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翌日、和巳は陸上部の練習を見学させてもらった。
陸上部に誘ってくれたクラスメイトや上級生たちがトラックを駆けている。
肩で息をしているように見えるが、おそらくそういう作法か何かだろう。肩で息をするにしては、あまりにも遅すぎる。陸上部は走る専門の部なのだ。この遅さなのに肩で息はしまい。
和巳はそう感じながら、本気の練習を待った。
だが、ちっとも速く走る人が現れない。ウォーミングアップをこんなに長く取るものなのだな……。和巳が座ったまま待っていると、ついにそのコーチが現れた。
ピピー
笛が鳴り、選手たちが集合する。
「おいおい、さっき上から見てたけど、お前ら何なんやぁ。足の上げも中途半端……。もう一回俺が走ったるから、しっかり見とけよ」
コーチは纏っていたジャージーを天空に投げ捨てた。来る! 和巳は目を見開き、コーチの走りを観察した。
日本代表の経験があるコーチは、すっとクラウチングに構えた。誰が合図を鳴らすでもなく、コーチは前傾姿勢のまま前に飛び出した。
足を上げ、前傾姿勢から徐々に上体を上げていく。部員たちから「おお!」と歓声のような声が漏れた。コーチは必死に腕を振り、グラウンドの向こうへ駆けていく。
……
…………
………………
何だ?
……お、遅いぞ?
和巳は明らかに戸惑っていた。これが日本有数の走りと言われても、明らかに母さんより遅い。頭がぐるると回った。
日本代表が走っている。あれだけ大袈裟にジャージーを脱ぎ捨て、一生懸命腕を振り、足を漕ぐように大きく回しているが、遅い。
そもそもあんなに足を接地させたら速くなんか走れない。スタートも最悪だ。初脚は飛ばないと、セイにも三歩目で追いつかれる。
コーチはゴールしたようで、手を腰にあて、くるりと振り向いた。
「ちゃんと見たか、お前らぁ!」
しかと見た。
そして、もう用はない。
だが、忍としての任務を果たさねばならない。和巳は自分に向けてきらきらと笑みを溢すクラスメイトに「すごいね!」という表情を返した。上手く作り笑いができていたかまでは分からない。
途中で抜けるのは申し訳なく、しばらく練習を見守ったが、早く帰ってシンたちと走りたいと思った。
クラスメイトに手を振ると、クラスメイトはよちよちと和巳に近寄ってきた。
「……はあはあ。……か、帰っちゃうの? はぁ……はぁ。ご……はあ、ごめんね、息……切れちゃって。……はぁはあ……でも、……はぁ。はあはぁ。自己ベスト……出た」
じ、自己ベストだと? あの遅さで……。出かかった言葉を和巳は必死に飲み込んだ。
夕飯がことりことりと和巳の前に置かれる。
「ごめん、やっぱシンたちと走るわ」
父も母もくすりと笑い、そうしなさいとだけ言った。
どこまで速く走れば良いのか? 犬走家の名に恥じない走りは? 父と母に聞くと、やはり30秒だと、父が言った。三匹から30秒逃げ切れば、自ずと父も母も越える、と。
朝も晩もずっとシン、ヒョウ、セイと走った。四本の脚で空気抵抗も少ない三匹を引き離すのは並大抵ではない。
それでも、来る日も来る日も走り、何度も何度も鳴き声を聞かされた。
ワウ! ワウ!
ワオーーーン!
ワンワンワンワン!
和巳は高校生となった。伝統的に忍者たるものとして、甲賀高校へ入学した。誰かははっきりしなかったが、数人の忍者がいると入学式で感じていた。
俺より速いやつがたくさんいるのだろうか……。和巳は大きくなってきた自分の体躯を見下ろし、焦りを感じていた。
真新しい学ランに身を包んで帰ると、三匹が帰りを待っていた。走ろう、と言っているのが分かる。
思えば、シン、ヒョウ、セイも随分大きくなった。それはそうだ。子犬の時から和巳とは一緒なのだ。犬のほうが先に歳を取っていく。
この頃はまだ、和巳はそのことに考えを巡らすに至っていなかった。
もうすぐ和巳は辛い現実を知ることになる。




