110 / 握手会
ゴールデンウィーク前の日曜日、俺は満を持して「むつらぼし昴」の握手会にやって来た。
知らない人のために紹介すると、「むつらぼし昴」は、今をときめく超新星アイドルである。
今年でデビュー5周年になる彼女は、歌える踊れる喋れるの三拍子そろった無敵タレントでもある。
そんな彼女の握手会ともなれば、金額もさることながら、その当選確率はべらぼうに跳ね上がる。
そんな超ラッキーな握手券を、俺はこの度ついに、手に入れた。
これも毎日、浮気せずに推し続けた結果なのだろう。
長蛇の列に並びながら、自分の幸運をこの身に噛みしめ、俺はその時を待っていた。
午後14時。
いよいよ握手会が始まった。
彼女と握手できるのは大体3秒と言われているが、その時に何か気の利いた会話でもできれば、俺という一個人が彼女の記憶に強く残るのだが、残念ながら俺に文才はなく、結局「がんばってください」と月並みな言葉を俺は選んだ。
じり、じり、と列が縮まってゆく。
一歩、また一歩と、彼女との距離が縮まってゆく。
そしてそのとき――。
「次のかたーどうぞー」
スタッフの呼びかけで前へと進み出ると、「むつらぼし昴」が両腕を広げて俺を迎え入れてくれた。
それだけでも感極まるというのに、「今日はありがとうございます!」と言いながら右手を差し出してくるではないか。
いや、握手会なのだから当然なのだが、いやしかし、それにしても、だがしかし、俺は混乱してしまい、結局「が、がんばってくらさい」と噛み噛みになりながら決めていた言葉を告げた。
彼女は「はい!頑張ります♪」と言って、俺に最高の笑顔をプレゼントしてくれた。
その笑顔が最高にかわいかったので、もうその光景だけを思い出にこの世を去りたい気持ちに駆られた。
帰りの新幹線の中で、たった数秒の短い幸せを胸に、俺は弁当をかっ食らっていた。
少しでもスリムに見せるために食事を抜いて行ったので、おなかがすいていたのだ。
唐揚げを食べながら、ふと思う。
あと何年、彼女を追いかけられるだろうか、と。
俺だって年をとる。
彼女だって年をとる。
けれど、この気持ちが続く限り、きっと俺は、彼女が死ぬまで追いかけるのだろうな、とひとり静かに確信している。




