見当たらなくて――。」

 その時の事を思いだしながら、丁寧に恭子は答えた。

「でもあそこのトイレから、そこの茂みの奥に横たわっていた被害者を、良く見付けられましたね?」

 射水はトイレと茂みの奥を交互に見て、疑問を口にした。

「君、まさか娘を疑っている訳ではないだろうね!」

 溝口良治は両刑事を睨みながら言った。

「まさか。そんな事はありませんよ」


 これほどまでに、射水の話術が裏目にでることなど、今までは無かった。このままツキの無い射水に任せては、何か起こりそうな気がして、『もうお前は口出しせず、メモだけを取っていろ』と言わんばかりに、射水の腕を引っ張り、相良の後方へ追い遣った。

 気を取り直して相良は、溝口良治の眼を真っ直ぐに見ながら続けた。

「我々が言いたかったのは、茂みの奥に誰かがいて、それをリズムが見付け、ここまで来たのではないのか――。と言うことです。」

 相良の脇の下に一筋の汗が流れた。

「いくら有能な犬でも、寝ていて動かない人間を、この距離で見付けるなんて事は考え難い。そうなると、あそこで動く何かがいたか、リズムの興味をそそる何かが有ったと考えるのが自然です。」

 相良は溝口良治を見て、誤解が解けた事を確認した。そして今度は恭子の目を真正面に見て、単刀直入に聞いた。

「お嬢さん、何かみていませんか?」

「……。」

 恭子はしばらく考えていたが、(おもむろ)にリードを縛った木のところまで戻り、トイレへ駆け込む際に見た景色を、一生懸命に思い出そうとしていた。

「ちらっと目をやっただけでしたので……。それに、リズムを見付けたときは、もうリズムはズボンを噛んで引っ張っていたし……。周りを見る余裕なんか全然ありませんでした。何もご協力出来なくて、本当に申し訳ございません。」

「わかりました。でも後で何か思い出す事もあると思うので、その時はこちらに連絡をください。」

 相良はそう言いながら恭子へ、自分の名刺を渡した。射水もそれに続いて出した。

「では私たちはこれで、帰らせていただいても宜しいですね?」

 溝口良治は相良へそう言うと、相良の返事も待たずに、娘を促して公園の出口へ向かって歩き始めた。

「リズム行くわよ。」

 恭子は、両刑事へ軽く会釈をして愛犬と共に、父親の後に続いた。

「本当にどんな事でもかまいません。カラスがいたとか、自転車が通ったとか――。とにかく何か思いだしたら何時(いつ)でも構いませんので、電話をください。」

 射水が恭子の横を歩きながら言ったが、先を行く父親に呼ばれ、恭子は早足で射水から離れていった。


 親子を見送り帰ってきた射水へ、今度は相良がぼやいた。

「鑑識が来ても、あれだけ現場が荒らされていたのでは、何も出てこないだろうな。」

「そうですね。犬が暴れた上に、お嬢さんまでいろいろと動いていたようですから、何か出てきたらラッキーですね。」

「あの父親もだ。恐らく茂みの中へ入って、物色した可能性は否めない。」

 二人は顔を見合わせて、鑑識が来るまで現場保存に努めながら、男の所持品と着ている服などを調べた。しかし、収穫は無く、身元がわかるような物を、見付けることはできなかった。


 人垣は徐々に増え、『Nテレビ』の中継車が木々の間から見えた。

「流石に局のお偉い方ですね。警察よりも先に連絡したようで、中継車がもう来ましたよ。」

 射水は遺留品を探しながら相良へ言った。

「遅いくらいじゃないか?大方、娘の所へ駆けつけて、自分家(じぶんち)の犬がしでかした事じゃないと判断してから、局へ電話したのだろうよ。」

 相良の読みは当たっていた。


 溝口良治は恭子の所へきてから、犬に襲われたものでは無いことを確認した上で、同期の報道部長の携帯へ電話をした。

 報道部で連絡を受けた社員も、部長自らの命令であったため、当直スタッフの殆どを連れてやってきた。現場間近のNHKの報道陣よりも、早く現場入りできNテレビ報道部の一同は安堵した。

