173_無意識の距離感
ビョルンさんが目覚めてから、私は気が抜けてしまったらしい。次に目を覚ましたのは、とっぷりと日が暮れたあとだった。ベッドの中の温度は心地よくて、すっかり馴染んでしまっている。
「ごめんなさい! こんなに寝ちゃうなんて!」
私はベッドから転がり出たけれど、ビョルンさんはいまだ眠気まなこを擦って唸っていた。ベッドサイドのテーブルには保温魔法の魔法道具が添えられた、温かいスープとパンが置かれている。きっとタクさんが持ってきてくれたんだろう。
「恥ずかしいところ見られちゃった……」
「気にすることでもない。タクも特に何も言ってこなかった」
「そうですか。……って、え?」
その口ぶりから察するに、ビョルンさんは起きていたということだ。先に食べることもできただろうに、待っていてくれたのか。
「なんだ」
「起こしてくれてもよかったでしょうに」
「別に。今、食う気分ではなかっただけだ」
フン、と鼻を鳴らして寝返りを打つビョルンさん。その背中から気まずさが伝わってくる。そんな彼の様子に安堵するような、呆れるような。
「ま、いいですよ。ご飯にしましょうか」
私はスープを手に取って、ビョルンさんの肩を叩く。タクさんのスープはお出汁で煮た魚介の香りがして、とてもお腹がすく。私のお腹もぐうと大きくなった。私がベッドに座っても、ビョルンさんは起き上がろうとしない。
「肉がいい」
「ワガママ言わない」
何か言いたげに見上げてきたビョルンさんに、ぴしゃりと言い放つ。
「お肉を食べられるようになるまで、時間がかかるそうですよ。内臓が弱ってるからって」
「もう治った」
「三日間寝たきりだった病人が、何言ってるんですか」
不満そうなビョルンさんは、渋々起き上がってスプーンを握った。スープの中に入っている刻み野菜を避けようとするので、またしてもお小言が出てしまう。
「野菜」
「いらん」
「ちゃんと栄養取らないと、いつまで経ってもお肉食べられませんよ」
これまた不満げに、眉間に皺を寄せるビョルンさん。その顔はまるで拗ねた子供のようで、私はとうとう吹き出した。三日間張り詰めていた糸が切れてしまったのか、目には涙すら浮かぶ。私の涙を気付いたビョルンさんはギョッとして、私の方を見た。
「ふふっ、ふ、すみません。なんか気が抜けちゃって」
笑われたことに怒るわけでもなく、ビョルンさんは黙ってゆっくりと野菜を口にする。咀嚼するのも憚られるのか、ほとんど丸呑みしていた。
「お前の飯が食いたい」
「え?」
「傷が回復したらで、いい」
ぼそりと呟かれた言葉に、私は耳を疑う。ビョルンさんが私にこんな要求をしてきたことがなかったからだ。
「お肉じゃないかもしれませんよ?」
「構わん。妥協してやる」
「野菜は」
この質問には黙ってしまった。少し意地悪すぎたみたいだ。
「煮込み料理とか、お腹に優しいものなら作れますよ。お医者様に相談してみましょうか」
「それでいい」
ビョルンさんはそう言い切ると、スープを飲み干した。空になった皿をテーブルに戻してから、私は自分のスープに口をつけた。
しっかりと塩味のきいたお出汁と魚の淡白な風味、くたくたに煮込まれた葉野菜のスープは、なんだかお吸いものみたいな味だった。こちらの世界の濃い味付けに比べたら、とても繊細で優しい味わいだ。疲れきった身体にじんわりと染み渡る。
「お前は」
ビョルンさんは私の方に手を伸ばしかけて、止める。なにか言いたげに視線を彷徨わせて、伺うように私を見た。
「体調は、問題ないか」
「はい。私は平気ですよ」
アールにはめられた指輪には苦しめられたけれど、今の身体は非常に調子がいい。まるで十分な睡眠と休息を取ったあとみたいな清々しさすらある。
「秘薬が効いたみたいだな」
「秘薬?」
「人魚の秘薬だ。俺も使用するのは初めてだったが、やはり凄まじい効能だな」
「そうだったんです、ね……?」
そんな薬があるなんて知らなかった。あの瀕死の状態でも効く薬があるのは、やはり異世界だからだろう。
待った。私、どうやって飲んだの?
「ちなみに」
ビョルンさんの声は僅かに弾んでいた。
「な、なんですか」
目が合わせられなくて顔を背けると、ビョルンさんはこちらに手を伸ばして人差し指で顎をすくった。無理矢理上げられた顔はビョルンさんの顔を直視する形になって、頬に熱がのぼっていく感覚がする。
「あの秘薬、値段にすると国が買えるぞ」
「えっ、えぇぇえッ!?」
そんな高価なものを、私一人のために使ったのか。いや、あのまま死ぬよりはいいけど。分かってるけど。国を買える程の大金をかける薬が、私の身体の中に巡っている。その事実は末恐ろしくて悲鳴が出た。
「俺はお前ほど悪徳商人ではない。これで貸し借りはなしということにしておいてやる」
「う……はい、そうですね。ありがとうございます」
素直に頷くと、ビョルンさんはクックッと喉で笑う。からかわれているのが悔しくて、どうにかしてこの意地悪エルフの鼻を明かしてやりたい。しかし今の私には手札がない。私は精一杯の強がりで、ふすんと鼻を鳴らしてみせた。
「これからちゃんと稼ぎますよ」
「まずは報奨金だ」
「そうですね。エリザベスさんからたっぷり頂きましょう」
私たちは静かに笑いあった。たった数日、されど数日。こうして目を合わせる時間がなかっただけでとても寂しかったように思う。だから今、こうしてビョルンさんが起きて、話してくれていることが本当に嬉しい。
「ビョルンさん、あのね」
つい、今の思いを口に出してしまいそうになる。ビョルンさんだって、その言葉を否定はしないだろう。でも、と思いとどまって、それで。
「ビョルンおじさん! 起きたんだって!?」
バタン! と大きな音ともに転がり込んできたのは、バッシュさんだった。その後ろには、慌てた様子のユフィリアさんとグリオンさん。二人ともあわあわと私とバッシュさんを見ている。
「アホーッ! なにしとんねん、小僧!」
「え? ダメだったのか!」
「今はアカン! ほら、戻っといで!」
グリオンさんはバシバシとバッシュさんの足を叩いて、そそくさと廊下に出て行ってしまった。ユフィリアさんは私とビョルンさんを交互に見て、頬を恥ずかしそうに赤らめて言った。
「邪魔しちゃってごめんなさいね。今日は二人でゆっくりして!」
ごめんなさいっ! と、高い声で謝罪しながらドアを閉めて言った。その力が強すぎて、少し曲がってしまった気がするが大丈夫だろうか。
「騒がしい奴らだ」
ビョルンさんが呆れたように肩をすくめる。私も同意しようとして、はたと気づいた。私とビョルンさんの距離感に。
「ん?」
ビョルンさんと私の距離は、いつもは手のひら五つ分くらいあるはず。それなのに今は、ほとんど触れ合ってしまいそうな距離だった。
そして、ふと我に返る。アールとの戦いのあとから今まで、無意識にビョルンさんに対して心の壁を取り払ってしまっていたことに。顔にみるみるうちに熱が溜まって、爆発した。叫ぶと共に、ベッドから飛びのいた。
「す、すみませんでしたぁああ!!!!」




