揺蕩の失態
「う……んぅ……?」
クオンの眼が、瞼から零れる外の紅い光を捉えた。
ゆさ、ゆさと躯が揺れ動く。
どうやら、暖かい何かに掴まっているらしい。
身体の正面から、暖かさと少しの柔らかさを感じ取っていた。
その暖かさと柔らかさは、何処かクオンには懐かしく、心地のよいものだった。
(おひさまの……匂い……なのです……。)
クオンの鼻腔を満たすのは、クオンがとても大好きな匂いだった。
深く息を吸うと、すっきりとした甘いような香りが満ちる。
その匂いは、クオンの頭を蕩かすようにじんわりと頭へ染み込んでいった。
暖かさと、柔らかさと、いい匂い。
クオンにとってそれらは懐かしくて、言葉に出来ない程に身体が求めているような気さえあった。
それらが重なり、ずっと掴まっていたいとすら思える程に、クオンにとって居心地が良かったのだ。
思わず、ぎゅっと力を込める。
大好きな匂いが、強くなった。
自身を包み込む心地のよいものに、身を任せたかった。
どうやら自分は寝ていたらしいと、クオンは気が付く。
夢を見ていたような気もするが、ほぼ何も覚えていない。
なんとなく幼い頃の出来事だったような気もするのだが、考えるよりも目の前の心地良い快感に身を委ねたかった。
耳を澄ますと、「はぁ、はぁ」という荒い自分以外の呼吸音が聞こえていた。
(……だれ……なのです……?)
気になって、ゆっくりと目を開けた。
「あ、クオンちゃん起きた!」
「ひ、ひゃいっ……!?」
目の前を飛ぶ、小さくて翅の生えた女性が、玉蜀黍のように黄色い眼でクオンの眼に飛び込んできた。
あまりの驚きに、クオンは目を見張って顔を引き攣らせてしまう。
クオンの表情に吃驚したのか、翅の生えた女性もびくりと身体を震わせた。
「ちょ……ちょっとー! いきなり叫ばないでよー! 吃驚したじゃん!」
目の前でぷんぷんと頬を膨らませて不満げな女性に、クオンは自身の記憶を探る。
女性の姿に見覚えはあったからだ。
(……えっと、確か……わたしは大嫌いな奴に助けられたはずなのです……。その時にいっしょにいた……。)
自身の身に起こったことを、クオンは思い出そうと頭を捻る。
大嫌いな兄に命を助けられ、その傍に飛んでいた魔獣?の女性。
確か、名前はキューといっただろうか。
「キュー、さん?」
「ごめいとーう! よく眠れた?」
クオンが名前を呼ぶと、キューは先程までの不満げな表情はどこへやら。
クオンに向かって、天真爛漫な笑みを浮かべた。
あまりの変わりぶりにクオンは一瞬困惑するものの、こくんと肯いた。
「そっかー。疲れてたもんね、クオンちゃん。……レッくん、クオンちゃん起きたよ。」
「わかってるっての。キューと話してる声が聞こえたからな。……本当に大丈夫かよ、クオン。」
「……え?」
兄の声が聞こえたのは、クオンのすぐ前。
クオンは兄の声で酩酊したような意識を咄嗟に覚醒させた。
ぱっと目を開く。
左目のみの狭い視界だ。
周りの光景は、薄暗く、紅い溶岩が照らす隧道の中だった。
そんな中、クオンは誰かにおぶられていた。
目の前に見えるのは、橙色の髪。
紛う筈もない。
クオンは、大嫌いな奴におんぶされて運ばれていたのだ。
「にっ、にいさん!? なんでわたしをおんぶしているのです!?」
戸惑いを隠せず、クオンは大声で叫びを上げる。
目をぐるぐると回して、頭の中に思考が飛び回っていた。
(なんでなのです!? おんぶされてるのです! 嫌なのです! 気持ち悪いのです! ……でも、いい匂いなのです……。すごく、あまくて……。ってそれは駄目なのです! わたしには、リュウジさまが……でも、あったかいのです。こっちのほうが居心地が……ちがう。ちがうのですっ……!)
