衛主の勲・二
翠天を軽やかな風が駆け抜ける。
子供たちのはしゃぐ声は川面を撫で、割り込むように魚が跳ねた。
“交叉の宿場”ネレスは長閑な田舎の、それでも一応は街である。交易の中継点として発展し、そのための街道が東西を貫いている。この街道と南北に流れる川とが街の中央で交叉していることが異名の由来だ。
街道はすぐ東の“フューメルの皿”と呼び習わされる大平原に続いており、そこを抜ける隊商が準備を行い、休息をとるのがネレスなのである。
中央通りには馬車ごと収容できる大きな宿が立ち並び、広場では市も開かれて非常な賑わいを見せ、少し外れると一転して素朴な煉瓦造りの家から豊かな山や森が覗く、そんな光景が広がっている。
ネレスの宿の一つ、<白い駿馬>亭の裏では一人の少年が馬車から荷を下ろしていた。
その姿を馬車の持ち主である交易商が呆気にとられたような顔で見ている。
なにせ、大の男が四人がかりで積み込んだ木箱を小柄な少年が独りで、それも軽々と下ろしてしまったのだ。
「……君は何か祝福の法でも使っているのかね?」
「いえ、よく分からないんですけど、とにかく力持ちなんですよ」
商人の問いに少年は、マモルは朗らかに答える。
「これで全部ですよね。積み込み直すときにはまた従業員を呼んでください」
「あ、ああ……」
「じゃあ失礼します」
マモルはぺこりとお辞儀をすると、呆気にとられたままの商人を置いて屋内へ戻った。
複数の商隊を受け入れることになった今日は目の回るような忙しさだ。
忙しく立ち働く従業員の間を擦り抜け、おかみさんの許へと向かう。
「荷物下ろしました!」
「あいよ、ご苦労さん」
戦場のような調理場に宿の女将、アイナはいた。四十がらみの、見た目のなんとも丸い女性で、朝から晩まで動き続ける活力の塊である。そしてこの街までなんとか辿り着いたマモルを拾って住まわせてくれた人でもある。
「じゃあ次はイグジスんとこ行って、鹿を三頭引き取って来てくれるかい? 話はついてるから」
「分かりました」
細かいことは訊かない。もう何度もやった仕事だ。道も分かるし顔見知りにもなっている。
頷くが早いかマモルは<白い駿馬>亭を飛び出した。
柔らかな風が心地好かった。
この世界に来てからもう一月が過ぎている。
自分の身に何が起こったのか、なぜ起こったのか、まったく分からないのだがマモルは気にしないことにしていた。
言葉はなぜか通じるし寝食にも困っていない。住人はみんな明るく、気さくに接してくれる。
そして筋力が圧倒的に強くなっていた。大きささえ問題ないなら先ほどの荷物程度は軽いものだ。
本当に何もかも分からない。だが気にしない。
自分が今充実していることこそが、マモルにとって最も重要なのである。
まさに生まれ変わったような気分。これからはすべてがうまくいきそうな気がする。
向かった先は町の外、山の麓だ。そこに住む猟師のイグジスから<白い駿馬>亭は獣の肉を仕入れている。今回の分はもう受け取って帰途にある。
行き帰りの道に危険はない、ということではある。この十年、魔族が増殖しているそうだが、近辺で見かけたことは誰もないそうである。当然マモルも聞いた話でしか知らない。それらは人間の近縁種ではなく正真正銘の怪物の類であるらしい。弱い魔族ならばそれこそ猟師でも充分対応可能であり、もし現れることがあっても俺が始末してやるとイグジスが豪語していた。
もしかしたら、とマモルは思う。今の自分ならば倒せるのではなかろうか。
麻布に包んで大きな背負子になんとか縛り付けた三頭の鹿、その重量は合わせれば200キログラムを優に超えるが、バランスさえとれば軽いものだ。おそらく筋力は少なく見積もっても十倍以上になっているだろう。ほぼゴリラと同水準である。試したことはないが肉体の強度もそれに見合うと考えて間違いあるまい。
このカサルミアに銃はない。猟師の得物は弓か弩だ。ならば猟師が手持ちの武器で屠れる魔族ならば自分でも、と。
他愛ない空想である。当然、出くわしたくなどない。平和が一番だ。
そう、自らに言い聞かせた。胸の内に潜む、力を振るうことへの欲求から目を背け、ネレスへの道を歩き続けた。
道中に異常はなく、しかし町へと辿り着いたときに人の集まっていることに気付いた。
