26-1.あってはならないこと
――夜、農村『モアサナ』
闇夜の凍える空気を割って、冷たい雨粒が打ち付ける。さっきまで温もりをくれた窓際の灯りも、今は凍えた景色に沈んでいた。
風か濡れた髪を額に沿わせ、瞼に張り付き目線を遮ろうとする。しかし、その不快感に気づかないほど、目の前で起こっている現実は意識を奪っていた。
「暗殺……ギルド!」
ダグラスの怒りに満ちた声。その時、キオの鋭い瞳に光が乗った。
やがて瞼が閉ざされる。その瞬間――彼の足元に青い魔法陣が輝き、勢いよく水が吹き出した。
「クレア!!」
ダグラスの声は轟音にかき消される。
雨を全身で受け止めながら、高々と打ち上がったキオ。宿屋の屋根に華麗に着地すると、見下ろした景色を眺めてから、死角へと逃げていった。
「っ――アン!!」
「わかってル!!」
再び高く飛び上がり、上空からキオを探す。闇に溶け込まんとする人影は、微かな光を反射してギリギリでアンに見破られた。
「西!」
「分かった!」
「ちっ……」
舌打ちしながらも再び水の柱を足場に逃走するキオ。それを空から追うアン、ぬかるむ地面を蹴り走り始めるダグラス。
「カーラ、宿に入って隠れてて!」
「キオ……なんで――」
「カーラ!!」
「ハルくん、私……私……」
ずぶ濡れのドレスの胸元を掴み、恐れか怖さに支配されたように顔を強ばらせる。目尻に溜まったものが雨ではないことは、想像せずともわかった。
その瞬間、彼女の肩を掴み、身体を揺さぶる。
「……カーラ!気持ちはわかる。でも今は後悔してる暇がないんだ!必ず助けてくるから、謝るなら彼女に謝るんだよ!!」
絶望一色だった顔色に頬の赤が加わる。目を細め、ぐっと涙こらえると、そこに決意に似た感情と不安が乗った。
「……うん、お願い!」
「約束する」
濡れた髪の隙間から、覚悟を決めた眼差しを向ける。
大きく頷いたカーラの頭に軽く触れた。再び立ち昇った水の柱に向け――雨を弾き、走り出した。
――
身体の感覚が鈍い。鉛のように重たい瞼。それに酷い揺れ。下手な御者がいたものだと胸の奥でため息を漏らした。
そういえば、彼と出会う前までの旅は酷かった。父が用意した御者は馬を操ることに必死だったっけ。
彼とザバールで知り合ってから、私の人生は常に彼と共にあった。あの鼻につく気取った笑みも、真剣に前を見つめる鋭い眼差しも、たまに見せる寂しげな横顔も……全てを知ってきたからこそ、彼の隣に立つことを選んだ。
この馬車は何処に向かっているのだろう。ダグラスなら帝国仕込みの手綱さばきで、気分良く旅ができる。
「――――」
朦朧とした意識の中で、記憶と現実が溶けていく。
そういえば、彼はどこに行ったの?
「――ア」
少し不器用で荒っぽいところもあるけど、私が思い描く理想の部下……
「ク――ア」
いえ、それ以上の大切な人――
「クレア」
名前を呼ばれた気がして、微睡みに抗うように瞼を持ち上げた。
同時に感じる凍てつく寒さ、叩きつける雨、ジクジクと嫌な痛みを感じる首筋。そうだ、こいつに――キオに毒を刺されて私……。
「クレアーーー!!」
「……ダグ……ラス」
「チッ、もう起きたか。アイツ失敗作渡しやがったな」
まだ遠く感じる耳に届いた声に応える。自身を運ぶ人の声で何が起きたのかを全て把握した。今自分は――キオに誘拐されているのだと。
ダグラスが助けようとしてくれている。でもここは……屋根の上なんだ。飛び移りながら私を運べるなんて、すごい機動力。彼じゃ追いつけないかも……。
「止まレ!」
次に聞こえたのは、空から近づく少女の声。キオが屈んだと同時にクレアの肩を掠めていく鋭い爪と青い翼。
「っ――」
「はっ!クレア!ごめン!!」
傷から血が滲み、雨水と溶け合って裂けた服を淡い赤で染めていく。僅かな痛みを感じたが、皮肉にもそれが意識を呼び起こすきっかけとなった。
「大……丈夫……よ、アンちゃん」
「根性あるな。さすがあの戦いで生き延びただけある」
「やっぱり……暗殺ギルド」
「悪いな、私怨はないが仕事でね」
「ふっ、悪い……けど、この作戦は……失敗するわ」
「ん?」
次の瞬間――暗闇の中、白い何かが横目にすり抜け、キオの顔へ飛びかかった。宙を舞う身体、引き伸ばされた視界、落ちることは――想定内。
『ボスン!』
身体が痺れるほどの衝撃を感じ、傷ついた左肩に熱が戻っていく。暖かく硬い二つの腕の温もり。安堵の息を漏らしながら、恐れに閉じた瞼を開いた。
「……迷惑かけるわね」
「……あぁ、まったくだ」
「でも信じてた――ダグラス」
身体を支えてくれているダグラスの太い腕に触れ微笑みかける。彼は僅かに頬を赤らめ、僅かに視線を逸らした。
また助けられたよ。ありがとう、ダグラス。
心の中で囁いた言葉を口にするのは、きっと今じゃない。そう感じて、冷たい雨に打たれながら再び目を閉じた――。




