155_打ち上げられた人魚姫
「ふぁーあ……夜更かししちゃったなぁ」
昨日は結局、タクさんの店でグリオンさんと酒を飲み交わして夜を明かしてしまった。今日はお店は休みにしようかとも思ったけれど、釣り人ギルドの人達が元気に働くためにもポーションを売らなければならない。
私はミャーコさんに借りた服を着て、外の水汲み場で顔を洗う。夜明け前の水がお酒で火照った顔をひんやりと冷やしていく。
「キューン」
足元を見ると、起きたばかりのミニベロスがふわふわの毛並みを足に擦り付けてきていた。まだ眠いのか、シロの目は閉じたままだ。
「おはよう、クロ、シロ、ブチ」
一匹ずつ頭を撫でると、嬉しそうに鼻を鳴らすのがかわいらしい。
「キュ?」
「えっ? あ、ちょっと! どこ行くの?」
大人しく撫で回されていたミニベロスだったけれど、なにかに気がついたように砂浜に走っていってしまった。
「ワン!」
「どうしたの、クロ。遊びたくなっちゃった?」
クロは一番好奇心旺盛で遊びたがりだ。昨日はずっとお留守番させちゃったし、寂しかったのかな。私はミニベロスを追いかけて、砂浜を走った。
「ふすふすふす!」
「ん?」
ミニベロスは、砂に埋もれた何かを掘り起こそうとしている。その熱心な様子に、私はしゃがみこんで覗き込んだ。
「魚?」
砂に埋もれた大きな尾びれが見える。打ち上げられちゃったのかな。可哀想に。
「よいしょ!」
せめて海に返してあげようと思って、後ろから鰭を持ち上げた。すると、ずっしりとした重みが腕にのしかかる。あまりの重さに歯を食いしばって、もう一度引っ張ってみた。これはあまりにも重くて、ただの魚だとは思えない。
「え……えぇえ?」
砂から引き出した全貌を見て、私は呆然と口を開けた。これは寝ぼけて見た幻覚じゃない。上半身は女の子、下半身は魚。そう、人魚だ!
「わ、わぁぁああっ!!!!」
夜明け前の海岸に、酔っぱらいの悲鳴が響き渡った。
「ビョルンさん、水! 水ください水ぅ!」
「……ぐぅ」
「起きてください! 緊急事態ですっ!」
タクさんの店に飛び込んできた私を、座敷で眠っていたビョルンが心底うざったそうに迎えた。しかし私が抱え上げている人魚を見た瞬間、彼の瞳が鋭く細められる。
「またお前は面倒事を……」
「海岸でクロが見つけたんです。よくわかんないけど、とにかく死んじゃいそうなんです! 助けてくださいっ!」
私が見上げると、ビョルンさんは面倒くさそうに頭をぼりぼりとかいて顎をしゃくる。
「タクを呼んで、海水を汲んでこい。その間に回復魔法をかけておいてやる」
「はいっ!」
なんだかんだ、無茶ぶりにも答えてくれるのがビョルンさんだ。諦めたように肩をすくめる彼に笑いかけて、私はタクさんたちがいる厨房へと走った。
「いやぁ、びっくりしたよ。まさか人魚がうちの近くに打ち上がってたなんて」
洗濯用の大桶に人魚を横たえて、タクさんと二人で汲んできた海水を注ぐ。その間にも、ビョルンさんは回復魔法をかけていた。
「人魚?」
「ポルタ・サレから少し離れた小島に住んでいるって聞いたことあるよ。船を襲ったりすることもあるみたいだけど、この辺りの人魚は友好的なんだ」
「なるほど」
しかし、タクさんは不思議そうに首を傾げる。
「でも人魚の集落は、ここからは少し距離があるはずだよ。何があったんだろう?」
「油断するな。人魚は海中から歌声で船乗りを惑わせる魔物だ」
ビョルンさんは刺々しい言葉に反して甲斐甲斐しく、かつ正確な術式で回復魔法をかけていた。
「魔物なんですか? こんなに可愛い子が?」
「外見に騙されるな。こいつらは人間の肉でも食うぞ」
「ひぇっ……!」
タクさんと二人で身を寄せあって悲鳴をあげた。やっぱり異世界って怖い。
人魚の少女は濡鴉のようなきれいな黒髪を長く垂らし、同じく黒くて長いまつ毛が目の縁を覆っている。肌は陶器のようにキメ細やかで白く、まるでお人形さんみたいだ。
「瘴気が肺の奥まで浸食していた。あと一刻でも遅ければ命を落としていただろう。……よく見つけた、駄犬」