外からの道が入り込んで来る場所は広場になっている。商隊などは一旦この広場に留まり、宿を探すためである。あるいは商隊同士での取引や、小さな市を開く者もある。
ともあれ、その広場の一角に人が集まっていた。それもどうやら殺気立っているように思える。
「どうかしたんですか?」
荷物を背負ったままだが、やはり気になってしまって問うてみた。
「ん? ああ……アイナんとこの坊主か」
応えてくれたのは見知った顔だった。それ以外はやはり剣呑な雰囲気で一方を睨んでいるのだ。
「邪神の神官だよ。ったく縁起でもねえ」
「邪神?」
初めて耳にする存在だった。この世界に来てまだ一月なのだから、むしろ知らないことの方が多いのだろうけれども。
知り合いの男は語るのも憂鬱だと言わんばかりの顔で説明してくれた。
「まあ、あまり口に出すもんじゃないからな。邪神ハシュメールは古い古い神だ。魔族を生み出したのはこいつだとも言われてる。その証拠に自分の神官にも魔法の力を与えることができる」
魔法という単語に反応して出そうになった言葉をマモルはすんでのところで呑み込んだ。
このカサルミアにおいて、魔法とは魔族のみが使えるとされる力であることを思い出したのだ。一方で人間の持つ異能や不思議の術もある。そちらは祝福・祝福の法と呼ばれており、マモルの身体能力も怪力の祝福だと勝手に解釈されたおかげで問題なく受け入れてもらうことができたのである。
魔法と祝福とは何が異なるのかは、そもそも魔法を見たことがないのでマモルにはよく分からない。
だからということもあり、更に興味が湧いた。人の壁を抜け、なんとか最前列にまで辿り着いた。
そこにいたのは薄汚れた衣を纏った小柄な姿だった。胸元で竪琴を模したアクセサリーが揺れているのが印象的だが、その一方で目深にフードを被り顔も性別も分からない。ただ、女性であるようには思った。マモルも背は低い方だがそれよりも更に小さく、少し覗いている手が華奢なのだ。
だが彼女、あるいは彼に降り注ぐ言葉は語気荒いものだった。
「だから出ていけって言ってるだろ! 叩き出されたいか!」
幾つもの声が重なっているものの、端的に言い表しているのは最も大きく響いたそれだったろう。来るな、出て行けと口々に浴びせかけている。
しかしフードの姿は毅然として告げた。
「この町に強力な魔族が近づいています。私はただ、それを知らせに……」
鈴を転がすような、とはまさにこのような声のことを言うのだろうとマモルは覚った。儚く、それなのにしなやかに強く通り、耳朶を打つ。そして予想したとおりに女性、それも自分と変わらぬ年頃の少女なのだと確信した。
もっとも、状況はマモルの心など斟酌するはずもない。
「邪神は魔族を呼ぶそうだな? 近づいてくるんじゃなくてお前が呼ぶんだろうが!」
誰かが小石を投げた。
それは外れて跳ねたが、憎悪に包まれた恐怖の言葉の群れとともに次々と、続く石が投げ込まれた。
女の子になんてことを、と身体と口が動きかけて、マモルは思いとどまった。
自分は今、アイナの保証の下にこの町で暮らせているのだ。ここで割って入るような真似をしたならば、それは彼女の顔に泥を塗る行為に他ならない。
あるいは怖いだけか。周囲に逆らうことが、波風を立てることが。
マモルが何も言えないでいる間に、石に追い立てられて彼女は退散した。
人々が安堵の吐息とともに何やら言い合っているのも聞こえず、忸怩たる思いが自らを嘲るのにも内なる耳を塞ぎ、立ち尽くすしかなかった。
曇天の切れ目から降る光の柱は天へと昇るための梯子とも映った。
ビルの立ち並ぶ昼下がりの街を少女が行く。十代後半の愛らしい、それでいてすっきりとした美貌には笑み。背丈はさほど高くもないが、スキニージーンズの脚線が奇妙な色香を醸していた。
向かう先は裏路地だ。折角の光射す世界に背を向け、薄暗い場所へと足を踏み入れる。
少女は多くの名を自称するが今回は『上月茜』を使うことにした。この名で会うのは異世界帰りとの噂のある少年である。
実に興味深い肩書だ。偽りなのであれば、どのような嘘を吐いてどのような偽証をしてくれるのか。事実であるのなら、その異世界とやらについて情報を押さえておく必要がある。利用可能であるとまで甘く見てはいないが害になっては困る。
