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白虎の宝玉  作者: 西都涼
風光の章
112/201

112

 獅子は群れで狩りをする習性がある。

 猫科の動物は、群れよりも単独を好む傾向にあるが、獅子の場合は違う。

 それが、今回は助かったと、熾闇は馬を走らせながら思った。

 翡翠からの報告で、獅子は三頭いるということであった。

 観客席に姿を現した獅子はちょうど三頭。

 探さなくて済む分、労力はいらないと、暢気なことを考えていたその視界に、突然のことに硬直している兵士の槍が映った。

 槍ならば、剣より多少間合いが取れる分、時間稼ぎができると瞬時に計算する。

「貸せっ!」

 馬上から手を伸ばし、兵士の手から槍をもぎ取ると、さらに愛馬を急かす。

 すぐ傍に翡翠がいる気配がした。

 振り返って確かめなくてもわかる。

 誰よりも肌に馴染んだ気配に、安心している自分がいる。

 そこへ、甲高い悲鳴が上がった。

 恐慌状態に陥り、逃げ惑う観客の内の一人が逃げ遅れ、服の裾を獅子の前脚に押さえ付けられている。

「くそっ!」

 槍では到底届かない距離に、悪態をついた熾闇のその背後できりきりと弦を引き絞る音が聞こえる。

「熾闇様は右側の獅子をお願いします」

 実に冷静な声が、反対側から観客を狙う獅子の存在を知らせる。

「わかった。任せる」

 弓術に関しては翡翠の方が上だと熟知している王子は、右へと向かった。

 その視界の端に、喉を射抜かれ大地に崩れ落ちる獅子の姿が見えた。

 そうして、鈍い地響きがその後に続く。

「……さすが」

 にっと笑った若者は、彼の姿に気付き、向かってくる獅子の口の中へと槍を差し入れた。

 獰猛な咆吼をあげていた獅子は、その強靱な顎で槍の柄を噛み砕こうとする。

 それをさせまいと、腕に力を込め、貫き通そうとする。

 彼の愛馬は、獅子の前脚を器用に避けながら、主人が有利に立てる位置へと移動しようと蹄を鳴らし、足踏みした。

 己を屠るかもしれない肉食獣を前に、動揺した素振りも見せない。

「熾闇様!」

 突然、翡翠の声が響いた。

 そうして、三頭目の獅子の咆吼が響く。

 その声は、とても近くに聞こえた。

 仲間を助けようとしているのか、血の匂いに酔ったのか、熾闇を標的に選んでいることは間違いない。

 ちらりと三頭目の位置を確かめた熾闇は、左手に握っていた手綱を外し、槍の柄を握る。

 右手は槍を放し、剣の柄を握る。

 がつんと左手に強い衝撃が走る。

 それにかまわず更に力を込めると、ざりざりという奇妙な感触の後、肉を絶つ馴染んだ感覚が伝わり、そうして不意に腕に掛かっていた負荷がなくなった。

 見ると、獅子の首の後ろから槍の刃先が覗いている。

 左手を槍から放した彼は、鞘走らせ、剣を抜き放ち、三頭目の獅子を真っ正面から睨んでにやりと笑った。


 野生の獣に挑むときは、目を逸らしては負けてしまう。

 力で負けても、気力で勝てば、相手をねじ伏せることができるのだと、幼い頃、誰かにそう教わった。

 今まで、その教えが間違っていたと思ったことは一度たりともない。

 これから先もないだろうと、実感を込めて彼は鐙から外した足を鞍にかける。

 周囲の様子がやけにゆっくりと動いているように感じられる。

 熾闇を目掛けて真っ直ぐに獅子が駆けてくる。

 伸び上がるように獅子の肩が上がり、沈むと、後ろ脚が大地を蹴り上げる。

 そうして更に高く獅子が伸び上がり、跳んだ。

 大きな口が開き、鋭い牙が剥き出しになる。

 餌を丸飲みにしようというように向かってきた獅子を避けるため、後ろに仰け反りながら熾闇は身を沈めた。

 銀色の閃光が走ったのを見たと、獅子の口をやり過ごしながら、彼は思う。

