入れ替わり生活開始 3
リリーが外に出られたのは夕方近い午後だった。
まだ雪はちらついているが、フォークナーでは毎日この時間は比較的、風が穏やかになるそうだ。山中の修道院との違いが面白い。
迎えに来た辺境軍の兵士に見張ら……護衛されながら、リリーは意気揚々と塔の階段を降り始める。
(けっこう高いところにいたのね)
螺旋階段なので、実際に何階なのかは分かりにくいが、降りても降りても下に着かない。階段自体は修道院の鐘塔より幅も広いし、歩きにくいこともない――はずだったのだが。
「ひゃっ!?」
足がもつれた。
後ろからとっさに伸びてきた腕に支えられなければ、転がり落ちるところだった。危機一髪である。
(あっぶない……!)
入れ替わり発覚でもなく魔力暴走でもなく転落死だなんて、絶対コーネリアに怒られる。
バランスを立て直せずに見張り兵に抱えられたまま、飛び出してきそうな鼓動を宥めていると、頭上から声が降ってきた。
「王都のご令嬢は、階段も満足に降りられないのか」
呆れた口調で嫌そうに言われて、ハッと気がつく。
(ご令嬢って……あっ、そうか。私の体じゃなかったね!)
階段に慣れているのはリリーであって、コーネリアではない。うっかり心に引っ張られるが、体力も筋力も違うはずだ。
部屋の中にいるときはそこまで気づかなかった体に対する違和感が、改めて襲ってくる。まだ動けないリリーに見張り兵が分かりやすく溜息を吐いた。
「外に行くのは止めるぞ」
「えっ、だ、大丈夫です、わよ! 行きますわ!」
安定感ある彼から慌てて離れて、どうにか自力で立つ。壁に手をついて、今度はゆっくりと降り始める。
(本当の私なら、駆け足でも行けるのにな)
散策に許された時間はほんの半時だ。移動で時間をかけていられない。お嬢様らしく優雅に進みながら、焦る心をごまかすように後ろの彼に話しかける。
「しばらく伏せっていたから、ちょっとつまずいただけよ。でも、助かったわ。ありがとう」
「……」
礼を言うが、返事はない。
リリーの散策には、武術と魔術に長けた兵が付き添うとティナから聞かされていた。迎えに来たこの兵士は、二十代半ばくらいだろうか。薄い金色の髪で焦げ茶の瞳と分かるものの、深く被った制帽で顔は隠れぎみだ。
無愛想で、領主の奥様に対して敬意があるとは思えない。
が、王命で仕方なしに結婚したというコーネリアの立場や、昨日のディランの言動と合わせて考えれば、部下がこういう態度でもまあ納得である。
(でも、コーネリア様って綺麗だし優秀だし。春までになんとか打ち解けられればいいなあ)
リリーには、貴族の結婚など分からない。
そもそも修道院育ちの見習い修道女だ、結婚の予定もないし、孤児だから夫婦のあれこれも知らない。
けれど、コーネリアは縁あってこのフォークナーに来た花嫁だ。
以前は王太子と婚約していたというが、別に王太子のことは好きでもなかったときっぱり言っていた。それなら、ここでディランと仲良く領地を盛り立てていってくれればなによりだ。
ご近所の繁栄は聖ギルベリア修道院の安泰にもつながる。
そのためにも、リリーがここにいる間に、少しでもコーネリアが領主夫人として受け入れられるよう、なにかしたいと思ってしまった。
(だって……誰も信じてはいけない、なんて。寂しすぎるでしょ)
昨夜のコーネリアの言葉が忘れられない。
これまではそうでも、これからは違ったらいい。
それに、雪解けの春まで約半年。秘密を抱えてこそこそする以外の、なにか明るい目標がないと自分も鬱々としそうだ。
(入れ替わりのことは言えなくても、やれることはあるよね!)