 Nテレビは生放送中の、朝の情報番組の中での一報をと急ぎ、撮影用の機材の調整や打合せに入ったのであった。



 事件発生で、夜勤明けの捜査の上に、朝食までを摂り損ねた二人は、店が混むことも考慮して、十一時を少し回ったところで早目の昼食にした。

 聞き込みをしながら、渋谷駅付近まで戻っていた二人は、宇田川町にあるチェーン店の牛丼屋に入った。相良は射水の言う牛丼の大盛りに、卵と味噌汁に漬物までついた卵セットを注文した。相良はというと、身長百七十三センチの中背だが、八十八キロの巨漢を維持するには、射水と同じ物ではいささか量が不足していたため、メガ盛り牛丼と卵セットを注文した。それでも千円ちょっとと言う価格には、安月給の刑事は、素直に円高へ感謝をした。


 昼食を済ませ署に戻った相良と射水は、報告書の作成を始めた。さすがに射水も諦めたのか、署に戻ってからは寡黙(かもく)に報告書に没頭している。しかし、満腹と夜勤明けのせいで、射水には昼食後の報告書の作成という戦いは、かなり厳しいものがあった。睡魔に襲われ続け、眠気覚ましのコーヒーと煙草を何度も口にした。


 溝口親娘(おやこ)が帰り、Nテレビ報道部が取材を始める少し前に、鑑識がやって来た。第一報の生放送には、かろうじて鑑識の姿が現場に映り、警察の面目は保たれたが、肝心な足痕(げそこん)や血痕、遺留品の類などを捜索したものの、相良が言っていた通り、現場が荒らされ過ぎた点や、公園と言う立地的観点からも、残留物の多さで、犯人の物と特定する物を、見付ける事は出来なかった。

 また園内の聞き込みに関しても、早朝といった時間帯も関係してか、公園に住み着いているホームレスまでに及んで聞き込んだが、有力な話は取れなかった。相良はその旨を報告書として文書にする前に、課長へ口頭で報告した。

「第一発見者がNテレビの、企画部長の娘ということで注目度はかなり高い、マスコミの取り上げ方から、警察の威信をかけて、簡単にはお蔵入りなどとは出来ないぞ。」

 相良の報告を受けて、課長の泉はそう答えた。

「捜査員の増員補強をしていただければ、早い解決もありえますが……」

 相良は無理を承知で泉へ言った。

「しかしだ。傷害事件では、然程捜査員を裂けないのが現状だ。悪いが君と射水の二人だけで、後のことは頼むわ」

 相良の発言を聴こえない振りをして、人員と今後の捜査方針は決定した。相良にしてみれば、想定内のことだったが、この広大な東京の中を、たった二人で、名前も判らない被害者を調べ、犯人を探し出すなんてことを考えただけで気が遠くなった。


「俺が思っていた通りになったぜ」

 黙々と報告書を書いている射水のデスクへ戻り、相良は得意気に言った。

「捜査は相良さんと私の二人だけってことですか?」

 報告書から顔も上げず、書いている手を休めることもせずに、事務的な乾いた声で射水が答えた。

「射水もそう思っていたのか?」

「今朝から不運続きですから、そんなところだと諦めていましたよ。」

「まさか、それまで俺のせいとか言う訳じゃないよな」

「えぇ。もう昼飯をご馳走していただきましたから……。自分は早く報告書を上げますので、相良さんはテレビでも観ていてください。」

「まだ、間に合うのか?」

「観劇は無理でしょうが、夕食と祝杯は何とかしたいです。」

「判った。黙っとるから早く書いて行け」

 相良は射水の傍から離れて、応接用のソファで横になり、テレビを点けると、各局挙(こぞ)って、早朝の都心公園での傷害事件を取り上げていた。特に『Nテレビ』では、朝からこの時間までの情報番組やワイドショーまでが、この傷害事件を大々的に取り扱い、某大学の教授や元警視庁の警部などを出演させて、「恨みでの犯行」と断言したコメントまで流していた。

 また特殊な手口などから、意外と早い時点で犯人が割れて、終着を迎える事件などと付け加え話していた。


「冗談じゃないぜ。そんなに簡単に片付く事件なら、元警部殿に警察へ戻ってきていただきたいね。」

 相良は観ていたテレビに、本気になって憤慨した。早朝から八時間近くも捜査をしてきたが、犯人どころか未だに被害者の名前すら判らない状況での、無責任な『元』警察関係者の発言に、怒りを表さずには、いられなかった。

