237_異世界式怪奇現象
「ふはぁ〜……ごくらく、ごくらく……」
白大理石で作られたゼノンさんのお屋敷のお風呂は、まるで王宮の浴場かと思うほど広々としていた。湯船からはふんわりと薬草の良い香りが漂い、嵐の冷気で冷え切っていた身体がじんわりと温まっていく。
「本当にすごいお風呂ですね。こんな広いお風呂に入るの、初めてかも」
「ふふ、実に贅沢な作りですね。こんな豪奢な屋敷に滞在することができるなんて」
「ラッキーでしたねぇ」
お湯を肩まで浸からせながら、ブランシュさんが気持ちよさそうに目を細める。濡れた美しい茶髪が湯面にゆらゆらと広がっていた。
「あの、ルナ様」
「はい?」
「先程の言葉……私、とても感動いたしました」
ブランシュさんは湯船の中でこちらへ向き直ると、紫水晶のような瞳をまっすぐに輝かせた。
「ビョルン様のために、大切な人のために戦うそのお覚悟……とても素晴らしいものです。ご自身の危険も顧みず、相手が強力な吸血鬼であろうと屈しないお姿に、胸が熱くなりました。私ももっと、ルナ様を見習って精進いたします!」
「えっ、あ、ありがとうございます……?」
真っ直ぐに称賛されて少し照れくさかったけれど、彼女の瞳の奥にある強い光を見て、私はほんの少しだけ胸が騒いだ。彼女の「大切な人のために戦う」という真っ直ぐすぎる決意には、どこか己を顧みないような、危うさが孕んでいる気がしたのだ。
「ブランシュさん」
私は彼女の方をまっすぐに見つめる。そしてその白く細い指を、自分の手ですくいあげた。
「ブランシュさんはひとりじゃありません。だから」
そう言った、次の瞬間。
「……?」
ゾクッと、背筋に冷たいものが走った。
湯気が立ち込める広い浴室の隅の暗がりから、じっとこちらを覗き込むような『誰かの視線』を感じたのだ。
「まさか、誰かが覗いてる……!?」
私は慌てて周囲を見回した。しかし、大理石の壁と立ち上る湯気があるだけで、人の気配などどこにもない。
「ルナ様? どうなさいましたか?」
「あ……いえ、気のせい……かな?」
気のせいだと思いたかった。けれどなんだか気味な予感が、肌にまとわりついて離れなかった。
お風呂から上がり、髪を拭きながらブランシュさんと二人で薄暗い廊下を歩いていた時のことだ。
ガタンッ!
「っ!?」
壁に立てかけられていた飾りの古い鉄剣が、誰も触れていないのに唐突に倒れ落ちた。
「きゃっ……! び、びっくりしましたわね、風かしら……?」
「う、うん……古いお屋敷だから、隙間風かな……」
「外はまだ嵐ですものね」
お互いに顔を見合わせ、自分に言い聞かせるように頷き合う。しかし、異変はそれだけで終わらなかった。
カシャン。
静まり返った廊下に、金属が重く擦れ合う音が響いた。
カシャン……カシャン。
それは、まるで重厚な西洋の全身鎧が、足音を立てて歩いているかのような音だった。
「何の音?」
振り返っても、そこには暗い廊下が続いているだけ。けれど、音は確実に私たちのすぐ後ろまで迫ってきている。見えなくても、そう直感した。私はブランシュさんの手を握り、彼女も私の腕にひしっとしがみついてくる。
「ル、ルナ様……っ!」
「に、逃げましょうっ!」
私たちは悲鳴を噛み殺して顔を見合わせると、着物の裾をまくり上げて一目散に廊下を走り出した!
カシャン! カシャン! カシャン!
追ってくる! 明らかに私たちの後を追って、足音が速度を上げてくる!
「いやあああぁぁぁっ! ど、どこか、どこでもいいから逃げ込める部屋っ!」
目の前に見えた大きな木製のドア。私は無我夢中で取っ手を掴み、ブランシュさんと一緒に勢いよく中へ転がり込んで、バンッ! と背中でドアを閉めた。
「はぁ、はぁ……た、助かりましたね……?」
「うぅ、心臓が止まるかと思った……って、ここ何処の部屋……?」
肩で息をしながら、部屋の中に視線を向けた私たち。
次の瞬間、全身の血が一気に引いていくのが分かった。
窓からの月明かりに照らし出されていたのは……。
「ひぃ……!?」
無数の棘が生えた恐ろしい鉄の処刑具、怪しく光る三角木馬、そして壁一面に吊るされた不気味な鎖や拷問用の道具たち。
「きゃあぁぁぁぁあッ!!」
腹の底からの悲鳴が、嵐の夜の館内に響き渡った。
「ルナっ!?」
「ルナさん、ブランシュさん!?」
ドカドカと激しい足音が近づき、部屋のドアが勢いよく弾け飛ぶように開く。飛び込んできたのは、右手に風魔法をたたえたビョルンさんと、大盾を構えたユウさんだった。
「ビョルンさんっ!!」
「ユウ様ぁっ!!」
私たちはなりふり構わず、ビョルンさんとユウさんの胸の中に勢いよく飛び込んだ。私はビョルンさんの胸元ガッシリとしがみつき、ブランシュさんもユウさんの肩にすがりついて震えている。
「おい、どうした!? 敵か!?」
ビョルンさんが私を片腕で庇いながら警戒を強める。
「で、出たんです!」
私は半泣きになりながら部屋の奥を指差した。
「何が出たんだ」
「ご、ご、拷問部屋です! 鎧の足音が追ってきて、逃げ込んだら拷問器具がいっぱいで……っ!」
「なんだと……?」
遅れて、廊下からあくびを噛み殺したゼノンさんがやってきた。ビョルンさんはすかさずゼノンの襟首を掴み上げ、激しい殺気で睨みつける。
「おいおい、なんだよ。俺様の屋敷でギャーギャーと。肝試しでもしてたか?」
「おいゼノン。ルナたちに何を見せた? 趣味の悪い拷問部屋なんて持っていたのか、お前」
「はあぁぁぁっ!? 拷問部屋ぁ!?」
ゼノンさんは目を丸くして、慌てたように手を横に振る。
「バカ言っちゃいけねぇよ、坊ちゃん! この俺様がそんな悪趣味な部屋を館で作るわけないだろ!? ここはただの古道具置き場だよ!」
ゼノンさんが部屋の中を指差し、私も恐る恐るビョルンさんの背中から顔を出して部屋の中を覗き込んだ。
「……え?」
そこにあったのは。
ほこりをかぶった古い壺や、積み重ねられた木箱、そして古びた絨毯のロールくらいだった。
棘のある鉄の処刑具も、三角木馬も、壁の鎖も……何一つ、影も形もない。
「あ、あれ……? 拷問器具が……ない?」
「そんな……私たち、確かに見たのに!」
ブランシュさんも呆然と目を丸くしている。
ゼノンは呆れたように肩をすくめ、手首をぶらぶらと振った。
「だろ? 見間違いだよ、お嬢さん方。旅の疲れが出たんだろう」
確かに、部屋にはただの古い荷物が転がっているだけだった。
けれど、私とブランシュさんが感じたあの視線と、迫ってきた甲冑の足音、そして確かに見たはずの惨劇の光景は……果たして本当に、ただの『見間違い』だったのだろうか?