よし、と小さく拳を握る。後ろから兵士が怪訝そうに見ていたことに気づかないまま、リリーは結構な時間をかけて階段を降り切った。
外は見事に雪景色だった。
地面はすっかり白で埋まり、雪の深さはすでに膝下まで届くほど。城からこの塔に繋がる道にいくつか足跡があるが、あとはまっさらな雪で埋まっている。
(はーー、しっかり積もってる! 無理、帰れないわ、納得!)
麓の平地でこれなのだ。修道院までの山道がどうなっているか、容易に想像がついてしまう。
「見て納得したか。気が済んだのなら戻るぞ」
「えっ、外に出たばっかりよ」
「どこを散歩するつもりだ? お前のために雪を掻く者などいないのに」
たしかに、塔の周りに道はない。けれどそれがどうしたというのだろう。
「いいわよ、みんな忙しいでしょ。私は歩けるもの」
言うなり、リリーはずぼずぼと雪に入っていく。
「お、おい!」
(こーんな立派なブーツなら、どこまででも行けちゃうもんね!)
リリーは今、城のメイドが着る外套と靴を身に着けている。部屋の木箱にはコートも手袋もなかった。ワンピースドレスのままで出ようとしたら、渋い顔をしながらこの兵士がどこからか持ってきてくれたのだ。
うきうきと身につけるリリーのことを疑わしそうに見ていたが、気にすることはない。
ちょっと重いが、修道服のマントよりずっと暖かだ。こんな服を与えられるなんて城勤めは待遇がいい。ティナも喜んでいるだろう。
雪の中をずんずん進むリリーを、兵士が慌てて追いかけてくる。
「とんだじゃじゃ馬だな」
「ねえ、そういえばまだ名前を聞いていなかったわ」
振り返り見上げると、意外そうに見下ろす瞳と目が合った。
「これから毎日、散歩に付き合ってくれるんでしょう? 『見張りの人』とか『兵士さん』って呼ぶのも変よね」
「……」
言いたくなさそうにするから、ちょっといたずら心が湧いた。久々に外の空気に触れて、気が大きくなったかもしれない。
「教えてくれないなら勝手に決めるけど。その髪色に焦げ茶色の瞳……そうね、『テディ』はいかが?」
可愛らしい愛称で呼べば、眉間にシワを寄せて睨まれた。それが臍を曲げた時のコリンと同じ表情で、ついふふっと笑ってしまう。
「ディ……デリックだ」
「そう。よろしくね、デリック。私が襲われた山はどっちにあるのかしら」
「……向こう側だ。もう少し進まないと見えない」
「じゃあ、今日はそこまでは行くわ」
木々に囲まれて建つ小さな聖ギルベリア修道院がここから見えるわけはないだろうが、気配を感じたい。
デリックにくるりと背を向けると、リリーはまた足を進めた。
雪がなければあっという間の距離のはずなのに、息が上がる。この体、思ったよりも体力がない。
(寝不足のせいもあるか。今日は痛くならないといいなあ)
不意に襲ってくるあの痛みと苦しさは、本当に嫌だ。でも、コーネリアはそれを乗り越えて自在に魔力をコントロールできるようになったのだろう。
ならば、魔力操作は体力云々の問題ではないはずだと思い直す。
(……コーネリア様も頑張った、ってことだよね)
ほんの二晩の痛みで挫けそうになっている自分を叱咤して、リリーは足を動かす。
吐く息にまた降り始めた雪が混じりだすころ、ようやく山裾の一端が見えた。そこまで高くない山だが、中腹から上は雪雲に隠されてしまっていた。
「あの山だ」
「……そう」
外套の上から、胸に下がるロザリオをそっと押さえる。
(院長先生、みんな、それにコーネリア様。私、なんとか春まで頑張るから!)
吹き付ける冷たい風に黄金の髪が靡く。
小さく唱えた聖句も、リリーを確かめるように見つめるデリックの視線も、急に強くなった雪にかき消されて初めての散策は終わった。




