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学校での陰口は2年の冬になるとエスカレートしていった。後ろから消しゴムなどが飛んでくることもあった。机に落書きはしょっちゅうだ。
「へび、キモい」
「蛇はカエルでも食っとけ」
そんな落書きを朝登校しては消していった。
神は悔しいとも悲しいとも思わなかった。全て自分で選んだ道だ。蛇剣を手懐けることを選んだのは自分だ。その分、嫌われることをしてきた。当然だ、と受け入れた。
ある日、クラスでメモ用紙の手紙が回り始めた。
『今日の放課後、みんなで蛇退治』
クラスの右奥から一人ずつ回っていき、皆がクスクスと笑いながら神へ視線を向ける。神も薄々気付いていた。耐える。耐えて耐えて、ただ、耐えるだけなんだ。涙を見せたら、また蛇剣に見放されてしまう。
自分で選んだ道だろ? そう自問して、手紙が回り終えるのをひたすら耐えた。
その時だった。
くしゃくしゃと紙が丸まる音がした。誰かが「あっ」と声を上げる。神も横目でその音が鳴った方を窺った。
「高校球児たる者、こんな卑怯なことはでけへん。自分ら、おっきく生きなあかんで。俺は甲子園目指しとるんや。こんなつまらんこと付き合うてられへん」
確か、野球部の副島だ。今年で3年生が引退して、たった2人で活動していると聞いた。
副島は丸めた紙をぽーんと後ろへ放り投げた。綺麗な放物線を描いて、丸まった紙は教室後ろのごみ箱へ消えた。
「ストライーク!」
副島はぱちんと指を鳴らした。
先生が振り向く。
「おい、副島。さっきから何ごちゃごちゃ言うてんねや。立って132ページから全部読め」
「はあい」
副島はけだるそうに国語のテキストを読み始めた。神はその副島を見つめていた。
いつもと同じく河原にいた。
結局、放課後に『蛇退治』を受けることはなく、神は茜色の空をぼうっと眺めながら、副島に感謝した。
心からありがたいと思ったことにも、感謝の念を伝えられない。これは神にとって大きな苦痛だった。副島に礼を言いたかった。
足元に落ちていた石を拾い、川へ投げると向こう岸手前まで届いた。重い蛇剣を扱ううちに力がついたのだろうか。皮肉なものだ。
大きな橋げたには煌々とライトが照らされている。犯罪防止のためだろう。日が落ちて、もう暗さが濃くなってきたが、辺りは明るかった。
神は鬱積するものを晴らすように壁に向かって軟球を投げていた。夜の暗さが増すにつれ、壁に弾むボールの音が大きく響く。
もう帰ろうかとボールを宙高くに上げたときだった。
「藤田あ、ここだ、ここぉ」
自転車に乗ってこちらに向かってくる二人がいた。橋げたに灯るライトが明るすぎて、暗闇から来る自転車に誰が乗っているかまでは分からない。ただ、聞いたことのある声だ。
「あ、誰か先約いるわー。残念」
自転車が橋げたの手前で音を立てて急停止した。前にいるのは副島だった。後ろの生徒は知らない。
「ここだったら明るいんやけどな。……あれ?」
副島ともう一人がグローブとバットを持って自転車を降りる。
「蛇沼やん! 何や、家ここらへんなんか?」
神がそそくさと帰ろうとすると、副島はおいおいと呼び止めた。
「帰らんでええって。俺ら後から来たんやから」
「あ、いや。僕は……。……あ、いや……お前らといたくなんかないんだ」
今日の御礼どころか、反対にけなさないといけない。胸が締まる。
「……なんやそれ。腹立つなぁ。ま、いーけど。てかさ、蛇沼、お前野球やんのか?」
「……や、野球なんかやるわけねえわ」
「いや、ボール持ってるやん」
神は持っていたボールを暗闇めがけ思いきり投げた。ライナーで唸りをあげた軟球が暗闇に消えていく。
「やるわけない言うてるやろ」
そう言い放って、踵を返した神の腕が掴まれた。振り向くと、副島は怒った顔を向けていた。
「蛇沼、てめえ。ボール捨てよったな。お前が反抗期なんかなんや知らんけど、野球を侮辱するやつは許さん」
「もう帰るんだ。ほっといてくれ。それに、たった二人だろ? 何が野球部だ」
腕は離されなかった。より強い力で握られている。
「二人でも立派な野球部なんや。野球はな、お前が壁あてしてたみたいに一人でもできるんや。二人ならキャッチボールもできる。野球を侮辱するんは許さん」
副島はクラスでも野球バカなんて呼ばれている。「二人でどうやって甲子園行くんだよ」と、からかわれているのも聞いたことがある。それでも、真っ直ぐな視線とその言葉を神は羨ましく思った。
「……分かった。悪かった。じゃあ」
本当は今日の御礼も言いたかった。せめて、と詫びだけはいれた。今日、蛇剣を持てなくても良い。鞄を肩にかけて、橋げたを後にした。
「待て、蛇沼」