翡翠の孤独
肌を撫でるのは、べたつくような湿度だった。
同時に、焼けるような熱気が身体を包む。
目を開いた。
翡翠を宿した瞳の前に映り込むのは、道の両脇を紅く緩やかに流れゆく溶岩と、黒い窯壁の如き岩肌の延々と続く壁。
”ウオオオオオオオオオオン”と。
空間の中を時折流れる風が、名状し難き魔獣の咆哮のように洞窟の空気を震わせる。
前を見ても後ろを見ても、黒く歪んで伸びる洞窟の光景に変わりはない。
ゆっくりと首を回す。
自分以外に誰の姿もない。
溶岩の光が先へ先へと道を示すように輝きを放っていた。
「ここ……は……どこなのです……? まだ、ダンジョンの中なのですか……?」
拡がる光景に、クオンは戸惑いを隠せなかった。
皆で地上へ帰還するつもりであったのに、目の前に拡がる光景は今までいたダンジョンの光景から何一つ変わっていなかった。
結晶に触れる直前に、ノアに言われた言葉が頭を駆けた。
『……クオンちゃんには、ここで死んで貰おうかなって思うの。』
どきりとして、胸元に触れる。
年齢とは不相応に、豊満すぎるほど実ったたわわな胸元の間で、どくん、どくんと生命の鼓動が刻まれていた。
「ノアさんは、なんであんなことを言ったのです……?」
自問するが、答えは出ない。
だが間違いなく、死んではいないことだけはクオンの心臓が証明していた。
考えても仕方がないと思い返し、クオンは一緒にダンジョンに入った少女たちの名を叫んだ。
「リナおねえちゃーん! カレンおねえちゃーん!」
声を上げるが、誰の声も帰って来ない。
視線を泳がせながら、クオンは再び大声を上げた。
「りゅ……リュウジさまー! どこなのですー?」
クオンの声は、洞窟内部を寂しく反響するだけだ。
「だ、誰かー! 聞こえないのですかー! 誰かー!」
幾ら声を響かせようと、返ってくるのは洞窟に響く不気味な風だけだった。
こぽこぽと溶岩から鳴る気泡のはじける音が、無情にもクオンの置かれた状態を示していた。
「だ、誰も……いないのです……?」
クオンの顔が青褪める。
灼熱が満ちた洞窟の中、自分以外は誰も居ない。
ただ一人だけ取り残されたのだと思うのは、自然であっただろう。
そう自覚した瞬間、クオンの背中にぞわりと怖気が走る。
「い、いや……いやなのです……!」
誰も居ない、自分だけ取り残されたという事実を悟ったクオンの身体は、がくがくと震えだした。
怖れながら、辺りを見渡す。
姉同然に慕っていた少女たちもいなければ、頼りになる勇者の姿も何処にもない。
少女の心を、さざ波のように恐怖が浸食していく。
いつ、何が起こっても可怪しくないダンジョンの中で、クオンはひとりぼっちになってしまった。
その事実は、少女の中に昏い影を重く落とした。
「は、早く出ないといけないのです……。」
恐怖心を抑え込み、一歩前に足を出す。
ダンジョンの中では、集団行動が鉄則だ。
何が起きても即時に対応するため、二人以上で行動する方が良いことなど、ダンジョンに潜ることなどなくとも冒険者の中では定説であった。
パーティのメンバーで役割を分担し、警戒を怠らずに進んでいくことが重要であり、単独でダンジョンに挑むことは自殺行為にも等しいとされる。
そんな鉄則を外れ、クオンはただ一人だけ。
ごつごつと尖った岩場を踏みしめ、足を進める度に、クオンの恐怖心が肌を伝う。
濡羽色のツーサイドアップも、心なしか下がっているようだった。
”ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!”
「ひぃっ……!?」
突如響き渡った音に、クオンはその身を強張らせた。
おそるおそる辺りを見回すが、魔獣の影も見当たらない。
響き渡る音は、魔獣の声なのか、洞窟を流れる風なのか。
鳴るのは、自身の足音なのか、魔獣の足音なのか。
一つ一つの音や気配にひたすらに怯えながら、クオンは一歩一歩ゆっくりと足を進める。
クオンの頭の中では、不安と恐怖心が波を立てて荒れ狂っていた。
(み、みんな……何処に行っちゃったのです……? わ、私だけ、置いていかれたのですか……? な、なんで……!? こ、こんなところで死んじゃうのは……嫌なのです……!)
