出会い
高齢のその猫は、自分の死を受けいれるように、静かに目を閉じた。
目を閉じると、脳裏に浮かんでくるのは、子ねこの時に土砂降りの雨の中、震える体をそっと包み込んでくれた彼女の手のぬくもりだった。
何の躊躇いもなく死を受け入れようとしていたのに、最後に彼女に会いたくなってしまった。
もう一度、閉じた目を開こうとしたが、死神が傍まで来ているのか、その簡単な作業すら、今はもうできない。
そうあの時も、ぼくの傍に死神がよだれを垂らして傍まで来ていた。
雨に紛れて、その匂いがプンプンしていた。
もう駄目とあきらめた瞬間、彼女の手のぬくもりと甘い香りが、ぼくを死神から助けてくれた。その安心感から、ぼくはそのまま意識を失った。
それから、どれぐらい時間が経ったのかわからないけど、甘いミルクの香りで目を覚ました。
ぼくは、空腹に任せて、その白い液体を、周りに飛び散るのも気にせずに、舌を使って飲み始めた。
ぺちゃぺちゃ、短い舌がもどかしい。でも、その一口一口で、さらに死神が後ずさりしていく。彼女のアパートの玄関まで押し戻された死神は、「チッ・・・」と舌打ちをしてそのまま玄関から消えていった。
『残念でした。』
ぼくの命は、彼女のやさしさで何とか繋がったようだ。
それから、一か月、ぼくの体も良くなり、(といっても何も食べるものが無くて、死にかけていただけだけど。)彼女が留守の間に部屋の中を動き回れるようになった。
そして、あっという間に2か月が経ち、体も大きくなった。
彼女が、仕事に出かけた後、留守の部屋に時々チャイムの音が鳴ることが有った。
その音がすると、ぼくは、怖くてすぐに彼女のベッドの下に潜り込んだ。
狭い部屋だから、廊下のその男のだみ声がすぐそばに居るように聞こえる。
「今日も、留守か?仕方が無い、日曜日にまた来るか。」その声の後、扉のポストに何かが落ちる音がした。
その日の夜、彼女の足音を聞いて、玄関に駆け寄ると、彼女は、玄関のドアのポストから、何か封筒のような物をとりだすところだった。
「何かしら、これ?」不思議そうに眺める彼女。
ぼくは、その様子をみて、助けてもらった恩返しがしたいと思い、昼間あったことを彼女に伝えようと、一生懸命しゃべった。
「あっ、ごめんね、お腹空いたのね。ちょっと待っててね。」
「そうじゃないんだけど。今日昼間ね‥‥。」としゃべりながら、彼女の足に絡むようについていった。
「ごめんね。すぐにご飯にするね。」そう言って彼女が、猫缶を開け、その香りを嗅いだ途端に、ぼくは、さっきまで言おうとしていたことをわすれてしまった。
ほんと、ぼくって、何もできないんだよね。
彼女の傍に、一緒にいることぐらいしか。
ぼくが、ご飯をパクパク食べている横で、彼女はさっきの紙切れを再び眺め出した。
「管理人さんが、聞きたいことがあって、日曜日の午後に来ますって。なんだろう?」
ぼくは、ご飯に夢中で彼女が言ったことに気付かなかった。
日曜日の午後、ぼくと彼女が部屋で遊んでいると、あのチャイムの足音が、聞こえてくるのがわかった。僕は、すぐにベッドの下に潜り込んだ。
そして、その足音が部屋の扉の前で止まった。
「ピンポーン」っと、チャイムの音が鳴った。
「はーい。」という彼女の声。
そして、それに被せるように、
「管理人の柳です。」とその男のだみ声が聞こえた。
彼女の扉の開ける音。
そして、だみ声の男の声が、さっきよりはっきりと聞こえた。
「すみません。こちらの部屋で、猫を飼ってますよね?両隣から、苦情が来てます。」
「契約違反なので、一週間以内に部屋から出て行ってください。」その威圧的な声をきいて、ぼくは、彼女を守らなければいけないと思って、その男の前に飛び出した。
シャーと威嚇の声を上げると、男は、慌てて扉を閉めた。
「こんな危険な猫、他の住人にけがをさせる前にすぐに連れて出て行ってください。でないと、保健所に連絡しますよ。」
といって、部屋の前からその足音がそそくさと遠ざかっていった。
「大丈夫?」といって、ぼくは、彼女の足元にすり寄っていった。
「ありがとう。」といって、ぼくを抱き上げ、
「このアパート、きみを飼えないんだ。」そう言うと、彼女は、ぼくのご飯をお皿にいっぱい出した。
「ごめんね、今からちょっと出かけてくるから、お留守番しててね。」
そう言い残して、彼女は、慌てて部屋を出ていった。
結局、彼女は、その日は、帰ってこなかった。
もしかしたら、ぼくは、またすてられたのかな?そんなことを思いながら、ぼくは、一晩中泣きながら彼女を待っていた。