「相良さん、テレビに向かって独り言なんて大丈夫ですか?」

 書き上げた報告書を手渡しながら、射水が言った。

「俺もヤキが回ったってことかね。」

 ソファに起き上がり、受け取った報告書に眼を通しながらボヤキが口を吐く。

「ほう、相良らしくもないね。前まではそんな弱気なことは言わなかったじゃないか。」

 報告書を読んでいた相良が顔を上げて、声がした方を向く。カウンター越しに、相良と警察学校で同期で、新宿南署の生活安全課で係長をしている多治見が、温和な顔を向けて「よっ」と右手を上げた。


「多治見じゃないか!ウチの署に来るなんて、一体どうしたんだ。」

 そう言いながら相良は、嬉しそうに昔の仲間をカウンターまで迎えに出た。

「都内所轄の生活安全課の会合が有ってね、今回の当番が渋谷中央署なんだ」

「そうか、会合はこれからか?」

「あぁ、未成年犯罪の防止策とか、ピッキングや振り込め詐欺など、僕達が関係する犯罪は幅が広いから、意外と各署の実績や対応策は良い勉強になる。」

「未成年犯罪か……」

 相良は未成年と言うキーワードに翳りを見せた。

「どうかしたのかい?」

「今朝、代々木公園で起きた傷害事件の被害者も若造でね。昼間、射水と駆け回ったが、未だに誰なのか、名前すら判らない状況だ。」

 相良はできたての報告書を、右手の人差し指でパチンと弾いた。

「未成年者は僕の専門分野だから、どんな奴かちょっと見せてみろよ」

 相良は藁をも縋る気持ちで、報告書に付いている写真を、多治見へ手渡した。

「これは、加賀谷じゃないかな?」

 受け取った写真を一目見て、独り言のように多治見が言った。

「多治見、知ってんのか!」

 相良は初めての手がかりだと、意気込んで多治見に聞いた。

「新宿駅の西口辺りで、女を漁っているプレイボーイ気取りの男でね。補導や逮捕歴が無いから、犯罪者リストには載ってないし、犯罪に手を出すほどの根性も無いから、警察のブラックリストにも乗っていない。」

 多治見は、自分の知る加賀谷の情報を相良へ話した。

「それと、たしか先週だったかな。誰かの女に手を出したとか、ぼこられそうだと、少年課の刑事に泣きを入れていたと思ったけど。聞いてみようか?」

「やっぱり持つべきものは友だな!後はこっちでやるから会合へ行ってくれ。そうそう、このお礼は事件が解決したら絶対するからな!」

 礼もそこそこに、「新宿だ!行くぞ」と射水に声をかけて、刑事部屋を飛び出していった。射水にとってはこれからの予定がまた狂ってしまったが、不運続きに慣れたのか、刑事の性なのか、自分でも判断ができないまま、相良の後を追って出て行った。

「協力を惜しまないように、ウチの課長へ頼んでおくから――。検討を祈るよ!」

 多治見の声が、二人の刑事に届いたかは定かではないが、扉の向こうに消えて行く二人を、多治見は暖かく見送った。


 多治見は相良とは逆に、警察学校を卒業した後は、渋谷中央署の警ら課が配属先で、ハチ公で有名な渋谷駅前の派出所勤務になった。

 勤務に着いて二年目の夏のことであった。多治見は、センター街で数人の少年が喧嘩をしているとの通報を受けて駆けつけた。しかし一歩及ばず、喧嘩をしていた少年の内の一人は命を落とし、残った数人の少年は「殺人者」として逮捕送検された。

 根が優しい多治見は、少年を被害者と加害者にしてしまった事で自分を責めた。そのやりきれない気持ちから、警察官を辞めようと考えたが、当時の上司が生活安全課への転属を薦めた。

 多治見は辞表の変わりに、転属願いを出し、翌年4月に新宿南署の生活安全課への配属が決まった。


 生活安全課とは、不法投棄、ストーカー相談、窃盗や詐欺などの犯罪抑止対策、少年犯罪、風俗関係、銃刀類の許可など、扱うものは幅が広い。

 それが新宿や渋谷と言った大都心となると、犯罪は後を絶たず、生活安全課の捜査官はフル操業が当たり前になっていた。


 あれから二十年余り、温厚な性格な中に熱い心を持った多治見は、『罪を憎んで人を憎まず』をモットーに、天職とばかりに堅実に勤めた。

 いつの間にか、警察の内外部の者から「仏の多治見」の異名で呼ばれるようになっていた。四十九歳になった今では、新宿南署の生活安全課の顔として、上司の課長よりも頼られ、他署の生活安全課からも相談をされる、貴重な存在であった。


