01_社畜、異世界召喚されました
オフィス街を抜けた商店街。そこは初夏の湿度と熱気を帯びている。私はヒールをカツカツと鳴らしながら、馴染みの居酒屋に急いだ。
「いらっしゃいませーッ!」
居酒屋の赤い暖簾をくぐると、店員さんたちの威勢のいい声で迎えられる。店内は仕事終わりのサラリーマンやOLで賑わっていた。私はいつものカウンター席について、一息つく。そしてオレンジベージュのジャケットを脱ぐと、適当に畳んで背もたれにかけた。
「ご注文は?」
「生ビールひとつ、お願いします」
「あいよぉ!」
店員さんがテーブルにビールを置いた瞬間、持ち手に手をかける。
「ありがとうございます」
店員さんにお礼を言ってから、生ビールを豪快に煽る。その飲みっぷりに、女将さんは心配そうに顔をのぞき込みながら、二杯目のビールを差し出してくれた。
「どうしたの? 瑠奈ちゃん。そんな無理な飲み方しちゃって。もしかして失恋でもした?」
「いえ。実は……失業したんです!」
私は空のビールジョッキをテーブルに置きながら、半ば叫ぶようにして答えた。
「会社が倒産しました。なんでも社長が、会社のお金を持ち逃げしたからって」
「えぇっ!? 大変だったわねぇ」
「ま、もういいんですけどね。あんなブラック企業、いつか辞めてやろうと思ってましたから」
やけっぱちになって、二杯目のビールも一気に飲み干した。それは、まるで三日間砂漠で過ごしたあとに飲む水のように、ぐんぐん身体に染みこんでいく。アルコールもじわじわと効いてきて、頬と耳がほのかに熱を持ち始めた。
「無茶したくなるのもわかるけど、身体は壊しちゃダメよ。はい、これサービス!」
「わっ、いいんですか? ありがとうございます! 女将さんのお料理、大好き!」
職を失った私を哀れに思ったのか、女将さんはサバの味噌煮を差し出してくれた。白髪ネギとショウガが添えられ、味噌の香りがふんわりと鼻をくすぐる。空腹を忘れていた私のお腹は、ぐうと大きく鳴った。
「いっただきます!」
私は両手を合わせると、パキッと割り箸を割る。そして柔らかなサバの身を一切れ、大きな口で頬張った。そのほろ苦さが口の中に広がって、釣られるように明日への不安がじんわりと滲む。
「明日からどうしようかな……いや、今は忘れよう!」
私は小声で自分に言い聞かせるようにつぶやく。そして上を向いて、なみなみに注がれた三杯目のビールをあおった。
それから浴びるほどビールを飲んでいたら、女将さんが終電の時間を教えてくれた。私は帰り支度と会計を済ませて、ジャケットを羽織る。
「そうだ、これ。瑠奈ちゃんにプレゼント!」
会計をしていた女将さんは、レジ横から何かを取りだして、レシートとともに手のひらに載せてくれた。
「バイトの子が作ってくれたんだけどね。とっても可愛いから、常連さんに配ってるの」
手を開くとそこには、少し鼻のひしゃげた招き猫のステッカーがこちらを見上げていた。そのなんとも気の抜けた表情に、つい笑みがこぼれてしまう。
「ふふっ、かわいいですね。見てるとなんだか元気になります」
「でしょう? 『幸運が訪れますように』ですって」
楽しげに笑っていた女将さんは、握った手に少し力を込めた。その手からは、純粋な優しさと温かさを感じる。
「瑠奈ちゃんにも、きっと良いことがあるよ。だから頑張ってね」
「はい!」
女将さんの言葉に、私は元気よく返事をした。ステッカーをそっと手帳の間に挟んで、暖簾をくぐる。
「幸運かぁ。いいこと、あったらいいな」
女将さんのお陰で心も腹も満たされて、ぼんやりとした幸福感を抱えたまま最終電車に乗った。平日の終電だけど、この車両には私以外の乗客はいない。ガタンゴトンと音をたてる振動が心地よかった。それに誘われるように眠気がやってきて、目を閉じる。
このまま電車に乗ってどこか遠くに行きたい、なんて突発的な考えが脳裏に浮かんだ。旅行もいいな。この間SNSで見た、温泉旅館なんてどうだろう?
