12
もうだめかもしれない、とマリリーズは思った。いるはずのないエリクがそこに見えてしまったのだ。幻聴だけでなく幻覚まで見えるようになってしまった。これは一大事である。
「夢……まぼろし……?」
「いやいやいや、実体」
声まで聞こえた。だめかもしれない、ではなく、もうだめだ。
「まさか、エリク様、お亡くなりに? いや、わたしが……?」
「なんでそうなるんだよ」
「だってここにいるはずがないから。何かがあって魂だけ飛んできたのかも、なんて……」
「勝手に殺すな。俺もマリーも生きてるし、夢でもない。ほら」
エリクがマリリーズに近付いて、頬を軽くつねる。痛いほどではないけれど感覚があった。エリクの手が温かくて、本当にここにいるんだと理解はした。
それでも現実味がなくて、この人、手加減を知ってるんだな、なんて、非常にどうでもいいことに思考が飛んだ。
「わかったか?」
「生きてる? 本当にここにいる?」
「いる。マリーに会いたくて、戻ってきちゃった」
「え……?」
マリリーズは今度は自分の頬を引っ張ってみた。今度はしっかり伸ばしたので、それなりに痛みがあった。どうやら夢じゃないというのも本当らしい。次にエリクの頬に触れてみる。すり抜けたらどうしよう、なんて思ったけれど、そんなことはなく、彼の頬に触れた。
そしてハッとして手を離す。
「ご、ごめん、手、臭かったかも」
「手?」
「ブチに……えっとそこにいるヤギの名前なんですけど、ブチに草をあげてたところで」
ブチに舐められた手のままで触れてしまった。濡れてはいなかったけれど。
エリクは一瞬不思議そうな顔をしてから、クッと笑った。
「気にするところ、そこ?」
「たしかに、今はそれどころではない気がします」
「だよな。久しぶりの再会なんだから、元気にしていたか、から始めるのがいいと思うが、どうだろうか」
それもそうだ。圧倒的にエリクが正しい。
「とりあえず、ここにいるということは無事に卒業できたということだな?」
「はい、そこは頑張りました」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「うん」
「ええと、なんで……?」
もはや何を聞いたらいいのかもわからなくなって、かなり抽象的な質問になった。エリクはもう一度小さく笑ってから答えた。
「だから、マリーに会いたくなっちゃってさぁ……というのは置いといて真面目に答えると、婚約がなくなってしまったんだ。だから俺はあちらの国にいる必要がなくなって、戻ってきた」
「婚約が、なくなった?」
「全部説明すると長くなるんだけど……」
エリクはマリリーズが先程まで触れていた頬をポリポリと軽く掻くと、小さく息を吐いた。
「まず、エインズワースに到着したら、婚約相手のはずのあちらの王女がいなかったんだ」
「……はい?」
「大変だったよ。エインズワースに入ってみたら、理由も説明されずに王都ではない別の都市に留められて動けなくてさ。しばらくしてようやくあちらの王宮に行けたんだけど、どうやら王女が逃げたらしいって」
「逃げた?」
エリクは小さく肩を落として説明を始めた。
エリクの婚姻相手のはずだった第三王女には恋人がいたらしい。それ自体は褒められることではないにしても、醜聞と呼ばれるほどのことでもない。なにせ婚約が決まる前からの話だそうだ。節度のあるつき合いならば、恋のひとつふたつしたところで咎められることでもない。
貴族の結婚は政略的なものが多い。だから結婚前に結婚相手とは別の思う相手がいるというのは珍しいことではないし、恋人と別れて家のために結婚するというのはよくある話だ。それが良いとは言わないにしても、そういうものだという認識は貴族の中にはある。
だから王女に関しても、そこで恋人と別れて王女としての務めを果たせば問題なかった。だけどそうではなかった。
エリクが来ることを知って、彼女は恋人と駆け落ちというやつをしてしまったのだそうだ。
エリクを王女の婚約者として呼んでいるのに、その王女がいなければエインズワースにとって大変に都合が悪い。エリクが別の都市に留まっている間になんとか探し出そうとしたが結局見つからず、さすがにエリクをずっと地方都市に留めおくわけにもいかずに、三ヶ月ほどたってからようやく王宮へ招いたのだとか。
「どうやら王女の両親である国王夫妻は、想い合う相手がいることは知っていたそうなんだ。だけど結婚となれば、王女の身分でそれは許されない」
それはそうだろう、とマリリーズは思う。残念だけど、政略結婚が多い貴族間ではむしろ想い合う相手と結婚できるほうが少ない。王族となれば尚更だ。
「俺が卒業後すぐに向かったのは、王女を早く諦めさせるためだったらしいよ。婚約者として会えばさすがに諦めるだろうって。ついでに心変わりするかもっていう期待もあったらしい。ほら、俺、このとおりの見た目だからさ」
エリクはそう言ってキメ顔を作って見せる。だけどマリリーズは以前みたいに笑うことも、ジト目で見ることもできなかった。
「あれ、予想と違う反応……」
「ちょっとやつれたなって。苦労したんだろうなって思ってしまって」
エリクは苦笑する。だけど否定はしなかった。
結局、エリクが早めに出発したのは逆効果だったらしい。エリクが向かっているという情報を得た王女は急いで駆け落ちし、行方知れずになってしまった。
エリクは王宮についてからも、王女が体調を崩していると言われて会わせてもらえなかったそうだ。その間にあちらは必死に探したようだけれど見つからず、さすがにこれ以上伸ばせないと観念して正式に謝罪されるに至ったらしい。この時点でエリクが出発してからすでに半年だ。
「ひどい……」
マリリーズが呟くと、エリクは苦笑した。
「ひどいよなぁ。早く呼んだのはあちらなのにさ、結局俺は待ちぼうけ。まぁ待遇は悪くなかったし、地方都市でも王都でもたっぷり観光して楽しんでやったよ」




