第2話 溶かしバター
翌日の放課後。
家庭科室では、甘いバターの香りが充満していた。来る文化祭に向けて、販売用の焼き菓子の試作が行われているのだ。
安和女子の家庭科部は、いわゆる「花嫁修業」の名残のような、のんびりした空気の流れる部活だが、その中核を担う二年生の三人組は、なかなかに個性的だった。
几帳面で責任感の強いまとめ役の部長・美樹。
冷静なツッコミ役の副部長・涼子。
そして、いかにも文化部らしい家庭科部で、なぜか一人体育会系のノリの突撃隊長・アキ。
「よし! 今日のマドレーヌは焼き色完璧! 次はクッキー生地ね!」
アキがボウルと泡立て器を両手に気勢を上げると、涼子がため息まじりに突っ込む。
「アキ、声が大きい。粉が舞うから振り回さない」
「はいはい、手順書通りに進めてね。オーブンの予熱、忘れないように」
部長の美樹がクリップボードを見ながら指示を飛ばす。
そんな賑やかな家庭科室の引き戸が、遠慮がちにカラカラと開いた。
「あの……ごきげんよう」
顔を出したのは、エプロンを手にしたまさ子だった。
一瞬、家庭科室の空気が止まった。
「……幻?」涼子がメガネのブリッジを押し上げる。
美樹が手順書取り落としそうになる。
「まさか、天然記念物の山本まさ子が現れるなんて……明日は雪ね」
「まーちゃーーん! 捕獲っ!!」
いち早く動いたアキが、勢いに逃げ腰となったまさ子の背後に回ってホールドした。
「ひゃっ! アキ先輩、くるしいです……」
「幽霊部員確保! 今日は逃がさないわよ! ほら、手伝って!」
「あ、あの、一時間だけしか……」
「却下! 焼き終わって片付けるまで帰しません!」
そのまま強引にエプロンを着せられ、まさ子は調理台の配置に組み込まれた。
しかし、一度食材を前にすると、まさ子の手つきは素人離れしていた。生地の混ぜ具合、温度管理、焼き上がりの見極め。日ごろ愛しい人のために磨いてきたスキルが、ここでいかんなく発揮される。
「すご……まーちゃん、何この生地の滑らかさ」
「本当ね。これなら文化祭で倍の値段で売れるかも」
美樹と涼子が感嘆の声を上げる中、アキは「でしょー!」となぜか誇らしげだ。
他愛のないおしゃべり。失敗して焦げた端っこのクッキーをつまみ食いして笑い合う。それは、まさ子がこれまで知らなかった、ごく普通の、けれどキラキラとした女子高生の時間だった。
すっかり作業に夢中になっていたまさ子は、ふと壁の時計を見上げて息を呑んだ。
(どうしよう。叔父さまに連絡した予定時間をとっくに過ぎています……!)
遅くなる連絡を入れることすら忘れていた。携帯電話は調理台から離れたロッカーの通学鞄の中だ。
(叔父さま、きっと心配していますよね……)
急いでボウルの洗い物を片付けようとしたその時、家庭科室の引き戸がカラカラと開いた。
「……失礼します」
そこに立っていたのは、邦明だった。その後ろには教頭先生。
約束の時間を過ぎ、メッセージを送っても未読のまま。電話をかけても呼び出し音が響くだけで応答がない。まさか途中で事故にでも遭ったのではないか――そう考え、まさ子の通学経路を逆に辿って、彼はここまで足を運んだのだ。
「お、叔父さま……!」
思わずまさ子がつぶやく。
邦明は、持っている中では一番小綺麗なブレザー姿で、まさ子が今朝アイロンをかけておいたワイシャツをきっちり着ている。目元に疲労の色は濃いものの、隠しきれない大人の色気と鋭い気配を纏った姿に、部員たちの大半は見とれてしまっていた。
そのただならぬ雰囲気に、部長の美樹がエプロンの裾を握りしめながら前に出た。
「あ、あの。山本さんの保護者の方でしょうか。今はクラブ活動中なので……片付けが終わるまで、もう少しかかります」
震える声ではあったが、一歩も引かない態度だった。
その言葉に、邦明はハッとしたように目を瞬かせた。
エプロン姿のまさ子と、彼女を真剣に守ろうとする部員たち。そこにある、ごく健全な放課後の光景を前にして、邦明は微かに気まずそうに視線を泳がせると、小さく咳払いをした。
「……ああ、いや。急にお邪魔して申し訳ない。まさ子、片付けを最後までして、気をつけて皆さんと帰ってきなさい。失礼しました」
邦明は丁寧に礼をすると、教頭先生にも深くお辞儀をして、踵を返して足早に廊下の先へと消えていった。
「え?」
アキが目を丸くする。
「私たちは幻を見たの?」
涼子がメガネを押し上げる。
「……いい叔父さんじゃない」
まさ子は、入り口を見つめて小さく微笑んだ。
「ほらまーちゃん、手ぇ止まってるよ! さっさと終わらせて、あの格好いい叔父さんのところに帰りなさい!」
アキに背中をバンバンと叩かれ、まさ子は「はいっ!」と、今日一番の笑顔で返事をした。
その夜。
帰宅したまさ子は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「叔父さま、ごめんなさい。連絡もせずに遅くなってしまって……ご心配をおかけしました」
ソファに座る邦明は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いや……俺の方こそ。君の友達の前で、恥ずかしいところを見せてしまった。済まない」
「そんなことありません。お迎えに来てくださって、嬉しかったです」
ふふっと笑うまさ子に、邦明は少しだけ表情を和らげた。
「……それで。今日は楽しかったか?」
「はい!」
「そうか、それはよかった。これからはちゃんと顔を出したらどうだ」
「……はいっ!」
これが、まさ子が人生で初めて「部活を優先した日」となった。
数日後。
放課後の教室で、詩織は自分の目を疑った。
まさ子が、クラスメイトの輪の中に混ざっていたのだ。
「えー、まーちゃん、今日も少しなら遊んでいけるの?」
「はい。今日は一時間だけですが。駅前のクレープ屋さんならご一緒できます」
「やったー! まーちゃん、何味好き?」
「私、やっぱりザラメのお砂糖がかかったシンプルなのが……」
少し的外れな回答で笑いを誘いながらも、まさ子は確実に「高校生の時間」を過ごすようになっていた。
詩織は、その光景を遠くから見つめながら、ふっと小さく笑った。
「……うん、それでいい」
誰に聞こえるでもないそのつぶやきは、まだ暑さを含んだ、けれど少しだけ夏の終わりを感じさせる風に溶けていった。
(放課後の道草・完)