竜泉辰鬼の豪語を実現するため、現在<魔竜>は仕込みを行っている。当人は本当に身一つで即座に仕掛けるつもりであったようだがそれは制止した。剣豪派や魔女派に駆け付けられては困るし、どうせなら鳥船派陥落を次の動きに生かしたい。
幹部たちは思うように動いてくれている。自分だけが少女の真の名を知っているのだと優越感を覚えながら、献身的に。少女はそれが愉快で堪らない。人間だった頃の不愉快な名など<魔人>と成った際に捨ててしまったというのに。
ともあれ、準備の一環として異世界帰りとやらに会いに来たわけなのだが、ここまで些かの苦労はした。何やら訳ありらしき<魔人>がいるということ、どのあたりに根城があるのかということについては、まるで自分から広めでもしたかのように知られているのに、いざ接触を持とうとすると派遣した下っ端がほとんど帰って来ない。おそらくは殺されてしまったのだろうが。
それでも何とか居場所を突き止めるところまではできた。ここからは自分の出番だ。
薄暗いこのような場所は、好きとは言えぬまでも懐かしさはある。あれは碌でもない逃げ場ではあったが――――
「ふふ……」
嗜虐的に笑みの漏れる。
あの頃の己は芋虫であった。美しく羽ばたく姉を見上げ、太陽の眩さに嫌気を覚えて隠れた。だが姉はもう墜ちた。惨たらしく蟻に食われていて欲しかったが、いなくなったのを良しとしよう。
今は己こそが空を舞う。伸ばされる手を悪戯に掻い潜り、翻弄する。
徹頭徹尾、嗜虐である。過去の自分をすら対象にして愉快が疼く。
行く先はより暗く、人の出す音も減ってゆく。
奥まった場所に少年はいた。疲れ果てたように地べたへ座し、両脚を無造作に投げ出して、両眼がぎょろりとこちらを見た。
珍しい、と少女は思った。
少年は小柄だった。顔立ちも整っているとは言い難い。<魔人>は成る際に容姿を好きなように設定できる。本当に思い通りにはそうそうならないものの、並よりは明確に上であることが多いし、男性であれば身長は高めにするものだ。
目つきといい明らかに何かある。ああ、かわいそう。
「あのっ……」
甘さを含んだ可憐な声をかける。設定は少し内気だが変な方向に行動力のある女の子。
「別の世界に行って帰って来た人がいるって聞いたんですけど、その……」
口調と態度はともかく内容は直截的だ。なにせ内面も背景も分からない上にさほど時間も残されていない。鳥船派を落とすのに準備は欲しいものの、時間そのものは規模と統制に勝る<竪琴>の味方だ。混乱の回復し切っていないうちには仕掛けなければならない。騎士派に潜り込んだ時のように無関係な部分から懐に入り込むなどという悠長な手段は採れない。
「……あ、あなたが、そうなんですか!?」
少女の容姿は優れたものだ。同性の<魔人>にはまず負けない、アイドルや女優の類にもそうそう負けない。今日は素朴な色味に調えて、それでいて身体の線をある程度感じさせるように服装を選んだ。
これに演技を加えれば同世代の男はほぼこちらに好感を抱く。
少年の表情と目つきが緩んだ。
「異世界。異世界ね。君に何の関係があるんだ?」
「あたし、いじめられてて…………もしここじゃないところへ逃げられるのならっ」
感情を乗せるのはお手のものだ。うっすらと涙を浮かべることも容易い。
少年は薄く笑った。
「嘘はつかなくていいんだ。非現実に逃げたいくらい辛いにしては君は綺麗すぎる。余裕がありすぎる。なんで化粧なんかしてるんだ」
「あらららら」
少女はあっさりと諦めた。確かに技術を駆使して作ってはいるが、男には早々気付かれない類のものだというのに。
「めかし込みすぎたかなー。あなたに会うのかなり楽しみで気合い入りすぎたかな」
純朴そうな表情と仕草からがらりと変え、今度は蠱惑の色を帯びてくちびるが弧を描いた。
軽く髪を払ってから胸の下で両腕を組み、ふくらみを強調する。
「改めて自己紹介しとくね。<魔竜>の参謀、上月茜。よろしく」
「最近鬱陶しかった奴らの上司か。部下はきちんと躾けといてほしいもんだ」
「ごめーん」
彼我の距離は縮まらない。少年は座ったままで、少女は近づかない。
おそらく、であったものが確信に変わる。派遣した面々はやはり殺されている。