 目の前に迫った喉に剣を突き立てながら、足で鞍を蹴る。

 主人の意図を悟った愛馬は、躊躇わずに駆け出し、その場を去る。

 賢い馬に満足しながら、彼は剣を横に薙いだ。

 苦しげな獅子の叫び声と共に生臭い香りが漂う。

 視界が赤く染まり、顔や髪、服が濡れていくのがわかる。

 周囲を確かめようと視線を走らせた熾闇は、長弓を手に愛馬に跨った翡翠の姿を捉えた。

 自然と唇の端に笑みが刻まれる。

 背中に衝撃が走る。

 大地の上に投げ出されたのだと、頭が理解したと同時に、今度は上から重すぎるものが落ちてきた。


 がつんがつんと蹄の音が響いてくる。

 自分の上に乗った重いものを両手で突っぱねて、その下から這い出すと、彼は盛大に顔を顰めた。

「生臭い!」

 自業自得だが、耐えられるような臭気ではなかった。

 喉笛を掻き斬られた獅子は、眉間に矢を生やしていた。

 剣を突き立てる前に見た閃光の正体は、翡翠が放った矢だったのだ。

「二対一で、俺の負け!?」

 口惜しげに唸った熾闇の傍に寄った翡翠がにっと笑う。

「借りは返しました」

「根に持ってるな、しっかりと。しかも、負けず嫌いときているし」

 涼しい顔をしている娘に、熾闇の眉間に皺が寄る。

「勝ちは譲りますよ。とどめを刺したのは、熾闇様の剣ですから」

 満足そうに笑う翡翠の許へ、先程逃げ出していた熾闇の愛馬が寄ってくる。

 その馬の首を愛しげに叩いて宥める従妹に、王子の表情が渋くなる。

「何で、俺の馬がおまえに懐く?」

「熾闇様が臭うからじゃないのですか」

 微妙に風上に立ち、距離を保つ翡翠に、熾闇は拗ねた。

「仕方ないだろう? あの場合、剣しかなかったんだし」

「槍を手放しましたからね」

 呆れたように笑う黒髪の娘に、血に濡れた髪を掻き上げた若者は、仕方なさそうに肩をすくめた。


 一時は阿鼻叫喚のどん底に引き落とされた観客は、目の前で起こった出来事を呆然と眺めていた。

 突然現れた大きな獅子に、逃げ場を失い、これまでかとすら思った彼等だが、第三王子と綜家の末姫が現れた瞬間、事態は一転した。

 ほんの僅かな時間で、三頭もいた獅子を片付けてしまったのだ。

 しかも、怪我ひとつ負うことなく。

 これまで彼等の戦いぶりは話にしか聞いたことがなかった。

 彼等が剣を振るう様は、まるで武神将の様だと。

 それは、作り話のようなものだと思っていた。

 だが、今、目の当たりにした光景は夢ではない。

 安堵の表情を浮かべた彼等は、歓声を上げた。


 何だか妙に興奮している様子の観客に、熾闇は驚きの視線を向け、従妹に顔を向ける。

 頼りになる副官は、冷静に事態の鎮圧化に対する指示を次々と下していた。

「翡翠、あれ、何だと思う? 恐怖のあまり、気が変になったとか?」

 招待客達を指差し、こそこそっと声を落として尋ねてみる。

 聞こえないように配慮するだけ、まだ理性は働いているようだ。

「似たようなものです。気が触れたのではなく、恐怖から解放され、解放してくれた者を英雄視しているだけですから、始末に負えませんが。あなたは気なさらなくて結構ですよ」

「……そうか?」

「それより、王宮に戻って湯を使ってください。血を完全に洗い落とすまで、湯船に浸かってはいけませんよ。それと、香油を使ってくださいね。その臭いを漂わせたまま、宴へ出ては皆様に迷惑を掛けるだけですからね」

「……わかった」

 獅子を瞬時に倒した英雄は、まるで子供のように仕方なさそうにこくりと頷いた。

 彼の正体に気付けば、百年の恋も一瞬で冷めるだろうと、彼を知る武将や弟たちが思ったことは、彼等だけの秘密であった。

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