ビョルンさんは、足元で誇らしげに胸を張るミニベロスの頭を撫でた。ミニベロスは短いしっぽをぷりぷり振って甘えている。私はそんな二人の睦まじい様子を見上げたり、視線を落としたりしていた。その様子に気づいたビョルンさんが、また肩を竦めてため息を吐く。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言え」
「う、あの、えっと……小さいとはいえ魔物を拾ってきたことに対して、お叱りの言葉を受ける覚悟はできています……」
叱られる直前の子供のような声が、情けない出てしまった。てっきりまた
「別に。人魚は人も食うが、主食ではない。それにこんな弱々しい幼体は、まだ人も食ったことはないだろう」
ビョルンさんは視線を下げて、額の汗を拭った。
「無害なものに対して、慈悲をかけることが悪いとは思わん」
「ありがとうございます」
「……礼を言われることではない」
私とビョルンさんの様子をニコニコと見ていたタクさんが、ふと顔を上げた。その視線の先には人魚の顔。先ほどまで閉じられていた瞳がうっすらと開いて、深緑色の瞳がのぞいている。私はすぐさま人魚の近くにしゃがみ込んで、怖がらせないように静かに語りかけた。
「はじめまして。私はルナ。あなたのお名前は?」
人魚は黙ったまま、怯えたように私を見上げる。きっと怖い思いをしたのだろう。
「えっと、私は行商人……商売しながら旅をしているんです。好きな食べ物はお魚、趣味はお料理です」
やっぱりまだ警戒されているみたいで、私やビョルンさんたちを見て体を震わせていた。ミニベロスがちょこちょこと歩み寄ってきて、人魚を見上げる。人魚はそこで初めて興味深そうに瞬きをした。
「この子は魔獣ですけれど、噛んだりしないから大丈夫です。左からクロ・ブチ・シロって名前なんですよ」
私に撫でられたミニベロスはしっぽを振りながら、それぞれ人懐っこい顔で舌を出す。人魚が恐る恐る濡れた手を伸ばして、中央のブチの頭に柔く触れた。撫でられたブチはご機嫌そうに鼻を鳴らし、撫でてもらえなかったシロとクロは甘えるように頭を擦り付けた。
そんな様子にようやく警戒を和らげてくれたのか、人魚は私を見上げて口を開いた。
「……スージー。わたしの、名前」
初めて発された声は鈴が鳴るように可憐で、透明に澄んでいた。スージーさんは伺うように私を見上げ、桶から飛び出した鰭を不安げに揺らす。その不安を和らげてあげたくて、私が柔くその手を握った。
その時、玄関の引き戸が大きな音をたてて開かれる。またしても商会の嫌がらせかと警戒したが、そこに立っていたのはミャーコさんだった。
「タクちゃん、大変!」
焦った様子のミャーコさんは、走ってきたのか肩で息をしている。タクさんはミャーコさんに駆け寄って、事情を聞いた。
「ミャーコちゃん、なにかあったのかい?」
「魔物が出たの。今、冒険者ギルドに依頼を出したみたいだけど、対応できる冒険者がいないって言われて」
そう言ってミャーコさんは窓の外を指す。その先の海は静かに波打っていて、異変を感じない。安堵したのも束の間、店が大きく揺れてギシギシと軋んだ音を上げた。まるで何かに締め付けられているみたいな音。驚いて窓を開けようとした……の、だが。
「ひぃっ!?」
窓の外に現れた大きな魚介類の目玉に睨みつけられて、情けない声が出る。
「な、何!?」
「クラーケンか。岸に近い場所に出没するとは思えんが」
ビョルンさんは面倒くさそうに、あくびをしながら魔物を見ていた。しかしその目は鋭く、鈍く光っている。
「放置する方が厄介だろう。さもないと、この店ごと握りつぶされるぞ」
やはり、この店がクラーケンに襲われていると思っていいのだろう。しかし、内側からどうすることもできない。そもそも。
「冒険者はいないって」
「魔物狩り程度、冒険者でなくとも可能だ」
ビョルンさんはなんでもない風に言うと、出口に向かった。その腰にぶら下げた剣に手をかけながら。
そうか、この人ならばクラーケンだって討伐できるかもしれない。いや、タクさんの店を守るためにも討伐してもらわないといけない。
「気をつけてくださいね、ビョルンさん」
私が不安げに尋ねると、ビョルンさんはふっと息を漏らした。窓から差し込んだ朝日に金髪が透けて、傲慢なまでの自信が溢れ出す。
「誰に言ってる」
ビョルンさんは剣を携え、私を真っ直ぐに見据えて口角を上げてみせた。