身体に纏わりつく灼熱の空気がクオンの恐怖心をさらに煽る。
背負った矢筒に手を当てた。
入っている矢の数は二十本にも満たなく、心許ない。
元々弾丸進撃前提のプランニングを行っていたリュウジは、一気に魔獣を殲滅して、勢いをそのままにダンジョン攻略へと進めていく計画立てていた。
そんなリュウジの言葉を信じたクオンは、持っている荷物も最小限だった。
僅かな食料に、替えの弦や応急処置の包帯、下着などであり、背嚢どころかサイドポーチ程度の荷物だ。
ダンジョンに入るならば、荷物の量が全く足りていないと言われる程だろう。
しかしクオンがそんな知識を知るはずもない。
リュウジのダンジョン攻略計画に則って準備をした程度なのだから。
身体を縮こませてクオンは歩く。
時折岩陰に身体を潜め、辺りを見渡しながらの一人旅だ。
幾ら恐怖心に駆られて居ようと、リナとカレンと受け続けた無謀な依頼はクオンの行動に現れていた。
岩陰に隠れると、ふぅと息を吐き出す。
(……どうして、なのですか? どうして、私が……置いていかれたのです? なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……。)
考えても、冷え切らない頭の中では答えが堂々巡りするだけだった。
汗ばんだ掌をぎゅっと握る。
胸の動悸が指の先まで伝わっていた。
『……クオンちゃんには、ここで死んで貰おうかなって思うの。』
フラッシュバックした、ノアの言葉。
頭に響く冷ややかな声色に、その場でクオンは屈み込んだ。
追い打ちをかけるように、心の中のノアが耳元で囁く。
『あなたは《《用済み》》ってこと。……邪魔だからとっとと消えて。』
がくがくと身体の震えは増していく一方であり、ノアの言葉は楔のように頭の底へ刺さり込んでいた。
思い出す度に、クオンは視界が揺れ動くような不快さに駆られた。
「そ、そんなわけ……ない……のです……。わ、私は、リュウジ様……の……為に……。」
収まらない戦慄きにクオンは青い顔で自身の身体を抱き締める。
リフレインするノアの言葉が、クオンの心をぐわんぐわんと揺さぶり続けた。
しかし、クオンはぶんぶんと頭を振ってその考えを振り払う。
(……リュウジ様は、私が絶対に役に立つって分かってくれるはずなのです。リュウジ様もちゃんと話せば分かってくれるのです。……だから……。)
クオンは立ち上がり、岩陰から道の先を見つめた。
幸い魔獣の姿はなく、紅い溶岩が相変わらず道を示すように流れているだけだった。
「……はやく……でないと……いけないのです……。」
震える身体をどうにか抑え込み、クオンは一歩一歩、洞窟の中を彷徨いながら進む。
今まで、クオンの傍には必ず誰かの姿があった。
だが今は、誰の姿もない。
正真正銘、クオンただ一人でダンジョンを歩くしかないのだ。
いつ何時魔獣に襲われるのかわからない、精神をおろし金にかけられるような苦痛を、クオンは再び味わう事になった。
恐怖心を和らげるような相手もいなければ、周りに頼ることの出来る人物は一人も居ない。
守ってくれる人は、ここには誰も居ない。
孤独感に不安が募り、死を待っているような恐怖心に押しつぶされそうになっていた。
歩けど歩けど続くダンジョンは先が見えない。
呼吸が荒く不規則になり、激しい動悸も起こる程だった。
心臓の鼓動が耳元にまで煩く伝わる。
気を抜いて魔獣に襲われてしまえば、クオンはひとたまりもないのだ。
命が紙くずのように軽いものだ、と。
ダンジョンの中で見てきた光景が、クオンの中で蘇る。
あれほど強かった人たちが軽々と死にゆく脅威を、クオンはその翡翠の眼でありありと見てしまったのだから。
次は自分かもしれない、と思うことは至極当然のことであった。
時折ある岩陰が、クオンにとって唯一休める場所になっていた。
だが岩陰で休めども、直ぐにノアの言葉で現実に引き戻され、過呼吸や動悸に襲われる。
また立ち上がれども、今度は孤独感と死への恐怖心に再び曝される。
その繰り返しだ。
「はやく……かえら……なきゃ……なの……です……。」
ふらふらと、ふらふらと。
縋る藁をも探すように、希望を求めてクオンはダンジョンの出口を求めて彷徨い続ける。
奇しくもその姿は、王都に着く前にダンジョンを彷徨い歩いていた頃の義兄と酷似していた。
お読みいただきありがとうございます。