混乱からかまとまらない思考。
だがそれでもクオンの左手はレクスから離れようとすらしていない。
抵抗しようにも、疲れからなのか力が入らない。
見ることも、触ることすら嫌なはずなのに、何故か身体は兄を拒絶していない。
それどころか、居心地の良さにクオンの身体は嬉々としてレクスのおんぶを受け入れているのだ。
幼い頃によくしてもらった兄のおんぶ。
心は拒絶していても、身体は覚えているのか。
心の声を聞かない身体に、クオン自身が戸惑っていた。
しかしそんなクオンを知ってか知らずか。
レクスは口元を上げて朗らかに笑いながら、くいっと顔を後ろへと向けた。
「なんでって……そりゃ置いてく訳にゃいかねぇだろ。でも、皆心配してるし、さっさと出なきゃいけねぇんだ。立ち止まってる暇もねぇ。進むにはこうするっきゃねぇと思ってよ。触るのも嫌かも知れねぇけど、我慢してくれ。」
「そ、それくらいなら今は我慢するのです! で、でもなんでおんぶなのですか!? 起こしてくれればわたしは……!」
「あんなぱんぱんに脚張ってんだ。無理すんな。気持ち良く寝てたじゃねぇか。起こすのも偲びねぇしよ。疲れてんだろ。にいさんに任せて、ゆっくり休んでてくれよ。」
「そ、それは助かるのですけれど……。でも……。」
「いーじゃん。レッくんの言葉に甘えなよ。ずっと歩きっぱなしだったんでしょ? レッくんに任せて、身体を休ませなきゃ。ね?」
クオンの声を遮るように、キューがぱちこんとウィンクを放つ。
キューの放つ視線に、クオンはばつが悪そうに眉を顰めた。
「キューさんまで……。キューさんも、にいさんの味方なのですか?」
「「味方」っていうか、何だろ? 「せんゆー」かな? クオンちゃんにも、レッくんにも。なんか懐かしい気がするんだよね。ぼくの直感、かな? だいじょーぶ! とって食べたりなんてしないから……多分。」
戯けたように答えるキューの回答も、ふわふわとした曖昧なものだった。
だが、レクスの言葉も、キューの言葉も。
どちらも正しいことを言っていることは間違いがなかった。
それでいて、二人ともクオンを気遣っていることは言われなくてもクオンにはわかっていた。
どう答えようと、二人は頑なにクオンを休ませようとしそうな雰囲気すらある。
クオンは諦め、レクスの背中自身の身を預ける。
年不相応の豊満な山を、むにゅんとレクスの背中に押しつけるようにしなだれかかった。
クオンの鼻腔を、ふわりと「おひさまのにおい」が満たし、蕩かすように擽る。
(嫌なのに……虫唾が走るのに……すごく、いい匂いなのです……。)
揺り籠のような心地良い感触と、レクスの自身と同じ体温、そしてダンジョンに入ってから蓄積した緊張が解き放たれたことによる疲労。
それらが合わさり、クオンの瞼を落とし込んでいく。
しかし、その瞬間。
ぞわり、とクオンの背中に寒気が走った。
恐怖などではなく、生理的なもの。
クオンの身体が、ぶるりと震えた。
こみ上げる急激なそれに、クオンの顔からはさっと血の気が引く。
「……下ろしてください、なのです。」
「ん? どうした、クオ……。」
「は、はやくするのです!はやくおろしてくれないと……!」
クオンはレクスを引き剥がすように、慌ててじたばたと身体を動かす。
急なクオンの変化に、レクスも戸惑っているようだった。
「ちょ……。落ち着け、クオン。一体何が……。」
「クオンちゃん!? 大丈夫!?」
「落ち着いていられないのです! はや……くぅ……。」
それ、は至極当たり前のことだった。
人間が生きていれば誰しも日常的に行う行動であり、それをしなければ身体が訴えてくるもの。
クオンはダンジョンに入ってからというもの、気が休まる暇も僅かであった。
リュウジとの行軍では、休憩すらもほんの少しだけ。
皆と逸れて一人になってからは休憩すれば恐怖の囁きに襲われる為、休憩なぞ碌にできたものではなかった。
故に、レクスに助けられて安心してしまったことがあるのだろう。
花の乙女として、それだけは避けたかった。
じたばたと藻掻くクオンの身体を支えようと、レクスもクオンを抱え込もうとするのは必然なことだった。
それが、クオンにとって不幸な事故に繋がってしまったのだ。
「はや……く……はな……し……て……。……あっ……。」
ふっ、と。
クオンの身体から、力が抜けた。
ぞわりぞわりと、クオンの頭に向けて開放感という名の快楽が押し寄せる。
「あ、ああ………あ…………。」
クオンは、身を任せる他なかった。
スカートが、しとどに濡れていく。
兄の服やズボン、襤褸切れのようなローブを濡らしながら、水が黒く染まる地面に流れ出していた。
「……あー。……ごめん、ね。クオンちゃん。気づいてあげればよかったね……。」
それを見たキューは申し訳なさそうに視線を彷徨わせた。
兄は、ただただ黙って歩き続けていた。
「……うっ……うええっ……。にいさんの……ばか……。」
罪悪感と羞恥心が渦巻く中で、ぽつりと言葉を溢す。
無様で、情けなかった。
ぽろり、ぽろりとクオンの眦から大粒の雫が溢れ落ちていく。
左手で、ぎゅっと兄の服を掴んだ。
「……ごめん、なさい。……なのです。」
「いいんだ。俺が気がつかなかったのが悪ぃ。……どっかで休めそうなとこでも探すか。クオンもそのままじゃ、気持ち悪ぃだろ?」
兄の声からは、嫌悪感や侮蔑すら微塵も感じない。
いつも聞いていた、優しい声だった。
それが、クオンの胸には痛かった。
いっそとことん責め立ててくれた方が、クオンには有難かったのかもしれない。
嫌いなのに、嫌なのに。
包み込んでくれるような優しさが、辛かった。
「……ごめんなさい。ごめんなさいなのです……。ううっ……うえっ……うえぇぇぇぇぇぇぇ……。」
「いいさ。……クオンが生きてる証拠だろ。どうせ服は汚れるもんだ。構いや、しねぇよ。」
レクスがちらりと、顔をクオンへ向ける。
その表情は、優しそうに微笑んでいた。
まるで、兄として当然のことだと言うように。
水滴を滴らせ、レクスは歩き続ける。
泣きじゃくる妹を背負い、きらめく妖精を傍らに置いて。
溶岩の熱気が蠢き、纏わりつくような薄暗く不気味なダンジョンの中を。
レクスに背負われながら、クオンは進む。
それは、いつの日だか。
幼い頃に兄に背負われた感触を、思い出すようだった。
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