第1話 アップルティー
ホームルームの終わりの号令がかかった途端、教室の空気は一気に弛緩する。男子の目を気にする必要のない女子校特有の、気負いのない開放感。
手際よくいくつもの机が寄せられ、あちこちで色とりどりのポーチが開かれる。少し値の張るハンドクリームやヘアミストの香りがふわりと混ざり合い、重なり合う甲高い笑い声が教室を満たしていく。
話題はもっぱら、新作の韓国コスメや、週末にオープンする表参道のカフェについて。外部の予備校に通って受験科目の成績に目の色を変える一部の進学組を除けば、彼女たちの「今」は、この輝かしいスクールライフをいかに謳歌するかにかかっている。
そんな中、川野詩織は、自分の席から少し離れた斜め前の席をじっと観察していた。
そこにいるのは、この安和女子において「歩く妖精」あるいは「癒やしのマスコット」として独自の地位を築いている親友、山本まさ子である。
まさ子は、周囲の華やかな喧騒に巻き込まれることなく、それでいて誰かを拒絶するわけでもなく、ふんわりとした微笑みを浮かべながら、手際よくノートや筆箱を鞄にしまっていた。
「まーちゃん、この後の新作フラペチーノ、一緒に行かない?」
クラスメイトの一人が、ダメ元といった感じで声をかける。まさ子は手を止め、申し訳なさそうに小首を傾げた。
「ごめんなさい。今日はお家で、少し手のかかる煮込み料理を作る予定なので。お誘い、とっても嬉しいです」
「そっかー。でも、その手の込んだお料理って、誰のために作るの?」
「えっと……叔父さまのため、です」
「えー、叔父さん? まーちゃん、本当に色気ないなー。ねえ、うちの彼氏の友達とか紹介しようか?」
「えっ、あの、そういうのは……」
途端に顔を赤くしてうまく答えられずにいるまさ子を見て、声をかけたクラスメイトたちは「かわいいー!」とひとしきり盛り上がり、それ以上は深追いせずに自分たちの輪へと戻っていった。
まさ子は自慢もしないし、人を悪く言うこともない。ただ、ふんわりとした空気を周囲に醸しているだけ。だから誰からも好かれているが、彼女の極端に所帯じみたスケジュールと、高一にして受験生対象の東帝大模試で毎回上位にいるらしいという突き抜けた学力の前に、同級生たちはどう接していいか分からず、結果的に「可愛いマスコット」として遠巻きに愛でるという距離感に落ち着いていた。
鞄の金具をカチンと留め、いそいそと教室を出ようとするその後ろ姿からは、何の邪気も感じられない。まさ子自身も、そんな距離感を不満に思っている様子はなさそうだった。
「……まあちゃん。ちょっと待ちなさい」
教室を出たところで、詩織はまさ子の腕を掴んだ。
「あ、しいちゃん。ごきげんよう。明日また……」
「ごきげんよう、じゃないわよ。ちょっと付き合いなさい」
連行されたのは、学校近くの落ち着いたティールームだった。
まさ子は「夕食の仕込みが……」と少しそわそわしていたが、詩織が本気の目で睨むと、大人しくアップルティーのカップに両手を添えた。
「ねえ、まあちゃん。卒業アルバム、見返したとき、何が残ると思う?」
「え? 卒業アルバムですか? ええと……お写真が」
「違うわよ。今のあんたの生活だと、『この日はおじさんのためにハンバーグを焼いた』とか、『おじさんのマンションで過去問を解いた』っていう記憶しか出てこないってこと」
まさ子は、きょとんとしたまま首を傾げた。
「……それでは、駄目でしょうか」
「もちろん残るわよ、おじさんとの思い出は。でもね、高校生のまあちゃんは、高校生を一回しかできないの」
まさ子は、まだピンときていないようだった。
「文化祭。体育祭。合唱祭。放課後にみんなでコンビニでアイスを買い食いしたこと。くだらないことで笑い転げたこと。そういうのも全部、高校生活なの。大人になってからじゃ絶対に手に入らない時間なのよ」
まさ子のふわゆるな空気が、少しだけ引き締まった。
「おじさんは逃げません。でもね、高校生活は逃げるのよ。今しかないの」
ティールームの静かなBGMの中、まさ子はアップルティーの水面に映る店の照明の光をじっと見つめていた。
反論はなかった。「でも、叔父さまが……」という言い訳も口にしなかった。
しばらくの沈黙の後、本当に困り果てたように眉を下げて、詩織を見上げた。
「しぃちゃん。……どうしたら、両方できますか?」
その不器用で貪欲な問いかけに、詩織はふっと肩の力を抜き、笑みを浮かべた。
「あんたって子は……。いい? 何でも完璧にやろうとするから極端になるの。明日一日くらい、夕飯を少し遅らせたって、おじさんはひもじいってミィミィ可愛く泣いたりしません。あんたはたまには部活に顔出しなさい。それだけ」
「部活、ですか……」
まさ子は少し不安そうに瞬きをした。
「できればしぃちゃんも一緒に……」
「ああ、私は明日バイト。シフト入ってるから、つきあえないわ。悪いわね。大丈夫、あそこには、おじさんの重力圏からあんたを引きずり出せる、突撃隊長がいるから」
(了)




