プロローグ
プロローグ
東京都渋谷区松涛――。都内にいくつかある高級住宅街の中でも、若者の街、渋谷の繁華街と隣接し、昭和三十九年に開催された東京オリンピックに建てられた、国立第一、第二体育館や、米軍よりオリンピック村創設用地として返還され閉幕後、都民の憩いの場として造られた、代々木公園が配置された西側の地と、東京大学の駒場キャンパスがある南側の地。どちらも緑が多く、広く開けた閑静で有名な高級住宅地である。
溝口恭子は、駒場キャンパス寄りにある住宅街の一画に、両親と父方の祖父との四人で暮らす、音大に通う女子大生である。
恭子は雨天以外の早朝、愛犬のリズムと代々木公園近くまでの、三キロ程の散歩を日課としていた。
「うー寒っ。だんだん冬に近付いて行くのよ。君は毛皮を着ているから、この寒さなんて気にしないでしょうけど、私はそうはいかないの。わかる?」
十一月の半ばを過ぎた時期ともなると、さすがに朝の外気は冷たい。恭子は、尻尾とお尻を振り振り自分の前を行くリズムへ、恨めしそうに言ったが、当のリズムはお構いなしに、恭子をグイグイ引っ張り続けた。
リズムは恭子が高校入学のお祝いに、祖父に買ってもらったオーストラリアン・シェパードのオスで、名前の由来はメトロノームの様に、規則正しく揺れる尻尾から連想して、恭子が付けた。
そのリズムも、この四年程で体高が五十センチを超え、体重も三十九キロと、この犬種にしては幾分、大きく育った。今では、百五十センチ三十八キロと小柄な恭子では、毎朝の散歩も重労働になっている。
散歩コースの三分の一に当る、自宅から観世能楽堂を通り、NHK放送センターを過ぎ、第二体育館の前辺りまでは、リズムに引っ張り回されているが、その後の、井の頭通りを富ヶ谷方面へ行き、中間点に当る代々木交番辺りを過ぎると、リズムのモチベーションが下がり始め、ラスト近くの観世能楽堂が見えてくる頃には、ぜぇぜぇと息を荒たてて、その場に伏し「一歩も動けない」と言う、情けない目を恭子へ向けるのである。
仕方無しに、そこから自宅までの間は、恭子がリズムを引っ張るのだが、自分より重い三十九キロもの錘を引っ張って歩くのは、恭子にはかなり厳しい。家に着く頃には、恭子自身の息もぜぇぜぇと乱れ、真冬でも全身で汗をかくほどであった。
以前、散歩の道を変えて距離を短くしようとしたが、自宅を飛び出し先行するリズムに引っ張られて、結局は同じ道を散歩することになってしまった。もっとも、これがあるから、朝のシャワーの爽快感を味わえ、朝食も父親と同じ量を美味しく頂ける。最終的には、恭子の健康を維持し、ダイエットにもなっていた。
今朝もそんな散歩になると思いながら、いつも通りリズムに引っ張られて井の頭通りまでやって来た。
普段では代々木公園には寄らないが、今朝は冷えたのか、急にトイレへ行きたくなった。陸橋を渡り公園のトイレ近くの木に、リードを縛り付け「ごめんね。良い子で待っているのよ。」とリズムへ声を掛け、恭子はトイレに入った。
時間にしてみれば数分だったはず。トイレから出てきた恭子は、リズムがいなくなっているのに気が付いた。大きな声でリズムを呼んだ。トイレから公園の中へ五十メートル程入った茂みの辺りで、リズムが吠えている声が聞こえた。恭子は走って傍まで行くと、リズムが唸りながら何かを噛んでいるのが見えた。
「まさか……。リズム!止めなさい!」
恭子は大声を出し、リードを引っ張って、慌ててリズムを茂みから引きずり出した。一呼吸置いて再び茂みの中を覗いた。
「足!」
隣でリズムはまだ興奮している。茂みに戻りそうなリズムを引っ張り、恭子は携帯を取り出して父へ電話した。
呼び出し音が聞こえる。「パパ、早く出て!お願い!」と上ずった声で叫んでいた。普段からのんびりとしている父には、これがちょうど良いと言って、着信音をブラームスの『田園』にしたのは恭子だった。しかし今、父の携帯がのんびりと『田園』を奏でているのだと思い後悔した。恭子の混乱している思考の中を、ショパンの『英雄ポロネーズ』が駆け巡っていた。帰ったら『英雄ポロネーズ』に変えようと、非常時に不自然な余裕が垣間見えた。
まだリズムは興奮が収まらず吠えている。恭子は茂みの中へ声を掛けた。
「大丈夫ですか?リズムが――。私の犬が大変なことをして申し訳ございません。今父を呼んで、すぐ救急車も呼びますから」
茂みの中の足は潅木を揺らし、返事をしたと恭子は思った。
「恭子か、どうした?」
待ちに待った父の低く落ち着いた、いつもの声が聴こえた。恭子は涙声だが気力を振り絞り、やっとの思いで父へ告げた。
「代々木公園でリズムが人を襲って、怪我をさせたの……。早く着て!」
「何だって!わかった。すぐ行くから、とにかく救急車を呼びなさい」
「はい。この電話を切ったらすぐ呼びます。」
「代々木公園のどの辺だ?」
「第二体育館のところを渡ったトイレの奥」
「わかった。急いで救急車を呼んで、出血が多いようなら応急処置でいいから、止血をするのだよ。」
そう恭子へ言うと父の声は消えた。普段の父は、動きものんびりしているが、話し方もその性格からか、いたってゆっくりと話す。しかし流石に電話の父は、事の重大さに慌てていたと恭子は感じた。父はすぐに、ここへ駆けつけてくれると安心感を持てた。
携帯から聞こえる不通音をリズムの声が消した。恭子は気を取り戻し「恭子しっかりして!」と自分を叱咤し、一一九番に電話をして救急車を要請した。
五分――。日常の生活の中では、比較的短い時間だろう。しかしこう言った時の五分の長さは、尋常ではなかった。リズムは落ち着きを取り戻し、草の上に伏して上目遣いで恭子を見上げている。散々叱られてしょげている様にも見える。
倒れている男の喉元から、血が流れているのが見えた。恭子は持っていたハンカチで、止血をしようと茂みに足を踏み入れた。落ち着いて男を見ると、両目や耳からも僅かに出血が見えている。声を掛けるが男は反応が無くまったく動かない上に、呻き声さえ聞こえない。
「変だわ、この人――。リズムが噛んだ訳じゃないわ!」
恭子は五分と言う時間の中で、そう判断した時、まだ目覚めの途中にある街の中を、救急車がサイレンを響きかせて近い付いて来る。恭子は男から後退りしながら離れ、振り向くこともせずに、救急車を迎えに、リズムを引っ張り井の頭通りまで走って出た。