 相良と射水を見送ってすぐに、多治見は携帯を取り出し新宿南署へ電話をした。

「新宿南署生活安全課の森田です。ご用件はなんですか?」

 通常の警察署であれば、かなり高圧的な口調で電話に出るのが通常であるが、新宿南署生活安全課では、子供や老人など、誰もが電話をかけ安くすることで、犯罪の抑止効果が高まると言う多治見の発案から、明るい声と丁寧な言葉、そして優しい口調で応答することになっていた。

「森田君ご苦労様。多治見ですが課長をお願いします。」

「係長でしたか。只今、お繋ぎいたしますので、少しお待ちください」

 多治見とはまるで逆に、煙たがられ邪魔にされているのが、生活安全課を預かっている、課長の萩本警部であった。電話に出た森田は、やたらと威張り散らす萩本が大嫌いで、話もしたくない程に普段から敬遠していた。多治見からの指示でなければ、電話を切っていたかもしれなかった。

「課長、外線です。」

「外線?全く多治見は何処へ行った!私は忙しいと言うのに……。もしもし!生活安全課課長の萩本だ!あんた誰!」

 今朝買った週刊誌の記事を読んでいたのを邪魔され、露骨に不機嫌な声と威張った話し方で、課長の萩本が電話口に出た。

「お忙しいところ恐縮であります。多治見です。」

 萩本は多治見と聞いて慌てた。電話を取り次いだ森田を睨み、手にしていた週刊誌を投げつけた。

「おっ。多治見さん。どうされました?忘れ物ですか?もし必要であれば、すぐにそちらへ届けさせますよ。」

 萩本は、階級や役職。年齢さえも多治見より上なのだが、何故か多治見には敬語を使い、常に部下然とした態度を取る。多治見はそれが嫌で、署長や他の部署、または部下などの手前もあるので、治していただきたいと、事有る度に何度頼んだのだが、本人に改める気がまったく無く、今でも続いていた。

「課長にお願いがありまして、電話をいたしました。」

「えっ。自分にですか!自分を頼っていただけるなんて光栄であります!」

 萩本へ何かを頼むと必ず今の言葉がでてくる。これも嫌なところのひとつで、この頃では萩本を頼る事はしなくなってきていた。しかし久しぶりの依頼で、萩本は本当に嬉しそうに言ったのだが、多治見はあえて無視して、事務的に話し始めた。

「今朝、渋谷中央署の管内で起きた傷害事件の被害者が」

「今朝の渋谷中央署管内の傷害事件ですね。」

「そうです。その被害者が自称『西口の種馬』と言っていた、加賀谷に似ておりまして」

「種馬の加賀谷でありますね。」

「そうです。その加賀谷誠の情報を、渋谷中央署の相良警部補が課長を尋ねて行きますので」

「渋谷中央署の相良警部補ですね。」

「そうです。ですから、そちらへ行ったら加賀谷の情報を出してください。」

「加賀谷の情報を出すのですね。」

「お願いできますでしょうか?」

「もちろんです。安心してお任せください。」

 萩本が緊張しているときは、いちいち人の話を中断させて、確認する癖がある。その割には、確認したもののひとつ、ふたつを落としてしまう傾向がある。多治見は、用心のため保険をかける必要があった。

 内勤者で一番頼りになる、吉田の顔が浮かんだ。

「それから、吉田君は近くにいますか?」

 多治見は萩本に礼を言うのも忘れ、吉田巡査部長の存在を聞いた。

「吉田ですか?すぐそこに居りますが変わりますか?」

 萩本の声のトーンが一気に下がった。

「お願いします。」

「吉田!係長がご指名だ!ちゃんとメモを取って、係長に迷惑がかからないようにしろよ!」

 電話の向こう側で、萩本が不満気に怒鳴っていた。

「はい。代わりました、吉田です。」

「多治見ですが、今の話聞こえていました?」

「はい。」

「では、私の同期ですので宜しくお願いいたします。」

「了解いたしました。お任せください。」

 多治見は礼を言って電話を切り「ふぅー」と深い溜息を吐いた。

「何時もだけど、課長と話すと疲れるなぁ……。まぁ吉田君がいるから安心はできるけど。相良、君の健闘を祈っているよ。」

 多治見は独り言を言って会議室へ向かった。



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