新たなメイドと、帰還
朝の眠気でフワフワしていた気持ちが、ほんの一瞬で凍えるように冷える。
「……今、なんて?」
「はい。マエリスお嬢様の専属メイドであったリフィ様ですが、昨日付けで退職されました。お嬢様の専属メイドは本日より私、ミカが対応させていただきます」
そう言って頭を下げるのは、昨日第二夫人についていたメイド。
年はミシェルよりもやや下くらいに見えるが、肌は褐色ではなく黄白色であり、マエリスの前世の東洋風な雰囲気を感じさせるため正確なところが分からない。特徴的な薄紅色の、ガラスのように透き通る髪も若々しく見せる要因だろう。
……いや、そんなことよりも。
「それで、朝はいかがなさいますか?」
「いい、放っておいて」
「では朝食をお持ちしますね」
「要らない。一人にして」
「ですが──」
「くどいなぁ。ミカこそ、第二夫人の所に戻ったらどう? そっちも仕事は多いでしょ?」
怜悧と呼ぶにはなお冷たすぎる拒絶の視線。吹雪すら幻視しそうなその表情はまさに『悪役令嬢』だった。
しかしそれに晒された当のメイドは、困ったように眉を下げるだけで。
「ですが、リフィ様から『マエリスお嬢様が食事を拒否しても無理やり食べさせてください』と言われておりまして……」
「…………言いそうだね」
なんなら彼女の声で脳内再生すら容易だ。
その反応に毒気を抜かれたマエリスは振り払うように首を横に振って溜息を吐く。
「はぁ……ごめん、ちょっと寝起きで混乱してたみたい。改めて事情を教えてくれる?」
「あつっ……つまり、リフィは三日前からミカに引き継ぎをしていたってことなんだね?」
「ふーっ、ふーっ──はい、そうなります」
「それで、本来なら昨日からミカが担当する予定だったと……あつっ」
初めて故か微妙に冷ましきれていない粥を食みながら、マエリスはミカの説明を聞いていた。
「……昨日の担当は……ボクが起きたから……それでもその日の内に出発した……大事な用事? ……退職までする必要ある……? ……クビはあり得ない……脅迫……誘拐……? ん、ちょっと冷めてきた」
加速する思考から弾き飛ばされた断片が独り言として漏れ出る。
そして最後の一口を嚥下してから、マエリスはミカに尋ねる。
「ごちそうさま。ミカはリフィの退職理由とか聞いてない?」
「何も。ただ退職するとだけ聞かされました。旦那様なら詳しい事情をご存知かと」
「なら、聞いてみようかな。連れて行ってくれる?」
「我儘で旦那様を煩わせるのは、感心しませんが」
「……そういうタイプかぁ」
マエリスは呻く。
このミカというメイドは良くも悪くも職務に忠実だ。頑固と言ってもいい。
てっきり、あの第二夫人と一緒にいた上、お金をもらって不正を見逃しているのだから不真面目かと思っていたマエリスは、己と相性が悪い相手に困っていた。
(いや、良すぎると言うべきかな。お父様がわざわざ貴族の最高機密を握らせるんだもんね……さすがはリフィが選んだ相手)
「私が勤めてまだ数年程度ですが、リフィ様がマエリスお嬢様を大事に想われていることは理解しています。そのリフィ様が黙って行かれたのですから、相応の理由があるのでしょう。
お嬢様は理由を知って、どうされるおつもりですか?」
「……まあ、それはそう、なんだけど」
ただ父親に話を聞きに行きたいと言っただけで、思ったよりもガチな理屈をぶつけられてマエリスは少し凹んだ。
「マエリスお嬢様は病み上がりです。今は十分に休み、体調を取り戻すのが仕事です」
「……初対面の侯爵令嬢にそこまで言うの、すごいね」
現実逃避気味に、あるいは白旗を上げるようにマエリスがそう言うと、ミカはそこで初めて柔らかく表情を崩した。
「昨日の様子を拝見しておりましたので」
「昨日?」
「アナスタシア様から母君を庇い、ぶたれても騒がなかったお姿です。そちらを拝見して、お嬢様は『話せる』人だと考えました」
「…………ふぅん」
「それでは、失礼します」
ミカが一礼し、寝室から出ていく。
静かになった室内。マエリスはポツリと人物評を漏らした。
「バリキャリウーマンって、感じだなぁ……」
それは神界でアルスを見た故の感想か。
……いや、あそこまで人間を捨ててはいないか、と。
ベッドからは机にある資料に手が届かないため、マエリスは再度眠りについた。
寝起きから間もない、浅い眠りだった。だから少しの物音でもすぐに目が覚める。
瞼を開ける。窓から入る光の角度から、一、二時間程度は経ったのではなかろうか。
何の音だったか。あるいは光か。何で起きたのかも分からない微弱な刺激で、マエリスの意識は微睡から浮上する。
朝は空いていなかった窓が開いていた。今は無風のようで、カーテンはただ静かに内と外の境を曇らせている。
ただその中に。時が経ってもなお見間違えるはずのないシルエットが横切っていくのを見た気がして。
「……マノン?」
自分でも驚くような、掠れるような小さな声。増して窓が開いているとはいえ部屋の中と外、相手に聞こえるはずがない。
なかったのに、そのシルエットは立ち止まる。
不自然な沈黙。やがて草を踏みしめる音と共に、そのシルエットは徐々に大きく濃くなっていき──
「お姉ちゃん……?」
そとからカーテンを開けて中を覗き込んできたのは、ああ、良く見覚えのある少女。
神界のパッケージで、あるいは『魔の森』で見たままの白い少女。
しかし黒い目隠しが己の妹だと証明する、少女。
「やっと会えたね、マノン」
(今のボクは、マノンにどう映るのかな)
その時のマエリスは、果たして笑えていただろうか。
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