そんな期待をぐるぐる考えていると、ふと故郷の山を思い出した。山に囲まれた小さな古民家で、慎ましく暮らしているであろう、祖母の姿を。
『……おかえり』
家に帰るたび、ぶっきらぼうに放たれるその言葉に萎縮していた。しかし言葉の裏に隠されていた優しさを知ったのは、皮肉にも独り立ちしてからだった。
久しぶりに、田舎に帰るのも悪くないかもしれない。もう何年も帰っていないし、あの頑なな祖母だって少しは歓迎してくれるはずだ。私はそんなことを思いながら、まどろみに意識を預けた。
いつしか電車の音は消え、振動も止んだ。
その代わりに感じるのは、頬を撫でる風。聞こえるのは軽やかな鳥の声、香るのは草木のさわやかな匂い。夢にしてはやたら具体的な感覚に、目を開けた。
「え……!?」
目の前の世界は、電車の中から一変していた。私は屋外にいて、頭上からはキラキラと眩い光が差し込んで瞬いている。混乱している私の真上には、金色の束がそよ風に揺れていた。それはただの金糸ではなく、私を覗き込むように立つ男の長い髪だった。
その男は、金髪と重々しい黒のマントを風になびかせている。髪の間からは人間にはない尖った耳が見えた。
「おい。生きているか、人間」
その低いバリトンボイスは、夢と言うにはあまりにも生々しい。小麦畑のような金髪は、朝日を反射していて、ただひたすら美しかった。
しかし、見惚れたのもつかの間。私は腹の底から叫び声を上げた。
「ぎゃああ! しゃべったぁ!!」
私は反射的に後ずさり、目の前のコスプレ男から距離を取ろうとした。だが、ここで醜態を晒すのは社会人としてあるまじき行為だ。なんとか居住まいを正して、取引先と対面するみたいに男にお辞儀をしてみせた。
「え、えーっと……ごめんなさい。あなたは、その……コスプレの方……?」
失敗。動揺のあまり素で話してしまった。
へそを曲げてしまったのか、あるいは全く気にとめていないのか、男は私の言葉を完全に無視した。流石にコスプレは直球すぎたか。と、思った時。エルフの耳がへなっと下がった。その様子を見て直感する。この耳、生きてる。というかこの耳、完全にアレだ。ほら、ファンタジーでよく見る『エルフ』ってやつ。
「この地に彗星が落ちたのは、五分前だ」
「はい?」
「見ろ」
男が指さした私の足元には、ミステリサークルのような不可解な模様が描かれていた。魔法陣にも見えて、気味が悪い。
「異世界人召喚の儀が行われた際、彗星が落ちるというのが通説だ」
「異世界人召喚?」
「ここ最近流行してるらしい」
「流行ってんの?」
「道端や街で転がっているのをよく見る」
「よく見るんだ?」
「こんな森の中で呑気に眠っていたのは、貴様が初めてだが」
「望んでこんな場所にいたわけじゃないですけど!?」
思わず声が裏返った私に、エルフは頭をボリボリとかいて、煩わしそうにため息をついた。
まさか自分が、最近流行りの異世界転生に巻き込まれるなんて思わなかった。こんな時に流行に乗らなくてもいいじゃない。
「いや、待った。それじゃあ、私……」
私はある仮説に辿りついてしまい、頭を抱える。
「元の世界で死んじゃったってこと!?」
「それは知らん」
「どうやって帰ったらいいの!?」
「それも知らん」
エルフは面倒くさそうに、しかし律儀に答えてくれた。このエルフ、話し方はぶっきらぼうだが意外と悪い人ではないんじゃなかろうか。
とにもかくにも、目下の最優先事項は安全な街への移動だ。そして、その為には協力者が必要。そう、今、ちょうど都合よく私の目の前にいるエルフなんて、ちょうどいいんじゃなかろうか。
「あ、あのう、エルフさん? 私、これからどうしたら……」
「それも知らん」
エルフの冷たいライムグリーンの目がこちらを睨む。だけど怖気付いている場合ではない。なんせ、こちらには命がかかっているのだから。
「あなたは、この辺りに詳しいですよね? 私を安全な街まで案内するなんていう、『契約』を結んでくれたりは……」
エルフの眼光が強くなる。知らない男の人に睨まれた恐怖で膝がすくんだ。それでもなんとか立ち直って、深々と頭を下げた。
「報酬は、私が持っている貴金属でなにとぞご容赦を! 即時決済します!」
私はあえてブランドロゴが見えるように、腕時計を差し出した。しかし、エルフは微動だにしない。値が張った腕時計だし、通貨の異なる世界でも、貴金属としての価値も高いはず。なのにエルフは一瞥すらしなかった。
「断る」
「交渉の余地なし!!」
キッパリと断られてしまい、私は地面に手をついた。
たしかに、仕方がない。彼にとって、私はただの他人。しかも珍妙な格好をした怪しい異邦人。彼が私に手を差し伸べる必要なんて全くないし、普通なら憲兵にでも突き出してしまうだろう。この世界に憲兵がいるか知らないけど。
ガックリと項垂れた私に目もくれず、エルフはマントを翻して背を向けた。
「お前を守るのは、俺の利益にならん」
「おっしゃる通りで……」
エルフは、私の背後にある巨大な蜘蛛の巣を一瞥した。
「ひい……ッ!?」
その巣のおぞましさに気を失ってしまいたかったが、気を失えば確実に詰む。私は気力と根性で正気を保った。茂みの向こうで無数の目がこちらを窺っていて、カサカサと嫌な足音が聞こえる。いや、気のせい、気のせい。
「この森は危険だ。戦闘経験のない者の死亡率は極めて高い」
えぇ、そうでしょうとも。あなたに置いていかれたら、私はきっと大蜘蛛の朝ごはんにでもなっていることでしょうよ!
「うぅ……」
神にも縋るような目を向けると、エルフは深く、それはもう深くため息をついた。
「俺は護衛しないし、交渉もしない。だが」
そこで一度言葉を切って、渋々というように言葉を紡ぐ。
「俺の後ろを歩くのは、貴様の自由だ。ただし、距離を保て。自力で生存しろ」
「え?」
エルフは私の返事を待たず、どすどすと森の奥へ歩き出した。十メートルほど進んだ後、エルフは振り返って叫んだ。
「聞こえなかったのか! 俺は貴様を護衛しない。そこで死にたいのなら勝手にしろ」
「わ、わかっています! 聞こえてます! すぐ行きます!」
「……ふん」
エルフは鼻を鳴らして、また獣道を歩き始めた。私は急いで地面に散らばった私物をカバンに押し込んで、エルフの大きな背中を追いかける。
その背中はどこまでも頑なで、一切の妥協を許さない鉄の壁のようだった。けれど、私がついてこれないほどの速度では歩かなかった。今走ったら、きっとすぐに隣に並ぶことができるだろう。
パンプスで獣道を歩くのは辛いけれど、泣き言なんて言っていられない。きっとあのエルフは私を待ってくれないし、助けてもくれないだろう。
「でも」
これは、最も効率的な危機回避ルートだ。きっと完全に見捨てられることも、ないんじゃないかな。
そんな淡い期待を胸に、エルフの背中を追うように獣道を走っていった。