少女も腕に自信はあるといえ、少年の強さの程も分からないのでは用心せざるを得ない。少なくとも木っ端ではまるで相手にならないのは確かだが。
「それで、異世界。別の世界に行ってたの?」
「まあ、そうだな。それで間違ってはない」
少年は相変わらず力なく両脚を放り出したままで、声も抑揚が少ない。
しかしこちらへと向いた視線が一瞬たりとも逸れない。視界にこちらの全てを収めている。
「ふぅん、なんか曖昧な答え。じゃあ、どうして戻って来たの?」
「『魔王』を倒してハッピーエンドを迎えたからさ。物語が終わったからオレは現実に戻って来た」
「じゃあ、英雄様ってわけだ?」
少女は少年の心をくすぐってみた。普通ならば自尊心をとなるところなのだが、まだ読めないためこれも観測気球である。
果たして、少年は口元を歪めて牙を見せたのだ。
「ああ、えいゆーサマさ」
「あなたの目的は?」
「答える必要があるか?」
「知りたいな?」
甘い声で蠱惑的に。この期に及んで通用する気はしないが半ば身に沁みついた性分である。
少年はどのようにしてか、一挙動で既に立ち上がっていた。
「魔神ハシュメールへの復讐だ」
ついでのように告げられた言葉に、さしもの少女もしばし絶句していた。
魔神の力と存在は<魔人>の比ではない。最強であるはずの<魔王騎士>ですら一瞬で、当然一方的にただ潰されるに違いない。
「……勝算あるの、それ?」
「あるわけがない」
そう言った時の、どろりと濁った目で少女は察した。こいつは既に命を投げ捨てている。死ぬまでの間に一矢報いるつもりであるだけなのだ。
ならばと判断した。
「なら、あたしたちと協力できるんじゃない? うちと敵対してる<竪琴>はハシュメールが作り出したものなんだから、これを潰せば復讐になるはず。もし来てくれるなら――――」
心と身体の距離を縮めるべく一歩踏み出したときだった。
少年が無造作に右手を振った。
二人の間に亀裂を入れるように足元のコンクリートが横向きに抉れていた。
「近付かないでもらえるか?」
「困ったなー、性急すぎた?」
少女はなおも縮めようとする。肉体的に縋りついてしまえばそうそう振り払われることはない。
少年が明確な嫌悪の表情を示した。つい今しがたまでの姿が嘘であったかのようだった。
「寄るなクソ女、お前臭えんだよ」
「え?」
豹変に意味を取り切れず、さすがに少女は戸惑った。
あり得ない。露骨ではない程度で自身に香りづけはしてある。好き嫌いはあるにせよこうも拒絶されるものではない。
「臭いって、あたしそういうのは気をつけてるつもりだけど……」
「お前、男を利用して弄ぶのが楽しくて堪らんタイプのクズだろう。顔を見てるだけで下種の臭いが酷いんだよクソ女」
「あー……」
偶にある。こちらの本心を察して、その上で駆け引きや言葉遊びを楽しむでもなくただ拒絶されるということは。
少女は二枚目の仮面も脱ぎ捨てた。
「ごめんねえ? ぴゅあぴゅあなえいゆーサマはぁ、ドキドキしちゃったあ?」
甘い声で小馬鹿にしつつ、用心深く距離を取る。
少年は動かない。が、双眸に鬱滞した毒々しい熱は触れなば冒す危うさを孕んでいた。
これは駄目だと少女は心中でだけ嘆息する。文字通り、話にならない。途中まで穏やかだったのは結論を最初から決めてしまっていたから、何を言おうがどうでもよかっただけなのだろう。いや、そもそも精神が不安定すぎる。
「不吉な予言をpresent for you! 全部何もかもドブに捨てられて死ぬよアンタ、ザマァ見ろよ!」
根拠などない。ただ置き土産に呪いだけを残して少女は逃げ去る。
別にいいのだ。協力を得られなかったところで異世界帰りとやらが<竪琴>の敵になるのは変わりない。むしろこちらと繋がりがない分、いい陽動になってくれるだろう。これは成功である。
己を誤魔化すまでもなく満ちるのは達成感だった。全てはうまくゆくことだろう。
そう、『上月茜』こと、『長門美琴』こと、数多の偽名を持つ<栗鼠>は竜泉辰鬼が鳥船派を潰せるということ自体を疑っていない。
あれは怪物だ。あれはまだ強くなる。
自分のための、王となってくれる。
生贄となってくれるに違いないのだ。
少女は悪である己に陶酔した。




