88_新たな旅路、ふたつの影
ルーンデールの午後の空はどこまでも高く、澄み渡っていた。しかし、私がいるギルドの一室はその爽やかさとは程遠いものだった。
「……うぅ」
「ほら、しっかりしてください。もうお昼なんですから」
私は朝から旅支度を済ませて、倉庫で燃えてしまった備品の買い直しなどに忙しなく走り回っていた。
それなのにこのエルフときたら!
「やかましい……」
ビョルンさんはこの世の終わりみたいな顔をして、ベッドで頭を押さえている。昨夜の真っ赤な顔はどこへやら、今は不健康なほど真っ青だ。自慢の長い耳も、心なしか力なく垂れ下がっている。
「頭の中で……ドワーフと、ハーフリングが……踊り狂っている……」
「幻覚まで見えちゃってるじゃないですか」
「幻覚じゃ、ない……」
テーブルの水差しから水を注いで手渡してあげる。
「はいお水……あっ」
コップを掴んだ彼の左手と、私の右手がほんの一瞬触れ合う。その時、昨日抱きしめられたことが脳裏をよぎった。
至近距離で見つめてきたライムグリーンの瞳。目尻の泣きぼくろをなぞった、熱い指先。
「……なんだ」
いやいや、あれは単なる泥酔者の迷走であって!
特になんの意味もないから!
ぶんぶんと首を振って、火が出そうなほど熱くなった顔を誤魔化す。変な動悸がするのは、断じてこのポンコツエルフのせいではない。断じて違う。
「おい」
「へっ!? は、はい」
「さっきからなんなんだ。一人で狼狽えるな、鬱陶しい」
その冷たい言葉に、カッチーン! ときた。
「あぁもう! それだけ言えるなら元気ですね! ほら、もう出発しますよ!」
「うッ」
ムカついたのでビョルンさんの背中を渾身の力を込めて叩くと、青ざめていた顔がさらに青くなった。彼の大きな背中がビクリと震える。まさか。
「ちょっと、吐かないでくださいよ!?」
「……」
首を横に振るビョルンさん。
「待って! バケツ! バケツ持ってくるから!!」
私は慌てて洗面台に飛びこんで、ひときわ大きな桶を探したのだった。
「はぁ……時間かかっちゃった」
「誰のせいだと」
「ビョルンさんのせいです」
結局あの後、ビョルンさんの介抱に二時間ほどかかり、昼過ぎにギルドを出発することになった。ようやく落ち着いたビョルンさんはいつも以上に不機嫌そうな顔をしながら、中央ホールに続く階段を降りている。
「やっと来たかい!」
「のんびり過ごしていらっしゃったのね」
出口の前では、アニタさんが豪快に腕を組んで待っていた。その隣には、クレイモアさんを従えたエリザベスさんの姿もある。
「皆さん、わざわざお見送りありがとうございます」
「なぁに水臭いこと言ってんだい」
アニタさんはそう言うと、私を力強く抱きしめてくれた。その腕の中は陽だまりのように暖かい。
「あんたならどこに行っても平気さ。ポルタ・サレの商人ギルドに便りを出しておいたから、あんたたちのことを歓迎してくれるだろうよ」
「本当ですか! ありがとうございます、アニタさん」
「これもギルドマスターの仕事さ。向こうでもがっぽり稼いできな」
「はい!」
エリザベスさんは優雅に扇を畳んで微笑み、クレイモアさんも穏やかな表情を見せる。
「ルナ、ビョルン。あなたたちの益々の活躍を期待していますわ。わたくしの見込んだ商人として胸を張りなさいな」
「お二人であれば、いずれ公爵家御用達の称号を獲得でしょう」
「わたくしは厳しくてよ? 覚悟なさいね」
そう言うと、エリザベスさんは私に一枚の羊皮紙を差し出した。
「友人としての支援はさせていただきますわ。こちらがあれば、そう簡単に陥れようとする者はいなくなるでしょう」
「これは……!」
丸められた羊皮紙を開くと、そこにはエリザベスさんのサインと公爵家の紋章が刻まれていた。それは紛うことなき本物の『貴族のバックアップ』の証だった。さすがのビョルンさんもこれには酔いが覚めたようで、目を丸めていた。
「わたくしからのほんの気持ちです。しかしこの効力だけではあなた方を守るには不十分。用心なさい」
「はい。本当に感謝します、エリザベスさん」
エリザベスさんの真剣な声に、私は深く頷いた。しかしエリザベスさんはすぐに笑顔に戻ると、駆け寄って私の手を握った。
「公爵家の地位を取り戻したといえど、わたくしはこのルーンデールと共に在る者。あなたのことはかけがえのない同志だと思っておりますわ」
エリザベスさんは握った私の手に額を押し当てた。それはまるでシスターが髪に祈りを捧げるように。
「どうかこの旅が、あなたにとって楽しさと幸せが溢れたものになりますように。そしてあなたの帰り道が見つかりますように。そう、心から祈っていますわ」
優しい祈りの言葉が胸に染みる。
エリザベスさんとは色々あったけれど、今はこうして幸福を願ってくれている。だから私も、この人の期待に応えたい。
「はい、必ず見つけてみせます」
私の言葉に、エリザベスさんは満足そうに微笑みを浮かべた。ビョルンさんも視線を和らげ、小さく会釈を返す。二人のわだかまりも、ようやく解けたようだった。
そうして、ようやく私たちは出口の扉に手をかけた。
「それでは、行ってきます!」
背中の荷物をぐっと握り直し、私は商人ギルドに大きく手を振った。アニタさんたち商人ギルドの人達が、戸口の前で手を振ってくれた。
「気をつけていっておいで!」
アニタさんの一際大きな声が聞こえる。毎日言葉を交わしていた人達との別れは、なんだかとても寂しい。だけど進むと決めたのだから、振り返るわけにはいかなかった。
ゆっくりと歩き出す。一歩踏み出すたびに、見慣れたルーンデールの石造りの街並みが背後へと遠ざかっていく。
「さて、ビョルンさん。とりあえず漁業都市ポルタ・サレまで徒歩で一週間でしたよね」
一週間の徒歩移動。想像するだけで足の裏がジンジンしてくる。
「だが、その前に材料の仕入れだ。なんの収穫もなければ路銀すら稼げない」
「仕入れのアテはあるんですか?」
「採集場所と取引先に覚えがある。中継地だが、物資補充なども考えて追加で一週間はかかるだろうな」
「ということは、ポルタ・サレまででも二週間の旅になるんですね」
「怖気付いたか」
ビョルンさんが試すような顔をする。私はニヤリと笑って見せた。
「まさか! 美味しいお魚が私たちを待ってるんです。早く行きたくてたまりませんよ!」
「食い意地だけは、一人前だな」
ビョルンさんは呆れたように言うが、その耳は少し楽しげに揺れていた。
ようやく少し調子が戻ってきた相棒に苦笑いしながら、私は西へと続く街道を見据えた。新しい街、新しい商売、新しい出会い。不安が全く無いわけじゃないけれど、今の私にはこの不器用なエルフの魔術師がついている。
「待ってなさいよ、ポルタ・サレ!」
西に傾き始めた日の光を浴びて、私たちはゆっくりと歩き出す。私達の後ろには二本の短い影が、まるで寄り添うように伸びていた。




